もはや慣れ親しんだ木製の扉を開くと、ドアベルのころころとした音色とともに喧騒の熱気が私を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。相変わらず忙しそうですね」
児玉さんは嬉しいような大変なような苦笑いを浮かべて、「お好きな席にどうぞ」と慌ただしそうにお客さんの元に駆けていった。
今日は幸い座ることができるようだ。店内を見回し、カウンター席の隅に腰を下ろす。
それにしても、と視線を巡らせる。
本当に騒がしくなったものだ。児玉さんには悪いけれども、私としては前の落ち着いた雰囲気の方が好きだったのだけど。
昔ながらのシックな喫茶店Echoは、私以外にも多くの常連客を抱えるようになった。看板メニューを作ったのも功を奏したようで、口コミの評判も上々。とはいえ席数もそう多くはないこじんまりとしたお店なのは変わらないものだから、最近は休日なんかに外で待機列を見ることさえあった。
おかげで児玉さんはてんやわんやだ。本当は再来年に手を付けるつもりだった二階席の解放を来年に繰り上げ、年末の繁忙期に向けてバイトを雇うんだとか。
私も誘ってもらったのだけど、生憎と遠見東高校はバイト禁止なのだ。児玉さんも分かってるだろうにわざわざ聞いてくるのは趣味が悪いというべきか、それとも同じような人間としての誼だったりするのかもしれない。そんなこと箱崎先生に知られたら怒られるだろうに。
これだと結構時間かかりそうかな、と思っていると、厨房から音が聞こえるのに気が付いた。相変わらず児玉さんは店内を駆け回ってる。多分厨房スタッフのバイトをもう入れてるのだろう。繁忙期だと教える時間もないだろうし、早めに仕込んでおいてるというわけだ。
と、ステンドグラスのテーブルライトの下に、小枝が飾られていた。楓――いや、紅葉だ。その区別は俗語の類ではあるけれど、その名前の通りに色付いた葉が何枚か付いていて、今の季節を感じさせる。どうやら他の席にも同じように飾ってあるらしい。
「お待たせしました。ブレンドでよかったですか?」
「はい。それとこの……オススメで」
私がそう伝えると、児玉さんは「はぁい」と笑みを浮かべて踵を返した。
ちょうど注文が一通り落ち着いたようで、児玉さんはカウンターに入ると私の目の前でランプを点け、サイフォンでコーヒーを淹れ始めた。
「紅葉、小洒落てますね」
私がそう感想を口にすると、児玉さんは照れるようにはにかんだ。
「あぁ……ありがと。伝えておくよ」
「てことは、箱崎先生のアイデアですか?」
「そ。一応現文以外に古典も教えれるからなのか、こういう風に季節を感じるのが好きみたいでね」
「なるほど。私もその気持ちは分かります」
私の場合は家に庭があるからなのだろうか。四季の移り変わりや景色を眺めるのは、落ち着きを覚えて好ましい。
……ただこの赤い季節には、同時に苦さも舌先ににじみ出てしまうのだけれど。
「あの子とは仲よくやってる?」
その思考を読んだかのように、児玉さんは私に問いかけてきた。
舌先の苦味が広がった気がする。
「……まぁ、仲は悪くないと思います。クラスが別だから、会う機会も減りましたけど」
「そっか」
——仲は悪くない、というのも、実際はどうなのだろう。
正直に言うと、以前にも増してぎこちなさはある。私の気持ちを伝えて断られたのだから。
私の気持ちはもう燈子に知られてて、私も燈子の気持ちを知っている。
だから向き合いにくい面はある。お互いの心の内が——好意の行き先が——分かってしまっているから。
ただ燈子の気遣いと私の意地とで、表面ばかり繕えてるだけ。
……もちろん、実態としてはそこまで緊迫していない。きっと普段は無意識でしかなくて、時折そうした顔が意識に出るってだけ。
それに、表面化するほど会うことも今はないのだから。生徒会を辞めたあとはなおのこと。
それでも燈子を見れば、変わらず目が彼女を追いかける。
やっぱり私はあの子のことが好きなのだろう。未だに。
……それがいいことなのか分からないのが、辛いのかもしれない。
燈子との距離が、今の私には分からないのが。
「難しいよね。なんていうか、距離感がさ」
それは児玉さんにも経験のあることらしい。心地のよい低い声で、訥々と言葉がかけられる。
「……はい」
「私も色々あったよ。もう次の日からさっと距離置かれたり、最初の方はそうでもなかったけど段々疎遠になったり……」
その言葉に想像が追随してしまい、すぅと背筋に冷や汗が走る。
今の距離感を思えば、段々と疎遠になってしまうことは充分にあり得た。大学の進路も別なのだから、余計に。
今はまだ燈子と一緒にいられても。その内……。
「でもそれは告白を断られたから……ってだけに限らないよ。友人関係とかでもそういうのは普通にあるし」
児玉さんを見上げる。容器からカップにコーヒーを注いでいるその目は、どこか遠くを見るような、あるいは懐かしむような、優しい眼差しをしていた。
「結局なにを大切にしたいか——関わり続ける勇気を持てるか、ってところなんだろうなって思う。誰かと関係を続けるって、きっとそういうことなんだよ」
……臆病な私には中々厳しい言葉だ。だけど本当にそうなんだろう。
児玉さんは口にしなかったけれど、きっと彼女自身そうしてきたんだろう。断られて、距離を置かれて……そこで追わなかった。
ひょっとしたら児玉さんも私と同じように恐れたのかもしれないけれど。それ以上関わろうと思わなかったから——思えなかったから、児玉さんも関係を続けなかったんじゃないだろうか。
そういう取捨選択が……いや、そうじゃない。ここで言いたいのは逆だ。
取ろうと思ったものを取ろうとし続けるのが大事なんだろう。
けど私はもう、燈子のことを諦めてしまってる。
ただ、未練がましいだけで。もう届かないと思い知ってしまってるくせに、惹かれてしまうだけで。
その意味で私はまだ子供なのだろう。児玉さんみたいに割り切れないのだ。
……いつか。いつか割り切れるのだろうか。
思い出として、燈子を想うことができるように。
「……あんまり役に立たなかったか。ごめんね」
「いえ、そんなことは……。ありがとうございました」
どうやら顔か態度に出ていたらしい。気を遣われてしまい、私は慌てて手を振った。
児玉さんは作業が終わったらしく、一度厨房に入っていくとお皿とカップをお盆に載せ、歩み寄ってきて私の前へと並べていった。
「お待たせしました。ブレンドとオススメのパンケーキです」
実のところ、Echoのパンケーキは初めて頼んだ。
最近追加された看板メニューで、評判を呼んだ一因らしい。
パンケーキの横にメープルシロップが入った小さな容器も添えて、児玉さんは私の顔を覗き込んだ。
「よければもう少し相談に乗らせて欲しいな。しばらくは忙しいから待ってもらっちゃうけど」
「……そうですね。私ももう少し言葉にしてみます」
流石にそこまで言われれば断る気も起きない。
その厚意に甘えることにして頷くと、児玉さんは「ごゆっくりどうぞ」と言って微笑んだ。
遠ざかっていく背中を見送り、まずはコーヒーで口を湿らせてからパンケーキにメープルシロップをかけた。
そっとナイフをパンケーキに添える。少し力を入れるだけで、パン生地に刃がすっと入っていく。
一口、パンケーキを食べてみる。
まるで抵抗のない、ふわっとした触感。口の中で溶けていくみたいだ。
生地の持つわずかな甘みに、メープルシロップのねっとりとした、だけどしつこ過ぎない甘さ。そこにシロップの持つ特有のほの苦さがアクセントになっている。
そうやってパンケーキを堪能してから、私はもう一度コーヒーを飲む。
甘さと苦さで、口の中はかき雑ぜられていた。