【ごめん、オーディションが長引いちゃって、帰るの少し遅くなりそう】
そのメッセージが着たのは、燈子の住むマンションが見えたところだった。
ありゃ、と声を漏らす。もうちょっと早ければどっか寄って時間潰すことも考えたけど、一度駅まで戻ってってのも面倒だし今月は節制しないとだし春先とはいえまだ寒いし……。
もっとも、オーディション中にスマホなんて触れないから、連絡が遅くなるのも仕方のないことではある。
【分かった。じゃあ待ってるね】
そう送信して再度歩みを進めた。
まぁ合鍵があるから燈子の部屋で待ってればいいだけの話だ。
マンションのオートロックも解除して階段を上る。元運動部のサガなのか、よっぽどじゃない限りエレベーターは使わない主義だった。
燈子の部屋は5階の角にあった。エイのストラップが付いた鍵を使って中に入ると、真っ先に燈子のにおいが鼻を衝いた。
燈子に染み付いてるこのにおいは、燈子が発してるものなのか、家のにおいが染み付いてるのか。後者のような気もするけれど、燈子が住んでから二年が経とうとしているこの部屋も、すっかり燈子のにおいが染み付いている。
玄関に足を踏み入れれば、センターが動きを察知して灯りを点す。わたしはそのままリビングに上がり込む。
燈子の部屋はそこまで物が多くない。以前上がらせてもらった陽ちゃん家よりかは流石に物があるけど。ていうかその時はあまりに物がなさすぎてびっくりしたくらい。
ちょっと肌寒いので弱めに暖房を点けたわたしはコートを脱いで荷物を下ろすと、冷蔵庫を開けた。相変わらず食材は入ってるけど、どう見積もっても今日明日分くらいしかない。生ゴミをチェックしてみると、案の定少ない。やはり先輩としての威厳をまだ捨てられないようだった。
昔は本棚の多くを占めていた参考書は数を減らして、代わりに演劇関連の指導書とかが増えた。流行りの本には今も目を通してるらしい。
大学生になってクローゼットの中もかなり増えたと思う。制服じゃなくなったからバリュエーションを広げなくちゃいけない関係もあるんだろう。実際わたしも高校の時に比べて服はかなり増えた。
その一角にはわたしの使う用の服もちゃんと置いてある。お泊り用だから私服と下着と寝間着まで。
ただ時折、燈子が変なことをしてないか心配になったりもする。ウチでベッドのにおい嗅いでるの知ってるし。なにがそんなにいいんだか。
そんなことを考えていたからか、ふと、クローゼットの外にかけっ放しになってるコートに目がいった。
よく使うから出してたのだろう。だけど今日着ていってないってことは、燈子にとっては暖かい日和らしい。体温の違いなのだろうか。
薄茶色をしたコートはわたしにとっては少し大きい。オーバーコートというのもあってなおさらだ。
「……」
誰もいないと知ってるのに辺りを見渡してからコートをハンガーから外して、羽織るようにして身にまとう。
……燈子のにおいがする。
じんわりと温かい。
においと熱にまとわれて、まるで燈子に抱き付かれてるみたい。
さっきまで暖房も点いてなかったから、むしろ冷えてるはずなのに。
温かい。
こういうことなのかもしれない。燈子がにおいを嗅ぐのも。それはそれとして恥ずかしいから止めて欲しいのだけど。
……あれ。ってことはわたし今恥ずかしいことしてるんじゃ……。
「ただいまーっ」
玄関扉が勢いよく開いた音が響き渡った。
びくっと跳ね上がる。そうしてようやく自分の行動を振り返った。
慌ててコートをハンガーにかけ直してホッとしていると、リビングに燈子が駆け込んでくる。
「侑っ」
「ちょっとっ、もー……」
勢い抱き付いてきた燈子の背中をぽんぽんと叩く。
……あぁ、でも、やっぱり。
燈子が一番いいや。
「……今日の侑、なんかにおい薄いね?」
「そ、んなことないよ」