--------------------------------------------
<<起承転結>>
起 平等病の男がいるよ
承 平等病の男は面白いが、周囲に疎んじられていて孤独だよ
転 そんな平等病の男が結婚の転機に恵まれたよ
  孤独なことを知っていたから手を貸したよ
  平等病は面白い彼の特性だが、それゆえ孤独になるようなら平等病を理解する人と一緒になる道を作りたかった
  (平等病を治したいわけではない)
  だがそれを彼は「唯一の友が自分の特性を理解しなかった」と取った
  それを言わなかったのは持って生まれた従順さと優しさの上だった
結 彼は結局理解されず孤独なままだった それは唯一自分以外の平等病罹患者である父が、あっさり平等病から抜けたからだ
  彼は父の支配下から抜けられなかった
--------------------------------------------
 結局彼の病因は親父さんにあったのだが、とうとうそれに気づかせてやれぬまま逝ってしまったのは何とも口惜しいことであった。
「この間借りた本、大層面白かったよ」
「そうかい。それはよかった」
「そこで僕からもきっちり二冊、本をお貸ししようと思う。だが、何がいいかね」
 未だ蝉の鳴かぬ初夏の喫茶店である。客はさほどおらず少し開けられた窓から通る風が心地よい。
「今のところは読みたいものはないなあ」
 私はつい先日貸した本を受け取りながら、平等病の彼にそう返す。きっちりした格子の大島紬に四角四面の神経質な顔。その年齢に不釣り合いなほど威厳のある表情がますます険しくなるのを見、「それはいけない」あっと思った。
「それはいけないよ。こちらが二冊借りて、こうして返したのだから君に二冊貸さなければ釣り合いがとれないじゃあないか」
「ああ、すまない、そうだったね」
「そうだ。平等ではない」
 彼は私の言葉にまるで悪い薬でも飲んだかのごとくわなわな震えていたが、こちらの謝罪に納得したのか腕を組んでふんぞり返った。彼の病は一事が万事この調子である。故に大変面白い。多くの者はこの辺りで彼の言葉に窮屈を感じて逃げ出してしまうのだが、実にもったいない。
「それじゃあ、あれとそれとを頼むよ」
「承知した」
 まともに取り合うのではなく、こうしていらぬものでも何か頼んでしまえば、彼はその二十代にしては随分と風格のある顔に年相応の笑みを浮かべてくれる。多少窮屈であるに違いないが、それを差し引いても面白い男であった。
 こんなエピソードもある。
「おいそれはどうしたのだ」
「これか? ……いや、大したことではない」
 季節は盛夏に近づいていた。相談があるから数週ぶりに会わないかと葉書をもらったのだ。本も返したかったのでいそいそと出ていった私は、喫茶店に現れた彼の顔を見て驚いた。彼の神経質な顔にできているのは傷口のまだ生々しい、何とも大きな擦過傷である。しかも一切隠すそぶりもない痛々しげなそれは喫茶店ではあまりに目立ち、普段無口な店主でさえちらと視線をくれ、むしろこちらが恥ずかしくなるほどだった。
「偶然な。年頃のお嬢さんと筋交いで行き合うた」
 席に着くと待っていましたとでも言うように女中がお冷やを運んでくる。話好きそうな彼女はきっと擦り傷を見たかったのだろう。彼は初め特段説明するつもりもなかったようだったが、あまりに私が見つめるので渋々といった体で説明してくれた。しかし要領を得ない。女性と筋交いで行き合って何故顔に擦り傷ができるのか。
「……そのお嬢さんに何かしたのか。かわいらしくてついひっかけたとか」
 真面目な彼にはあり得ないであろうことを敢えて問うた。
「そうだ」
 しかし返事は意外なもので肯定だった。大きな声で「ええっ」と返したせいか、店内の視線が 一瞬集まり、ついでに外で鳴き喚いていた蝉も「ミン!」と大声を上げて一匹飛び去りさえした。
 彼は周囲の様子に少し驚いたようだったが、不可思議そうに続けた。
「何かそんなにおかしいか。不注意だったのだ。僕の不注意で彼女を引っかけて、転ばせてしまった」
「ああ、そうか。そういうことか。それは……」
 何のことはない、「引っかけた」の意味が違っていたのだ。はあと安堵の息を吐き、そして違和感に気がついた。
「うん?  そんなら君が怪我するのはおかしくはないか」
「ああ。かわいそうにお嬢さんは顔に擦り傷を作ってしまった。だから僕は」
「まさか」
「お嬢さんに詫びた上で、顔を引っかいてもらったのだ」
「……」
「ましてや女性だから、僕の方は二往復にしてもらった。……何がそんなにおかしいのだ。先から」
 耳を済ましていたらしい店内の客の静かな笑い声に唆されて、ついつい押さえきれず私も笑い出してしまった。この平等公平への奴隷たるや、まさに病である。だから彼の友はやめられない。面白い男だ。
「それが平等というものだ」
 不満らしい彼は腕を組んでふんぞり返る。
「……ああそうだ、全くその通りだ。その通りだな」
 むすっとする彼にはただおだてを返して、代わりにコーヒーを一杯頼んで落ち着くと、気になったので問いかける。
「しかし、……お嬢さんはその、お前の顔を引っかくのを嫌がらなかったのか」
「よくわかったな。だが何ともできた女性でな。親父の真似をして口説いてみれば、すぐさま理解してくれた」
「……何だ、やはり口説いたのか」
「分からない者には、分かる者が噛み砕いて説明するだろう? それが公平というものだ」
「ああ、ああ、正しいともな」
 気づけば夏の日は落ちかけていて、空は半分夕暮れに近づいてきていた。いやあ本当に面白い男だ。彼の病はやはり傍から見さえすれば面白いのだ。しかし同時に憐れでもある。唇を引き結んで真一文字にした彼の顔が夕焼けに照らされている。
 結局この一悶着で、彼が私を呼び出した用件がなんだったか、お互い忘れてしまった。
 私が気に入らぬのは、彼のその真正の優しさも面白みも
しかし私は何というか、彼への憐れみも感じてしまった。
「ああ、正しい。……君の言うことは正しいとも」
「そうだろう」
 彼のこの、異常なまでの平等への執着は親父さんの教育の賜物だという。
 親父さんは若い頃ナンとか主義の書籍に当てられたらしく、人は皆全て平等なのであるから、お前は人より優れても劣ってもならぬと彼を教育した。得意な算術で満点をとれば叱責され、苦手な国語で零点をとればまた叱責され、彼はきっかり平均点をとる手腕が身に付いた。真面目な彼は親に反発するでもなく、ただ静かに従ったのだ。
 本来大人しく、何より優しい男なのである。先の女性の前で自らが転ぶのではなく右頬を差し出して、なおかつ二往復の擦過傷にしたのは、きっと彼自身の持って生まれた優しさなのだろう。
 何と不器用で、生真面目な男か。
 どうも偶然、その光景を見ていた者が居たらしい。
※友や家族とのエピソードを入れていく
↓の段が早い。もう少し伸ばす。主人公の心理がすぐに変わりすぎ。ついでに伏線を入れ入れ
 そんなふうにこちらとしては
 しかし驚いたのは、この平等病の男が件の擦り傷のお嬢さんとお近づきになり、あれよあれよという間に結納まで済ませてしまっていたことだ。しかも彼の方から言い寄ったのではなく、困惑していただろうお嬢さんの方から熱烈にアッピールしたらしい。何故、と思わないでもなかったが、まあ何とも気の効いたお嬢さんで、あの万年仏頂面の親父さんまで丸め込んで両家納得双方円満にことは進んでいったのだという。
 お嬢さん曰く、「お互いの不注意でもあり、面倒そうに立ち去る人の多い中、謝った上に右頬を差し出してくる人なんて初めてだった」とのこと。何がどう転ぶかわからないものである。
「いいお嬢さんじゃないか、器量よしで、君の人柄も買ってくれているのだろう」
 結納に至っても、平等男はどうも不安らしく何度も葉書を寄越しては相談をと私を喫茶店に呼び出した。何を女々しいことをと思わないでもなかったが、曰く「一番の友人に胸の裡を伏せておくのは公平ではない」という彼らしい理屈であり断るわけにもいかなかった。
 何より私もまた、「一番の友人」と言われてまで心の動かぬような冷血漢でもなかったのである。
「だから辛いのだ。俺はこの間彼女と出会い、まだ十分に知るわけではない」
「ふむ」
「公平ではないのだ。少なくとも平等でない。彼女の熱量と俺の熱量が」
 確かにまあ、彼の言う通り、言っては悪いが惚れているのは明らかにお嬢さんの方で、人への平等を気にする彼にあまりその気はないように見えた。だが、彼のその平等病をも愛し、彼の父すら口説き落とし、何より彼自身を愛してくれるような奇特な女性などこの機を逃したら生涯現れないのではないかとも私は考えていた。
「そうかなあ、……しかし……」
 いつものようにコーヒーに口をつけながら、じっと平等病の彼を見つめてみる。人生の大事に際して私なんかを呼び出して、一番の友人と言い放った彼の実直な顔を見つめてみる。
 今まで私は彼の平等病を半ば面白がって付き合ってきたが、この大事に友として呼ばれてまで、彼をからかうような気持ちは起こりようもなかった。
 思えば、かわいそうな人間でもあるのだ。
 母を早くに亡くし、父には病を押しつけられ、友には逃げられあるいはからかわれている。誰も彼と素直に向き合わない。しかし、そんな彼を唯一愛してくれている彼女と共にあれば、きっとこの憐れな、そして、実直な友人は幸せになれるのではないのか。
 余計な世話と言われればそれまでである。彼に一番の友人と言われ浮わつく気持ちもあったかもしれない。
 しかし友として幸せを願ったのも事実である。
 だからこそ、つまらないことを言った。
 「平等」についてもっとも考え、「平等」についてもっとも悩み抜いているであろう彼に、あろうことか「平等」についての講釈を垂れた。
「しかし君。世にはそんな夫婦、いくらでもいるさ。夫婦間で平等でなくても、世の夫婦とは平等だ」
「いや、だが……」
「今平等でないなら、これから平等になるよう愛を注げばいいではないか。K子さんが嫌いかい」
「そんなことはない」
 彼は驚いたように面を上げて頭を振った。何だ、丸切り脈なしではないではないか。
 蝉は疾うに去った秋のことで、店内は落ち着いて静かだった。私は息を整えると彼をまっすぐ見据えた。
「僕はね。君の一番の友人の僕は、ひとつ、君と平等でない点があるんだ」
「何だと」
「……僕は幸せなのに、君はちっとも幸せそうに見えないところだよ」
 彼は一瞬たじろいで、「そんなことはない。人と同じく幸せだ」と答えた。
「僕には、君が人との『平等』を後生大事にするあまり苦しんでいるようにすら見えるのだ。人と平等か公平かだけを確認して、君自身のことは置いてきぼりではないかい」
「そんなことは」 
「幸せになるのは、それこそ、誰もが平等に持っている権利だ。だが皆が幸せを感じるときはそれぞれ違う。僕ならそうだな、仕事から帰って娘の寝顔を見ているときかな。……その、君の言う『人と同じく幸せ』というのは、君は、君自身はどういうときに感じているんだい」
「……」
「君のその平等病は、誰のためにやっているんだい」
 彼はとうとうその神経質な仮面を捨てて、年相応らしい、二十代らしい若者の表情を見せた。何かを考え込む様子に、少しだけほっとする。同時に、私自身にも少し落胆した。彼の一番の友人と言われた私でさえ、彼を面白がるばかりで、こういうことを言ってやらなかった。
(すまないことをしたな)
 彼はただ素直に実直に、一番の友人と私を評してくれたというのに、何も返してやれなかった。
「……俺は……」
「あくまでこれは僕の考えだよ。君はもう、親父さんからもらったその平等病から抜けて、君自身で考えていいんだ。……家庭を持つのだから」
 彼は「いや、しかし」「あるいは」などと目を白黒させながら考えている。今まできっと思いつきもしなかったのだろう。
「ゆっくり考えるといいさ。そもそも、愛の平等など測りようもない話だ」
 彼は言葉を反芻しながら、テーブルの上に肘をつき考え込んでいる。その様子を見ながら、私は「よかった」とほっとした。
 少しは彼の心に波紋を投げ掛けられただろうか。きっかけになっただろうか。
 ――そんな慢心がいけなかったのかもしれない。
 とんでもないことをしでかしたと気づいたのは、それから四年も五年も経った時であった。
 平等病の彼のところにも子が生まれ、家族ぐるみの付き合いをするうちに気づいたが、彼は以前ほど平等、公平、と口にしなくなった。きっと家庭を持ったことで少しばかり視野が広がったのだろう、と高をくくっていた。
 とはいえ持ち前の平等性で、男だてらの家事育児を率先してやっていたらしい。これが果たして平等病のなせる技なのか、彼自身が持ち合わせていた優しさゆえなのか判断は付きかねたが、とかく例の擦り傷の奥さんはますます彼に惚れ込んでいき一方我が家では家内の嫌味がひどくなった。
 私たちは喫茶店で会うことはあまりなくなったが、近所であるためか時おり散歩道などで会うことがあった。
「親父がこっそり、俺と同じ本を読ませているようだった」
 ある日の筋交いでそんなことを聞き、思わず吹き出すところだった。あの強硬派の親父さんは、今度は孫である幼子にナンとか主義の本を読ませているという。
「まだ三つだろう。早いんじゃないか」
「ああ。それもそうなんだが。その前に、Tは……親父に全て『どうして』と返していて……、結局親父の方が先に降参していた」
「親父さんも孫には形無しだな」
 純粋無垢であるTくんの勝利である。私は笑ったのだが、彼の笑わない顔がどうしてか気になった。聞く前に、彼はかつての鋭いまなざしでこちらを見据えてきた。
「どうして、そう思うのだ」
「……え?」
 私がきょとんとしたせいか、「すまない、何でもない」彼は慌ててそう言って踵を返した。よろよろとした足取りであったが、何よりも最後に見た彼の横顔が以前に増して四角四面で、何だか数年前の彼に戻ってしまったようで一抹の不安を覚えた。
 彼と彼の親父さんの訃報が届いたのは全く同時であった。事故で二人とも大けがをし、それがもとで一日の内に亡くなったのだと電報は知らせた。ただその事実が青天の霹靂で、私はとるものもとりあえず、家内に頼んで色々と準備をし、ともかく葬式への参列を終えた。あまりの驚きに、挨拶は出来ていたか、焼香も出来ていたかすら覚束なかった。実感のないまま帰ってきて、ぼんやりと物思いに耽っていると彼の細君が一枚の書面を携えて訪ねてきた。
「この度は、誠に……」
 客間に通し、葬式場でも見たはずの細君の喪服を再び見た途端、ようやく背筋に悪寒が走って、彼の死んだことを唐突に理解した。目から一気に涙が溢れそうになるのに気づいて、ああ自分にとっても、彼は本当の友人であったのだとようやく気づいた。
 顔を張りつめて涙を押し込むと、その、かつて変わり者のお嬢さんだった細君は蒼白な顔面のまま紙の束を差し出してきた。そう言えば彼は筆まめだった。結納当初は何度も葉書を出してきた。では私に当てた手紙であろうか。
「故人の遺書でございます」
 手紙なんぞを遺してくれていたのかともう一度溢れそうになった涙は、今度は細君の言葉で引っ込んで、そして私の背にはもう一度悪寒が走った。事故で何故遺書ができるのだ。入院中に書いたということか。手紙を受け取らぬまま、馬鹿のような面で細君を眺める私に、その美しい細君は隈を作った目を伏せながら続けた。
「相打ちのようなものだったのです」
「相打ち? ……とは、いったい?」
 細君は悲しそうに笑うばかりだ。何だか嫌な予感がしながらも、彼の遺品でもあるので受け取った。表書きには「Sへ」とある。私の名だ。
「Sへ。我が唯一にして最大の友へ。今まで大変世話になったね。突然こんなことを言われても困るだろうが、君には本当に感謝している。俺のこの平等へのこだわりに『平等病』という名をつけてくれたからだ」
 嫌な予感は当たっていると、誰かの声がした。
「
だがそれは、今からの俺が平等病を脱してしまっては、今までの俺が」
 私は何か、とんでもない思い違いをしていないだろうか。
 平等病が悪と、私はいつの間に決めつけてしまっていたのだろう。
「俺は、父を否定しない。平等病を否定しない。それが俺だからだ。だから俺は、」
「何を……」
「俺はあの言葉を、決別と受け取った。数年かけてだ。細君に恵まれ、子に恵まれたことは本当に感謝している。しかし、やはり、平等ではない」
「……事故、事故、というのは……」
「はい」
「……」
 私はやはり、とんでもない思い違いをしていたのだ。
 彼に孤独から抜けてほしくて背を押したのは、
 平等病を悪とそう考えたのは。
 唯一の友であると自負しておきながら、彼に、彼自身でもある平等病に、否やを突きつけたのだ。
「生前、主人はSさんに感謝してもしきれないと、こんな俺の唯一の友であると言っておりました。私たちのことも後押ししてくださったと」
「……」
 細君の言葉が刃のように突き刺さった。震える手で手紙に目を落とす。まだ、もう一枚続きがあった。
「お義父さまは」
 最後まで読んだことに気づいたのか、細君は声をかけてくれた。
「お義父さまは笑って『おれも悪かった』とお答えになったのです。きっと孫にやり込められて、お義父様のお考えも変わっておられたのです」
「だから、ですか」
「わかりません。しかし主人は急に、激昂して……『それでは俺は一生孤独ではないか』と……」
「……」
「親子喧嘩のはずでした。ケンカなら、すれば良いとさえ私は思っていたのです。それが最もだと、すべきだと」
 私もまったくの同意だった。彼の平等病はただ、ナンとか主義の本に当てられた親父さんが軽薄に彼に教え込んだだけのものだ。それに名づけたのは私で、事実そんな病など存在しないのだ。そこにあるとすれば親父さんの洗脳と虐待ばかりだ。だから彼が親父さんとぶつかって、少しでも気を晴らすことができるのであればそれでよかったのだ。
 きっとそれが、あるべき――。
 ――彼は常軌を逸しているからね。
「……」
 ある日聞いた、心無い友の言葉が脳裏にこだまする。あるいはそれが正解であるとでも言うように。
 彼は、親父さんの平等病から脱することなどできなかったのだ。いいや、違う。それを一層深め、また唯一の友と呼ばれた私でさえ、彼地震ともいえる平等病から決別させるよう仕向けたことで、彼はいっそう孤独になってしまったのだ。
「僕か……、僕が……」
 慢心でしかなかったのだ。
「いいえ。Sさんのせいでは――」
「いや僕の責任だ」
 私が最後の糸を手放したのだ。優しい彼の、不器用で真面目な彼の、ふざけた父親の訓告を守り続けるほど誠実な彼の最後の糸を手放した。
 細君
「でも私はよかったと思うのです。今までの主人ならきっと、育ててもらった間といじめられた間の平等を図るばかりでしたでしょうから」
 細君ですら、本当の理解者になれなかったのだ。
 細君は我が家を去るまで私の様子を心配していたが、憔悴はお互い様ではあり、とかくその背を見送った。
 家に入り、家人の声など耳に入らぬまま書斎へたどり着いて、そのままへたり込む。
 彼の病因は親父さんから大事に受け継いだその窮屈なまでの平等性と公平性を捨て去れぬことにあった。
 いつまでもいつまでも、当の親父さんが捨ててまでも、捨て去れぬことにあった。
「君は……、少しでも幸せだったかい?」
 私はいつまでも彼の手紙を放し切れないまま、部屋の中をぼんやり見つめていた。
カット
Latest / 45:32
カットモードOFF