小学生の頃、授業で必須とされていた国語辞典や漢字辞典を、特に意味もなくただ眺めていたことがあった。そんな経験を思い出しながら、##NAME1##は今日も万葉集を音読する。もう何年も前のこと。朧気になりつつある記憶を辿れば、たしか漢字辞典には仮名の成り立ちというおまけが付いていて、平仮名や片仮名は『漢字』が元になっていたはずだ。
 |平安この時代、文章を書く上で使われているのは、漢字と平仮名が折り混ぜられたくずし字。『か』は『可』であったり、漢字の意味などは全く問われることはなく、ただ音を利用しているだけの符号じみた文字が使われているようだと理解してからは、##NAME1##の学習スピードも上がったというもの。
 今日も今日とて、物の怪が##NAME1##の読み書きを教える師となっていて、いつもと違うのは陰陽寮に出仕していない昌浩が家にいることくらいか。隣の文机で何やら書き物や調べ物をしている少年に視線を向けた##NAME1##は、直ぐにその視線を元に戻し、手元にある歌集を見た。
 もう幾度となく読んでいて、どこになんの文字が書いてあるかが理解出来てきた頃合い。未だ、筆で文字を書くことに慣れてはいないものの、初めの頃よりは大分ましになってきた、と自賛したのはそうでもしないと心が折れそうだったから、というなんとも情けない理由からだった。
 書物越しに、太陽光を浴びている物の怪をそっと盗み見る。
 いまだ、##NAME1##の読み書きを教えているのは物の怪だったが、あの日、風に舞う紙類や書物達を捉えた褐色の腕を持つ人の姿をした『もっくん』に出会ってから、物の怪と##NAME1##との間には、それまでとは違った距離感が生まれていた。
 今までは手を伸ばせば触れられる距離にいた。
 けれど、今は全く手が届かないところにいる。
 もっくん、と呼べば返事が返ってくるし、手招いてみれば開いた距離を縮めるために物の怪は##NAME1##へと近づいてくる。
 けれど、それまでだ。
 今まで通りとはいかない。
 寂しい、なんて言っていいのかは分からないけれど、なんとなくそれを口にするのは憚られた。どうして、だとか、これこれこういう理由がある、だとか。明確な|理由わけは無いのだけれど、どうしてか心臓よりも深い内側の部分が、寒々しく冷えているような心地がするのだ。
 太陽光で透き通るように煌めく白い毛並みが、柔らかいことを知っている。首元をぐるりと回る、勾玉にも花弁にも似た突起が鮮やかで優しさを含んだ色だという事を知っている。優しい夕焼けの色をした瞳は、人間くさい表情を作るのに一役買っていることを知っている。
 猫にも兎にも似た体躯が、心の寒ささえも解いてくれそうなほど、温かであることを知っている。
「ぼんやりしてどうした」
 音読の声が止まったせいか、庭に面している縁側で丸くなっていたはずの物の怪が、そっと声をかけてくる。相変わらず子どものように高い声だが、いつも聞いているそれよりも僅かに硬いような気がして、嗚呼寂しい、と漠然と思った。
 なんでもない、と言えたら良かったけれど、親にも兄妹にも嘘が下手だと言われ続けていた##NAME1##のことである。誤魔化し方だって消して上手いとは言えないのだ。
「いや、なんか寒くって」
 結局は嘘とも本当とも言えない、曖昧でだいぶ抽象的な言葉しか出てこなかった。案の定物の怪からは、なんだそれは、と言われ、##NAME1##は何だろうねぇと苦く笑いながら返した。
「……そろそろ露樹さんの手伝いしてくるね」
 こちらの時代に来てしばらくすれば、太陽の動きで大凡の時間を測れるということは学ぶことが出来た。庭に作られた影を見て、##NAME1##は手にしていた万葉集を閉じると、静かに立ち上がって部屋を出ていく。
 ##NAME1##はとたとたと小さな足音を立てながら廊下を歩いた。
 脳裏にはずっと、あの日見た瞳を思い描いている。
 どうしてか、あの日見た瞳を、褐色肌の腕を、黒と見紛うほど深い紅の髪を、精悍な顔立ちをした人の姿をした『物の怪』を、忘れられずにいる。
 多分、物の怪の姿をしている方が、仮と称される姿なのだろうと思う。
 あの人の姿が、本来の姿なのだろうか。
 ##NAME1##にはその辺の事情は分からない。なにか理由があって、きっと物の怪は『物の怪』の姿をしているのだろう。
 金の双眸に見つめられたとき、僅かばかり体の芯が冷えるような、『畏ろしい』という感覚に襲われたような心地がしたことも、物の怪の抱える『理由』の一部分になり得るのかもしれない。
 何となくそんなことを思いながら、でも、と##NAME1##は進めていた足を止める。
 確かに少しだけ怖いと思ったりはしたけど、それでも、その畏ろしさ以上に、自分は知っているのだ。
 物の怪の温かさも、優しさも、可愛らしいところも、微笑ましい意地悪さも。
 けれど、知っている|つもり《・・・》になってしまっているのかもしれない。知っていると勘違いしているだけなのかもしれない。
 それは、少し――否、結構寂しいことだけど。
 ##NAME1##は細く息を吐き出しながら、止めていた足を再び動かした。
 それでも、あの日最後に触れた物の怪は、確かに##NAME1##の知る温もりを宿していたのだ、と。
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