さて。どうしてこうなったのだろう。
いやまぁ原因は明らか。わたしの迂闊さによるものだけれど。それにしたってだ。
「ここなら落ち着けるでしょ」
どれだけ跳躍を続けたのか、ウェアウルフがようやく足を止めたのは、周りを田んぼに囲まれた人気のない神社だった。
「むしろ落ち着けないでしょ」
思わず口答えする。ハンターの中にはもちろん神主もいる。虎口に飛び込んだようなものだ。
「大丈夫だよ。ここは無住だから」
勝手知ったるように言って、ウェアウルフはようやくわたしを降ろそうとする。
その無防備に近付いた首筋に、わたしは牙を立て――
ばきっ、と。ついさっきも感じた衝撃。
それが伝わり切る前に、わたしは体をコウモリへと散じた。
このコウモリ自体はわたしの肉体に違いない。ただ、それぞれが一部であるから、攻撃をそのまま受けるよりも分散され、軽減することができる。さらにいえば吹き飛ばされたりして体勢を崩すこともない。
もっとも痛みがないわけじゃないし、損傷がなくなるわけでもない。再び人型に戻ったわたしの頬はいくらか腫れていた。
「あ、ごめんね。つい手が出ちゃった」
一方のウェアウルフはわたわたと謝ってくる。どうやら本当に反射的な反撃だったようだ。いっそそうであっても毅然と振る舞っていればいいものを、何故か彼女は心底申し訳なさそうにしている。逆にやり辛い。
はぁ、と溜め息。これが人間なら、ハンターであっても戦況を立て直すこともできようが、なにせ相手はウェアウルフだ。俊敏性と破壊力はヴァンパイアたるわたしを上回ってる。不意打ちをこうも捌かれたらお手上げだ。
「なんでそっちが謝るの。はいはい、降参降参」
「だってさっきも言ったじゃない。私はあなたに血を吸って欲しいんだから」
そう言ってウェアウルフは、そっと自身の胸に手を当てる。
確かにさっきもそう聞いた。わたしにとってすれば、初めて覚えた血の味を好きなだけ味わえるのだからなにも問題はない。むしろあの味を思い出すだけで吸血衝動に襲われるほどだ。だけど。
「……本気?」
わたしは思わず眉をひそめる。
当然だ。自ら進んで食卓に上がろうとしているのだから。それも「全部」と言っていたのだ。人外であれ致命傷は免れない。なんらかの罠を疑うのは無理もないことだろう。
「もちろん」
だけどウェアウルフは平然と微笑む。さも、それこそが望みとでも言うように。
「自殺願望でもあるの?」
「ないことはないけど」
「……冗談に肯かないでよ」
反応に困るじゃんか。
「どっちかというと実験かな。だけど結果として死んでもいいし……むしろそうしたいのかも」
ウェアウルフは笑う。けどその笑みには陰が落ちていた。
「……自殺に付き合う気はないよ」
その態度が癪に障った。
別に死にたいってのなら好きにすればいい。でもそこにわたしを巻き込まないで欲しい。利用されるとなれば腹が立つのも当然だ。
「美味しくなかった?」
ぐぅ、と言葉に詰まる。
分かって言ってるのかと疑りたくなるほど的確だ。彼女の味を思い出す度、その白い肌に牙を突き立てたくなる。
これから先、きっとこれまでのようには戻れない。だってこの味を知ってしまったのだ。それまで腹を満たすだけでよかったドブも、それ以上のものを求めたくなっている。
だけどそれは、このウェアウルフの血を吸い尽くしても同じだ。もう二度と手に入らない逸品。それを吸い尽くしたら、同じものを求め始める。
それがヴァンパイアだった。そしてわたし以外のヴァンパイアが狩られていった理由でもある。
そんないっときの快楽で身を滅ぼすつもりはない。たまたまでも生き長らえたのだ。生きる理由なんて特になくとも、死ににいくほどの理由もないのだから。
……ならば彼女は。何故そこまでして。
いや、益体もないことだ。わたしは踵を返した。
「わたしも悪かったから。もう会わないことを願うよ」
たとえこの命が無為で惰性だろうと構わない。
これでいい。これで――
「――!」
その時、芳醇なにおいがわたしの足を止めさせた。
このにおいを、知っていた。だってついさっき味わったものだから。
振り返ると、彼女の腕から血が流れてるのが見えた。血の付いた、鋭くなった爪も。
「なにを……」
「いいの? このままだったら流れる落ちるだけだけど。もったいなくはない?」
ウェアウルフはそれまでとなんら変わらない、笑顔のままだ。
なにを考えてるか分からない。恐ろしささえ覚える。
ただ、目の前で捨てられかけたごちそうが、わたしを衝き動かした。
地面を蹴り、その腕へと飛び付く。鼓動に合わせてにじみ出るそのごちそうを、舐めるようにしてわたしは吸った。
やはりこのウェアウルフの血は甘露だった。これまで漠然と覚えていた渇きが、一滴口にするだけで満たされる。わずかに残った理性が、辛うじて彼女に歯を立てさせなかった。
血はそう時間を置かずに止まった。人狼の回復力という奴だろう。
ともあれ、馬鹿みたいに醜態をさらしていたことにようやく羞恥心が湧いて、わたしは彼女から飛び退いた。
「そ、そんなに美味しかった?」
「うるさいなぁ」
自分から煽ったくせして、なんでそんなに引いてるのか。理不尽だ。
もうこうなったら開き直るしかない。
「それで、なんのつもり?」
「あ、うん、そうそう。どうやら君は自制心が強いみたいだし、実験の方を手伝ってもらおうかなって」
「さっきから言ってるけど、実験って?」
「やることは単純。私の血を吸うだけ。いやなら全部吸う必要がない程度に、ね」
……本当に言ってることが変わらない。意味が分かんない。不審感が募る。
「……それでなんになるのさ」
「なったらいいなぁってだけだよ。だから実験」
「それだけ?」
「それだけ」
「……」
どうやら言うつもりはないらしい。
いくらか考える。罠……にしてはあまりに回りくどすぎる。このウェアウルフなら罠にかける必要なんてない。現にこれまで何度もわたしを殺せただろうし。そもそも初めて会ったばかりのわたしを殺そうとする動機はないはずだ。
ならば本当に実験? なにを目的に?
血を吸うことと一体なんの関係が……。
「……分かったよ」
まるで目的の見当が付かない。ただ、この血が長期間飲めるのであれば、わたしもわざわざ狩りに出向く必要もない。ひいてはこの無為な寿命も延びるというものだ。こちらとしては悪くない、どころか得しかないと言えよう。
「――ありがとう」
わたしが項垂れながら受け入れると、ウェアウルフは可憐と形容できる笑みを浮かべた。
強いて言えば……この変なウェアウルフと会わなきゃいけないことだけど。あとはわたしの自制心を総動員させなきゃ血を全部吸って彼女の思惑通りになることくらい。まぁ許容範囲だ。
「それじゃあ、よろしくね。えっと……」
手を差し出した彼女がわたしを見下ろす。
夜闇に紛れようとも、その黒い瞳は輝いて見えた。実際、夜目なのだからあながち間違いじゃないだろう。
「侑」
「そう。よろしく、侑。私は燈子」
「……よろしく」
彼女の手を取る。
こうしてわたしは、このウェアウルフと奇妙な契約を結んだのだった。