コンコン、と木製の分厚い扉を指で叩く。これで気づいてくれたらいいけど、中の人はきっと、いや間違いなく体調が悪いのだから、ノックなんかに気づかず寝ているかもしれない。
もう1度ノックをして、そこで、ノックに気づいていても動けないくらい体調が悪い可能性に思い当たって、一気に焦りが増す。が、ちょうどそのとき内側から物音が聞こえて、扉が小さく開かれた。
「……どちら様」
「俺だけどぉ」
「詐欺師なら間に合ってま〜す……」
隙間からちらりと見えたくまくんの顔色の悪さにはギョッとしたが、軽口を叩くその様子に少し安心する。そんなことも知らぬ当の本人は、せっかく開いた扉の隙間がどんどん縮んでいくのも置き去りにして、部屋の奥へとフラリと戻って行こうとする。
「ちょっ……、入るからねぇ?」
扉が閉まってしまう寸前でドアノブを掴んでくまくんの部屋に押し入る。まだ外は日も高いはずなのに室内は薄暗い。俺の部屋とは少し間取りが違う部屋を眺めている間に、部屋の主はぼすん、とベッドに身を沈めていた。
「ふふ、っ……セッちゃん、入らないつもりだったの?」
自分の顔色と同じぐらい白いシーツにぐったりと身体を伸ばしながら、楽しそうにクスクス笑っている姿のあべこべな光景に、部屋に入ったら言ってやろうと思っていた文句まがいの言葉の数々は頭を引っ込めてしまった。入り口での問答だけでは分からなかったけど、よく聞けばその声も普段より掠れている。
「……大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
見えないから聞いているのだ。くまくんが横たわるベッドの傍まで近づいて、しっかり視線を合わせて逃げられないようにしてやる。脂汗で前髪が額に張り付いているのが痛ましい。
「どこが辛い? 教えて」
「……きもちわるいの。船から、ずっと」
「そっか。教えてくれてありがと」
やっと白状したこの馬鹿は、バツが悪そうに反対方向を向いて背中を丸めた。べつに、くまくんが罪悪感みたいなものを感じる必要はどこにもないんだけど。そっとこちらに向けられた背中をさすってやると、「ごめんね」と小さい声が転がってきた。
*
「あ、起きた?」
シーツが擦れ合う音に顔を上げる。背中をさすってあげたら気を失うみたいに眠りについたくまくんだったけど、20分もしない内に目が覚めてしまったようだ。寝返りのひとつもしなかったから、時々ちゃんと息しているか不安にすらなったことは本人には隠しておこう。
「……っ、せっちゃ……吐きそ……ん、っ」
「わかった。起きれそう?」
「おといれ、行く……」
寝る前でもすでに最悪だった顔色は、今や一切の血の気を感じられないほど真っ白になっている。そのせいで赤が際立つ瞳には涙が張っていて、しんどそうに瞬きする度に周りの皮膚を濡らした。吐き気に抗うように身じろぎはするものの、それ以上動けない様子のくまくんの腕を引いて抱き寄せて、支えてゆっくり歩かせる。
「ん、ぅ……おぇっ」
くまくんの背中が震えて、びしゃり、と濁った水が陶器で跳ねる。粘度がないそれはすぐに元からあった水を汚しながら混ざっていく。さっきとは違う意味を込めて背中をさすると、便器の縁を握るくまくんの指にぐっと力が入ったのが見えた。
「う、げぇぇ……っは、うぇ……」
便器に顔を突っ込みそうなほどえずく割には、肝心のものはあまり上がってくる様子がなくて、ぴちゃぴちゃと薄く色のついた液体が舌の先から流れるだけ。はふ、と呼吸のために顔を上げたくまくんの顎から、もはや何とも判別のつかない透明な液体が玉になって落ちた。
「は、ふぅ……けほ、ぇ……はぁっ」
「まだ気持ち悪い? あんまり吐けないみたいだねぇ?」
「ん。さっきも、吐いた、し……っんぐ、えぇ」
「は?」
予想外の告白に、絶え間なく動かしていた手も止めてしまった。また込み上がってきたらしい、ほとんどが水の吐物を便器に吐き出しているくまくんを凝視してしまう。
「吐いたって? 部屋で?」
「けふ、……そ。船で食べたご飯も、ぜんぶ、吐いちゃった」
お腹が空っぽなんだねぇ、なんて、苦しさが色濃く滲む声で嘘みたいに呑気なことを言う。確かに多少は船上で振る舞われた食事を摂っているところを見ていたから、まるで固形物が出てこないことに違和感はあったけど。まさかもう嘔吐した後だとは想像だにしていなかった。
「ゔ、……ぇ、お……うぉぇ、っ」
背中をさするはずだった手を宙に泳がせている間にまたえずき声がトイレに響いてハッとする。ぱしゃ、と薄黄色い水分が注がれて水面を上下に揺らした。胃液だ。本当にくまくんの言う通りお腹が空っぽなんだろう。
ドキリと鼓動が早くなったことなんて知らないくまくんは、嘔吐のせいか小さく震える指先でカラカラとトイレットペーパーを巻き取っている。それでもやっぱり上手く取れないようだから、見兼ねて後ろから手を伸ばして千切ってやった。
「ありがと……」
「もういいのぉ?」
「ん。もう何も出ないと思うから」
そう言いながら壁伝いで立ちあがろうとするのを、両側から手を回して慌てて支える。ぐらぐらと左右に揺れていて見ていられたものじゃない。
「そうじゃなくて。もう気持ち悪くないの?」
「さっきよりはマシ」
つまりは気持ち悪さは残っているということだろう。それでも、行き道よりは心なしか軽い足取りでベッドに戻ったくまくんは、ふかふかのベッドを享受するみたいに寝転がってみせた。
部屋に入ったばかりの時には気にも留めなかった、ベッドサイドにあるゴミ箱の中のビニール袋は、まだ到着したばかりなのに不自然に膨らんでいて口が縛られている。ベッドから抜け出すこともできずに嘔吐したことが推測できて、もっと早く様子を見に来なかったことを後悔する。
「何かして欲しいこととかある?」
「べつに〜……。あ」
「何?」
「背中、さすってくれたら落ち着くかも」
「いい?」なんて言いながらとっくにベッドの上を転がって背中を向けているこいつは、俺が断らないことを分かっているに違いない。ゆっくり上下に手を滑らせてやると、くまくんがちょっと脱力するのを感じた。
「……せっかく南国に来たんだし、ちょっと涼しくなって、くまくんも元気になったら外の空気でも吸いに行こうか」
「……セッちゃんって実はロマンティストだよねぇ? 南国の空気なんて、これから嫌ってくらい浴びる予定なのに」