隣の部屋に引っ越してきたという人は、律儀にも挨拶をしてきた。
「初めまして。お隣の――号室に引っ越しました、――と申します。先日は引っ越しの作業でご迷惑をおかけしました。仕事の関係上一年ほどの短い間になりますが、何卒宜しくお願い致します」
「あー、どうも。烏丸です。一応自由業の身でして、生活リズムが不規則でこちらもご迷惑おかけすると思いますがよろしくお願いします」
「いえいえ!こちらも仕事で不在の時が多いので……あ、ご挨拶のしるしで、よければ。今後ともよろしくお願いいたします」
沢口と名乗ってきた男性は『ご挨拶』という熨斗紙が巻かれた箱を差し出してきた。それを受け取れば、スーツ姿でかしこまったその男は「それでは私はこれで」とビジネスバッグを持ってそそくさと立ち去ってしまった。扉を閉めて玄関先で熨斗紙を含めた包装紙をべりべりと剥がせば、それはドリップコーヒーの詰め合わせだとわかる。わかりやすく顔を綻ばせた戒善の元に、話唱はふわりと近づく。
「隣人か」
「うん。もう仕事行っちゃったけどね」
「へぇ。あたしも迂闊に横の部屋すりぬけられねぇや」
「何やってんだよ……」
コーヒーパックの中の一袋を取り出し、さっそくマグカップにセットする。話唱はテレビから流れる音楽に合わせてくるくるとダンスの真似事をして楽しんでいる。怪異の表情はやはりいつものようににやついており、それに対して人間は辟易としていた。こういう顔をしている時の話唱はたいてい面倒ごとの手前だとわかっているのだが、今回ばかりは戒善もその要因が何かをわかっている。だからポットが湧いてもなお彼らはだんまりでいた。
「仕事の事情らしくて、一年くらいらしいね。ここにいるの」
「一年ねぇ。持つといいがな」
「…………」
黒い苦みがカップの底に溜まり、ドリップを捨てて牛乳を注ぐ。コーヒーがコーヒーたる所以の黒さは、やがて牛乳に犯され失っていった。
三か月も経った頃、戒善は打ち合わせから帰ってくる時にたまたまそれを目にした。青いシートが戒善の部屋……の、隣を覆っている。肉付きのいい男たちが家具を持ち上げてこちらに移動するのを廊下の端で見届けていた。しばらくそうしていると、やはり挨拶の時と同じスーツ姿の隣人が近付いて話しかけてきた。
「すみません、騒がしくて」
「いえ、いいんです。引っ越すんですか」
「……はい、そうですね」
「一年ほどとおっしゃっていたような気がしますが」
「まぁ、ちょっと。事情がありまして」
「そうですか。お仕事、頑張ってくださいね」
「あ、ありがとうございます。……その、」
「はい」
「か、烏丸さんは」
「?」
「……いや、結構です。すみません、もうすぐ荷物の運び出しが終わるので」
「あぁ、構いませんよ」
そう話しているうちに元々多くなかったのであろう荷物の運び出しは終わり、「ありがとうございました」「ええ、お気をつけて」という簡素な挨拶を交わして彼らの関係は終わった。自宅に戻った途端ドアの向こう、正確にはマンションの一階部分で叫び声が聞こえた。子供の、可愛げのない本能からの涙交じりの叫び声。しかし戒善は甲高いそれに眉をほんの少し顰めるだけで、戒善は荷物を置きに寝室に向かう。どさ、と鞄を置いたタイミングで話唱が隣の部屋をすり抜けて近づいてきた。
「これだけ持ったら大した方だろ」
「まぁね。それはそれとしても勝手に隣の部屋に抜けるのはやめておいた方がいいと思うけど」
「はいはい」
ドリップコーヒーの袋を開ける。それは引っ越してきた男が持ってきた最後のコーヒーであった。
埋め立てた古井戸から毎日子供の叫び声がするが、町の人々は聞こえないフリをしている
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