「こんな時間に誰かと思ったら……。まぁ、君ならむしろ納得かもしれないね」
丑三つ時。共有ルームでゆらりと動いた黒い影に思わず目を凝らしたけれど、その正体に気づいて肩の力を抜いた。夜中だから足音は立てないようにして、その「影」の隣、ソファの空いている場所に腰を下ろす。
「雨が降っているからかな、今日は僕も何だか眠れなくてね……。ちょうどいい、せっかくだしお茶でもしながら」
「……ひゅっ、……けほ、っ」
「……おや」
隙間風みたいな音と咳。だけど、音の出どころはこの影、もといソファで膝を抱えるような形になっている凛月くんだ。僕に悟られないように今まで堪えていたのか、その反動でヒュウヒュウと不自然な音を立てながら何度か咳き込む。
思わず呼吸に合わせて苦しそうに上下する背をさすってやろうと手を伸ばしかけて、止める。無闇に触れては嫌がられてしまうかもしれない。
「……喘息、だね」
「んっ……、げほ、っぜぇ……」
こくこくと頷く凛月くんの瞳には、恐らく苦しさからうっすらと涙が張っていて、既にしばらくの間ここでこうして居たんだろうと窺える。酸素を求めてもがく姿を見兼ねて、結局背中をさすってしまう。凛月くんはそんなことを気にする余裕なんてないのか、意外にもすんなりと僕の手を受け入れてくれた。
宥めるように背中に置いた手を動かしてやる間にも、凛月くんは咳き込む度にぐらぐらと不規則に身体を揺らす。
「ぜ、……ひゅ、くるし……」
「凛月くん、吸入は?」
「いま、し、た……っ」
「したんだね、そう」
息を絞り出すみたいにしてやっと声を発している凛月くんに胸が痛む。凛月くんの姿に気を取られて気づいていなかったけど、よく見ればソファには吸入器が転がっている。1度吸入したけど、まだ効いていない、といったところだろうか。
「凛月くん。その姿勢だと苦しいだろう? こっちへおいで」
普段だったら存分に嫌がられるだろう、なんて考えながら凛月くんを自分に向き合わせて、抱えるような体勢をとる。ぐっと距離がゼロまで近づいたことで、ぜぇぜぇと嫌な音をよりクリアに感じる。
「大丈夫だよ。そのまま、ゆっくり呼吸しようか」
抱きつくみたいな姿勢のまま、凛月くんの背中を何度かさする。時折呼吸音に混ざる咳がまだ随分痛々しい。縋るように伸ばされた手で掴まれた僕の寝巻きの裾が小さな皺を作る。
吸入もしたばかりのようだし、どうしたものか、と思案しながらただ震える背に手を滑らせる。看病するのもされるのも人よりは慣れていると思っていても、いざこうして腕の中で友が苦しんでいるとピリピリと緊張感を感じてしまう。
「……っぜ、ふ……けほ、っ」
「おっと」
また凛月くんの身体が強張って、げほげほと咳き込む。ぎゅっと痛いくらいに抱きつかれて、あわやバランスを崩してしまいそうになるのをなんとか堪えた。両手できつく僕の寝巻きを握りしめた凛月くんの表情は見えない。
「あに、っじゃ…………ひゅ、ごほ……っ!」
「え?」
確かに聞こえた、今ここにいない「兄」を求めるその声に、つい聞き返す。本人からしても無意識のものだったのか、即座に否定の意を込めて僕の肩口でもぞもぞと頭が左右に動かされる。
「……ちが、っ……ぜぇ……なんでも、ない……」
「凛月くん」
ぐりぐり、押しつけるみたいにして何度も首を振る凛月くんの頭にそっと触れる。細い髪の間に数回指を滑らせると、ようやく頭を動かすのをやめてくれた。
「いいよ。悔しいけれど……その方が、君も安心できるよね?」
「……だ、から……ちがうって……げほっ、ひゅ……っ」
ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して、連絡先をスクロールする。凛月くんも僕が今からすることに気がついているようで、強情にもまだ抵抗するように僕の服を引っ張ろうとしているが、上手く引っ張れていなくて少しも動きを止めることはできない。
「……本当に、素直じゃないよね。君も」
「…………こんな時間に何の嫌がらせかの……」
草木も眠るような時間は、最近は吸血鬼さえも眠る時間らしい。寝起き特有のガサついた声が、しばしの間の後にスピーカー越しに左耳で響いた。もっとも、部屋を抜け出した時に既に彼が寝ていたことは確認済なのだけど。
「残念だけど、僕じゃお役不足のようだったからね」
「……はぁ? 嫌がらせなら、もう切るぞ……」
ついに不機嫌さを滲ませた声で電話の向こうの朔間くんが呻るのと同時に、腕の中の凛月くんがゲホゲホと勢いよく咳き込んで僕の身体ごと前後に揺らす。今まで音が拾われないように無理矢理抑え込んでいたのかもしれない。
幸か不幸か、凛月くんの咳は電話には乗らなかったようだけど、このまま他愛無い会話をしていたって話は平行線にしかならない。凛月くんのなけなしの抵抗は無視して本題に移る。
「凛月くんがね、朔間くんのことを呼んでいるんだ」
「凛月? 凛月と、おるのかえ」
さっきまでの眠たそうな様子はどこへやら、凛月くんの名前を出した途端に一気覚醒した様子に、これが「兄」なのか、と感心すらしてしまう。敵わないなぁ、なんて、挑んでもいない勝負に負けた気分だ。
「そう。凛月くんが共有ルームで発作を起こしていてね……」
僕が口を開くや否や騒がしい物音が鳴って、堪らずスマホを耳から浮かせる。少し腕を伸ばした左側から「すまぬ」と小さく聞こえた。
「今行くと、伝えておくれ」
「白鳥くんを起こさないようにね」
返事の代わりに規則的な電子音だけを届けるスマホをソファに置いて、自由になった手はカーブを描く凛月くんの背中にまた沿わせる。
「エッ、ちゃんの……ばか……っげほ! ん、ひゅー……っ」
「はいはい。だって、君が呼んだんだろう?」
凛月くんはいまだに駄々を捏ねるみたいに嫌がる素振りをするけれど、いくら否定したって、馬鹿と言ったって、まだ息継ぎなしではまともに話すこともできないこの有様では説得力の欠片もない。この抱きしめるような姿勢では、やっぱり直接顔を見ることは叶わないけど、この体勢を甘んじて受け入れてくれている時点で結局苦しさは改善されていないのだろう。
「だから……ぜ、……っ違くて、匂い……」
「匂い?」
凛月くんの発した言葉の意図を掴み損ねて聞き返すと、初めて首が縦に振られる。真意を探して思考を巡らせていると、またぎゅう、と背中越しに寝巻きが強く握られるのを感じる。
そう言えば、部屋では洗剤や柔軟剤を共有しているのだった。鼻のいい凛月くんは、朔間くんと僕の服が同じ匂いだったから、つい声を上げてしまったのかもしれない。
「ああ……。なるほどね」
僕が理解したことを示してやると、「そう」とだけ返ってくる。あくまで間違えてしまっただけ、というスタンスのようだ。賢い凛月くんの割には下手くそな言い訳だけど、この体調なら無理もない。
「ともあれ、もう来てくれるらしいから、朔間くんが着いたらもう一度吸入したほうがいんじゃないかな」
まだ随分苦しいんだろう?と背中に置きっぱなしだった手をまた上下に動かす。喘鳴も鳴り止まないし、さっきの吸入の効果は現れていないのがひと目で分かる。
言い訳も尽きたのか、それともこれ以上話すのも苦しいのか、もう反論も抵抗もしてこなくなった凛月くんの咳と喘鳴だけが静かな部屋に響く。パタパタと遠くから、この時間に相応しくない忙しい足音が近づいているのに耳を傾けて、時が来るまでただ手だけを動かし続ける。