#宮殿
「……たとえば、リンゴの皮を剥いたとして」
逃走のために作り出した魔術の霧を、アベリオンはパリスの手を引いて抜ける。
物理法則を曖昧にする小世界では、ひととき、彼の声はとても神秘的に聞こえた。
「皮を元の通りにリンゴの形にすることは、出来るかもしれない。でも、もうそれは元のリンゴではない……みたいな、話かな」
「食っちまった中身はどうしようもない、ってことか?」
合いの手を入れたつもりの質問に、アベリオンは首をかしげた。
「実の話はしてないよ」
「……リンゴなのに?」
「巻物をほどく形に、似ているから……」
「……。おまえもう例え話やめろ」
そう言うと、口下手な幼馴染みは、きもち眉を下げた気がした。
もう少しそれらしいことを堂々と言ってくれたら、こっちもわかった気がしそうなものだが。――頭のいい奴に煙に巻かれるのが好きなわけでもないので、パリスはアベリオンにあえて変われとも思わない。
「要は……書物の形をしていても、何度も『読める』わけじゃない……ものも、ある、ことがある」
「曖昧だなあ」
「色々あるんだよ。文書だけはそのままとか、手順を踏まないと爆発するとか、触ると理解するまで離せなくなるとか。
……何にしても、シーフォンが欲しがったのは最初の一回だ」
しんとした宮殿の廊下に、もう稲妻の音は聞こえない。奇妙でぞっとする落書きに目をつぶれば、身を隠す場所はいくらでもあった。
アベリオンとパリスは、同行者と喧嘩別れした直後である。魔術で作り出した幻影に紛れて逃げたと気付いても、さすがに一人で隅々まで追跡は出来まい。
「……魔術師が遺物を喜ぶなんて言うわりに、あの手の巻物が売れねえわけだ」
「どういう場所にあったかも読解の手がかりになるからね。僕も、他人が発掘した魔導書には触りたくないな」
「で、死者の書……だっけ? 読むの? お前が」
「……もう少し考えたいんだってば。パリスまでせっかちにならないでよ」
わりぃ、と、返したが。
パリスはこの幼馴染みの性癖をよく理解しているし、その点、日和見に入ったと見るや襲いかかってきた少年の行動は正しい――とすら思っていた。変なところですぐ行動するくせに、一度後回しにすると中々結論を出さない。
そもそも勝ち目のある喧嘩を売られたのなら、率先して思い知らせてやるべきなのだ。こちらは二人いるのだし、アベリオンはシーフォンと最初に出会った時に一対一の決闘で一本取っている。わざわざ逃げ隠れすることもないだろう。
「……帰ろうか。彼が亡霊に遅れを取ることもないでしょう」
――地理上、死霊術師と相対することを警戒したのだろうか、と、思えば。
アベリオンは、先ごろ見つけた小杖を両腕で一振りし、先端に螢火を灯した後にため息を吐いて、
「なんだかやりにくいなあ。シーフォンなら使い方を知ってるかしら」
そんなことを言う。
パリスは、魔術師というものが元々よくわからなかったが、最近さらにわからなくなった。魔術師が、ではなく、アベリオンが、なのかもしれない。
*
翌日。
「……ハァ? お前どの面下げて僕と探索に行こうって?」
――そうだそうだ、どんどん言ってやれ、と。パリスは横目で窓際の二人を見ながら、心中で思わずシーフォンの肩を持った。
「それは、まあ……」
「はーん、『原本』の解読はお前の手にゃ負えなかったか? 今からでも寄越すってんなら勘弁してやるよ」
「あの死者の書は……あげられないんだけど」
「あ゛?」
「だから、ええとね……」
悠長さにシーフォンがアベリオンの胸ぐらを掴んだが、特に助ける気も起きない。どうせ大した腕力じゃないし。
しばらくうんうん唸った後に、アベリオンはやっと言った。
「僕となら、他の人と組むよりも、古代遺跡の探索が捗るだろうし……君が欲しいものを、他にも見つけられると思う。昨日の埋め合わせが出来ないかな」
「……」
少年は、値踏みというには物騒すぎる視線で、アベリオンを睥睨した。
――パリスはそれに、ふうん、と感心する。ガキのわりに、買い叩かれるみじめさを知っているようだ。たしかにこれまでの言動を見ても、なかなか目端が利いて話が早い。こちらの無知に付け込むようなことをしない辺りも、パリスにとって『エラそうな奴でも、マシな方』に分類を見直すだけの感触があった。
「……よし、それなら代わりにあの杖を寄越せ」
数秒経って、シーフォンは口を開いた。
「出来がどうじゃねえ、発想が違う。魔術師がもっとも偉大な地位にいたころ、坊主の真似事なんざしなくてよかった時代の産物だ」
彼が指したのは、今もアベリオンが帯に挟んでいる例の小杖だ。
「……ああ、それならちょうどいい」
――お、話がまとまりそうだ。パリスも、そう思ったのだが。
「都から来た鍛冶屋さんに見せたら、同じものが出来そうだって。お代は僕が持つから、シーフォン作ってもらいなよ」
シーフォンは、先ほどとは風合いの違う様子で、またしばらく沈黙した。アベリオンから手を放す。和解の印かと受け取って、何事か言おうとしたちょうどそのタイミングで、手の甲でほほを軽く打った。
「ンのアホ。僕が誠意を見せろっつってんのがわからねえのか?」
「……見せてるつもりなんだけど」
「お前が、遺跡で、見つけた杖は?」
アベリオンは目を動かして、ちょうど昨日、死者の書を寄越せと言われた時と同じ角度を見つめた。
「……やっと振り方のコツを掴んだんだよ。それも教えてあげるからさ」
――あーあーダメだって、こういう奴にそういう言い方は。パリスは思わず頭痛を感じて目を閉じた。しばらくしてまたぺちぺちべらべら聞こえてくる。シーフォンのボルテージが、だんだん上がっている気がする。
溜息を吐こうとしたときに、ふと、向かいの席のネルが口を開いた。
「シーフォンくん、すっかりアベリオンと仲良くなったねえ」
「……そうかあ?」
ネルは片肘ほほにつけて、パリスが横目で窺うばかりだった方角を、うんうん頷きながら笑顔で見つめている。
――のんきで空気を読まない雰囲気は、なんとなく誰かと似ている気がする。
「……庵の爺さんの教育かぁ?」
「えっ? なになに?」
パリスは最近、『放っておいたオレのせいなのか?』と、時々頭を抱えている。