娘の部屋に踏み入るなどいつ振りだろうか。振り返ってみると、そもそも踏み入ったこと自体が少ない。それも最初の頃だけだ。
思春期の娘の部屋に入るなど言語道断、父親の沽券にさえ関わることだった。こと女所帯の我が家においては。
妻である涼子の父がなくなり、母が不安だからと藤代書店のある実家で同居を始める際、もういい年だからと娘たちにそれぞれ部屋を与えた。
それまではマンション住まいで狭く、仕方なしに姉妹一部屋だったものだから喧嘩も絶えなかったものだ。それが部屋が別々になると一人になる時間を持てるようになったからか……というよりも面と向き合う時間をある程度コントロールできるからだろう、俺も兄貴がいたから分かる……喧嘩の数を減らしていた。
幸いというべきか、怜も侑も部屋を覗こうかと心配になるほど気難しい子にはならず、真っ直ぐに育ってくれた。とはいえ会社勤めの俺がそう言ったところで、「育児を手伝わなかったくせにどの口が」と涼子にどやされそうではあるが。
だからこそ、こうして娘の部屋に入るのは、なんとなしに妙な感慨が起きる。
こうした感慨も、二度目だった。
……部屋の主がいなくなったここは、ひどく静かだった。
家具の類はほとんど全部そのままだ。なにせベッドは奇跡的に入れ込めただけでどう考えても運べないし、小学生の時に買った勉強机は本棚と一体型だし硬いし小さいしで使い勝手も悪い。座卓も置きっ放し。持っていったのは精々本棚くらいだろうか。
おざなりに放置された段ボールの中には本が詰まってるのだろう。何年か前に付けたばかりのエアコンは、もう使われることなく寂しげに佇んでいる。
そんな寂しい景色ではあるけれど、まだ辛うじて生活のあとが残っている。
そこを掃除しといて——そして自由に使っていいから、というのが娘の侑からのお達しだった。
それはそうだろう。結構早い段階から、侑は就職したら家を出る旨を公言していた。
無論、それには俺も涼子も頷いた。もちろん娘の一人住まいに心配は心配だったが、卒業する頃にはいい大人だ。一人住まいも当然だろうと。
就職が決まって、いざ入居先を決めようかとなった時に、「付き合ってる人がいる」「同棲したい」と突然告白されてもも、当然驚きはしたものの、その瞬間は二人して喜んだものだ。
ただその相手が七海ちゃん——娘の先輩の女の子だったことに、涼子はひどくショックを受けたらしい。
涼子は実の娘のように七海ちゃんをかわいがっていたが、それとこれとは別問題だったようで、強く反対した。ショックと興奮のあまりに貧血で倒れたくらいだ。
その間に俺も充子さんも、怜と侑とヒロくんの説得を受け賛成に回り、意識を取り戻した涼子も終いには渋々二人の交際を認めた。
だが、涼子自身は未だに承服しかねているらしい。侑の部屋の始末を俺に投げ付けたのも、そうした理由からだろう。ついでに言えば、賛成に回った俺への当て付けでもあろうが。
まだ自分の中で侑のことを消化し切れていないのだ。七海ちゃんのことも。
そうして感情的に二人の関係を否定してしまった、自分のことも。
侑は賢い子だ。きっとそんな母親の複雑な心境も察しているのだろう。折角の門出の日にも、涼子を見てどこか不安そうに、心配そうにしていた。
涼子も涼子で娘に気を遣わせてしまってる自分の情けなさや、それでも湧き起こる感情にやるせない気持ちに、終始仏頂面だった。
だがやはり心配なのだろう。ここのところ、涼子は少し上の空になることが多くなった。聞いても涼子は「なんでもない」とそそくさ逃げるが。
二人とも関係を絶ちたいわけじゃない。きっと必要なのは時間なのだ。特に涼子にとっては。
そのためならこうした雑務を請け負うのも吝かではない。これまでさんざ涼子にやってもらってるのだし。
ざっと見ても狭い部屋だ。よく不満を零さなかったなと思うくらい。これなら一時間もかかるまい。ついでに怜の部屋も掃除してやるか。あっちはちょくちょく帰ってくるだろうしな。
……掃除が終わったあと、娘に送る文言はもう決めてある。
【掃除終わったぞ】
【部屋はそのままにしておくから】
【いつでも帰って来なさい】
……はて、娘離れできてないのはどちらだか。
ふとその文面の滑稽さに気付いてしまい、不器用なのは俺もだったかと苦笑を浮かべながら、部屋の窓を開ける。
桜薫る春風が、カーテンをさわりと揺らした。