くまくんがもぞもぞと一際大きく動いたのを見て、中身が半分くらいまで減った珈琲の缶を近くのテーブルに置く。これなら香水の匂いも上書きできるかと思ってくまくんに買ったけど、本人が飲まないから俺が続きをもらってちびちびと飲み続けていた。
「……寝れない?」
眠くなってきた、と横になってしまってからしばらく経つが、少しウトウトして、眠れたかと思ったらビクリと身体を動かす、その繰り返し。
レスティングルームのソファが硬くて寝れない、とか、そういう理由じゃないのはくまくんの割に険しい表情から簡単に読み取れて、見兼ねて声をかけると案の定すぐに返事が返ってくる。
「んー……。なんか、ずっとムカムカしてる……」
「ふぅん……」
くまくんに身体を寄せて、薄く目を開いたくまくんの顔をまじまじと見つめる。磁器みたいに青白い顔色は、確かにさっき話していた時よりも色を無くしている気がする。
「気分悪い? しんどいなら袋、もらってこようか」
「や……それは大丈夫。けど、ちょっと、おトイレ行きたいかも……」
ゆっくりとソファから身体を起こして慎重な手つきでお腹を何度かさする。張り詰めた吐息からも、どう考えたって「大丈夫」なんかじゃないことは一目瞭然だ。
「そういうのを、『気分悪い』って言うんだけど? ほら、立てる?」
「それぐらい平気……」
俺がせっかく差し伸べてやった手をスルーしたくまくんの手は、結局数秒後にはレスティングルームの机にぺったりと押し付けられた。振動で机と一緒に揺られた珈琲の缶がカタカタと小さい悲鳴をあげるのを横目に見て、くまくんの横に立つ。ぎゅっと目をつぶって机に置いた手にほとんど全体重を預けて左右に揺れるくまくんの肩を抱いて、軽くため息を吐く。
「……何が平気だって?」
「ゔう〜……平気、だと思ったん、だけど」
「ほら、トイレ行くんでしょ」
だけど、に続く言葉は発されないが、困ったように眉を寄せるくまくんの表情が答えだろう。ようやく自分の限界をしっかり認識したらしいくまくんは、自分だけで身体を支えるのは諦めたようで、くったりと俺に体重をかけてきた。最初から素直にこうしていればよかったのに。
飲み差しの珈琲はレスティングルームに置きっぱなしにして、くまくんの返事を待たずにレスティングルームの出口に向かって足を動かし始める。くまくんの様子だけ確認したらすぐに香水選びに戻るつもりだったのに、とんだ誤算だ。
「……っう、ぷ」
「ちょっと、ここでは吐かないでよねぇ。ああ、やっぱり袋もらっておいた方がよかったかなあ」
「んん、それは、いらない……。トイレ、行ける……ん、ふ」
本当かな。既にさっきよりも顔色を悪くしているくまくんを見ていると不安にしかならない。俺の肩にぐったりと体重を預けて廊下を歩き始めてしばらくと経たない内に、元から苦しげだった呼吸は込み上がってくる物を押さえ込むようなものに変わっていた。
1歩1歩踏みしめるような足取りの歩幅は小さすぎて、とっくに視界には入っている、そう遠くないはずの2色の記号の元まで永遠に辿り着かないんじゃないかと思うほど。くまくんも同じように感じているみたいで、時折目的地に視線を送っては眉間に皺を寄せている。
「ねぇ。歩くのしんどいならおぶってあげるよ」
「いい、……その方が、出ちゃいそ、ぅ」
ゆるりとくまくんが首を左右に振っても、脂汗で額に張りついている前髪はびくともしない。口元を押さえてよたよたと歩く姿は限界そのものといった感じだけど、断られてしまった以上、俺にはその肩を支えることしかできない。
うんと時間をかけて、ようやくトイレへ入る角を曲がれば、気分の悪さに歪むくまくんの顔にもほんの少し安堵が混じる。だけど、その一瞬の油断さえ許されなかったらしい。
「……っん、ぐぶ。ん、っ!」
「あっ、ちょっと」
シンと静まり返ったトイレにくまくんの喉から水っぽい音が響いた瞬間、今までの動きの緩慢さが嘘みたいにくまくんが俺の腕の中から飛び出した。そのまま個室の扉を乱暴に開け放ってその中に押し入る。
くまくんに遅れをとった俺も、一応周りに誰もいないことを確認してから丸まった背中を追いかけて同じ個室に慌てて駆け込んだ。入った途端にツンと饐えた臭いと、便座から床へぽたぽたと滴る色のついた液体、それに、便器にしがみつくみたいに蹲っているくまくんが、嗅覚に、視覚に飛び込んでくる。
「げほ、っ……げほ、けふ、ぇ……は、あっ」
「あー……、間に合わなかった?」
「んゔ、ごめ、ん。でた……っうぶ……げほ、うぇっ」
くまくんが咳き込みの合間にえずくと、びちゃりと質量のあるものが便器に叩きつけられる音がする。少しだけその陶器の中を覗いてみれば、たった今吐いた量よりは多いだろう、茶色と黄色が混じったようなどろどろしたものが沈んでいた。
1度目の波は間に合わなかったのだと思ったけど、この様子だと身体が便器からズレてしまって半分は間に合って、半分は間に合わなかったのだろうか。今はとても、そんなことを確かめるどころじゃないけど。
「げぇ、っ……ぅ、うぉぇ」
反射的に手を当ててやっていた華奢な背中が強張って、すぐさまさっきより重たい水音が反響した。俺が想像していた以上に気分の悪さが酷いみたいで、くまくんは戻している間にもずっと胃のあたりを手で押さえていて。見兼ねて俺もくまくんの背中を何度もさすってやる。
「治らないねぇ。まだ出そう?」
「は、ぅ……わ、かんな……っけど、気持ちわるぃ……え、っう」
わからない、とは言いつつもぐらぐらと揺れる頭を突っ込むようにしてえずき続けている。この様子だとまだ戻しそうだ。
あんまりにも不安定な身体が見ていられなくて、つい手を伸ばしてその身体を支える。くまくんがえずく度に震えるのを肌で感じて、思わず顔を顰めた。
「おえっ……げぇ……っげほ、げぷ」
びちゃびちゃ、幾分か粘度がなくなったものを吐き出して、どうにか吐き気が落ち着いてきたらしい。しばらくぐちゃぐちゃになった水面を見つめてから、くまくんはトイレットペーパーで汚れた口元を拭き取った。
俺も何度かトイレットペーパーを巻き取って、便座にかかってしまったそれを片付けてやろうと手を伸ばす。けど、「だめ、汚いから……」なんて、便座に触れる直前でぐるぐるのトイレットペーパーは奪われてしまった。そんなの、今さら気にしてないのに。
手持ち無沙汰になった俺は、便座と床のべたべたに汚れている部分をゆっくりゆっくり拭き取るくまくんの顔をなんとなく眺める。その顔にやけに色濃く滲む疲労感の正体は、嘔吐のせいだけじゃなくて白い肌にうっすらと浮かぶ隈のせいでもあるだろう。
「あんた、ライブの準備にかかりきりになってるって言ってたっけ。どうせ寝不足なんでしょお、隈だってできてる」
「あは、バレてる……。ライブのときは、上手にお化粧しなくちゃだねぇ」
「俺が言いたいのはそんなことじゃないんだけどぉ」
誤魔化すようにへらりと下手くそな笑顔を浮かべるくまくんだけど、すっかり疲れ切っているらしく、俺の方へふらふらと倒れ込んできてしまった。冷え切った肩を軽く抱き止めて、自由な方の手でボタンを押せば、あっという間に便器の中に白が戻る。
「おぶっていい?」
「ん……ありがと」
数分前と比べて随分と落ち着いているけど、まだ余韻が残るのか、瞼を閉じて浅い呼吸を繰り返すだけで全く動かなくなってしまったくまくんの額をそっと袖で拭う。
俺の行動に気づいてうっすらと開いた赤い瞳は潤んでいて、軽い口調の裏に垣間見える具合の悪さにドキリとした。くまくんは返事をするなりすぐにまた目を閉じてしまったから、俺も何も言わないまま、心なしか前よりも軽いような気がするくまくんをおんぶする。
「はふぅ……。セッちゃんの匂い、落ち着く……」
「……いいの? 俺も、香水はつけてるんだけど」
くまくんを背負って歩き始めた矢先、思わぬ言葉が後ろから聞こえて足を止める。こいつ、香水苦手なんでしょ。ルーティンとして毎朝軽くつけている香水は、当然のように今日もつけてきている。
どうしてもくまくんの発言が不思議で、後ろを振り返りそうになったところを、うなじにぐりぐりと頭を擦り付けられて阻まれてしまう。柔らかい髪が首に触れて妙にくすぐったい。
「うん。これはセッちゃんの匂いだから、大丈夫……ふぁ、ぁ……」