風上から、猫の声がした。風の音に消え入るようなか細い声で、一瞬、空耳かと思ったが、耳を澄ますと確かににゃあにゃあという猫の鳴き声であった。
 鳴き声のする方を見る。土手の下、ススキの深く生い茂るあたりから聞こえてくる。野良猫でもいるのだろう、そう思ったが、猫の声のあまりのか細さが気になった。学校へ向かう途中だったが、少し余裕がある。土手を降りて、声のする方へ向かった。
 向かう途中、指に痛みが走った。草で切ったのだろう。左手の人差し指を見ると、うっすら血がにじんだ。血がにじんだ指を擦り、声の方を見る。前方の草は背後と変わらず、高く生い茂っている。俺指を切らないようにブレザーの袖の中に入れ、歩みを進めた。
 猫は段ボール箱の中にいた。誰かが捨てたのだろう、段ボールの下には北欧柄の毛布が敷かれていた。箱の側面には何も書かれていない。ただ、高い草の中、誰にも見られないように、見つからないように、ひっそりと段ボールは置かれていた。
 猫は自分の手のひらくらいの大きさに見えた。捨てられたばかりなのか、にゃあにゃあと元気に鳴いて箱の中を動いている。捨てた人間は、野良猫として生きていけるとでも思ってここに箱を置いたのだろうか。にゃあにゃあと細く鳴く猫は、元気そうであったがとてもまだ一匹では生きていけそうには見えなかった。
 学校に行って、弟とクラスメイトに話し、飼ってくれる人を探そう。そう思った。自分と弟が暮らす家では猫は飼えなかったが、クラスの人間に声をかければ、誰かしらが飼ってくれるだろう。
「ねこ」
 声をかけた。猫はにゃあと答える。にゃあとか、みーとかいうよりも、もっと曖昧な、高い声である。
「ここで、大人しくして待ってろ。学校終わったらすぐ来るから」
 猫はまた曖昧な高い音を出した。今度はぴーに近い気がする。
 可愛いと思った。猫を特別好きだと思った事はなかったが、このぽわぽわとした毛が生えた、小さな、か細く高い声を出す生き物は、なぜだかとても可愛く思えた。
 離れがたかったが、あまりここに居ても学校に遅れる。今日は当番だからと早くに向かった弟と違い、自分は八時半までにクラスに入れば良かったが、それでもずっとここには居られない。
 離れる前に、猫の頭を右手の指の先で撫でてみた。ぽわぽわの毛の下から、生き物特有の湿度と、確かな温かさを感じた。
「じゃあ、俺行ってくるから!」
 弟はそう言って、引き取ると言ってくれたひとりの男子生徒とともに俺の机に来た。
「私も見たいな」
 後ろの席の女子が言う。草で指切るよ、と言って左手の人差し指を見せると、それはやだと渋い顔をする。
「連れてきてあげる」
 弟はそう言って女子に笑いかける。
「土手、分かれ道あんじゃん学校来る前の。その前の木の、三本先だから」
「わかった」
「草で切らないよう指気を付けろよ」
「うん」
 弟はそう言って教室を出ようとする。
「俺も、掃除終わったら行くわ!」
 弟の後ろ姿に向かって声を張り上げると、弟は振り返って手を振った。廊下を軽快に走っていく足音が小さくなっていく。足音からも弟が浮かれているのが分かった。
 今朝、教室に着いて弟に猫の話をしたとき、弟は真っ先に連れて帰ろうと言った。
「馬鹿、うち猫なんて飼えねえじゃん」
「ちがうよ、教室に」
「はあ?」
「だって、土手だろ? 蛇とかいるかもしんないし、お腹空いてるかもしれない」
 時計を見る。先生が来るまであと五分ほどだ。
「だからって今からなんて、遅刻するだろ」
「じゃあ昼休みは?」
「いや、門閉じてるしさ。大丈夫だって、授業終わってダッシュで行ったら」
 俺は掃除当番だったので授業の後に教室の拭き掃除をしなければならなかった。しかし弟は違う。俺がそう言うと、弟はまた、でも……と言いかけたが、最終的には頷いた。
 猫は弟と同じ部活の子が引き取ると言ってくれた。家に既に猫が二匹いて、その子らも貰ってきた猫らしい。
「なんとかなるでしょ」
 その子はそう言って家にいる猫たちが自分の家に来た経緯を語った。
「いままでの子も大丈夫だったし、二匹が三匹になっても今更親もなにも言わないよ」
 掃除を終え、鞄に教科書とノートを詰め込んだ。速足で教室を出て、下駄箱で急いで靴を履き替える。自分だって弟のことを言えない。自分も猫に会いたくて急いでいる。自覚して、門を出て、更に足を速めた。競歩みたいになっている。そう思うと少し恥ずかしくなり、いっそのことと走り出した。秋の心地よい風が頬に触れる。空は高く、見上げるとイワシ雲が右手から緩やかに高いところに浮いている。走っても、全然苦しくない。ただただ足は軽く、前へ前へと風の中を進んだ。
「おまえ!」
 土手の近くに来て、弟の声が聞こえた。弟の発した声は叫ぶような不穏な緊迫感のあるもので、猫に何かあったのかと急に不安が募る。俺は走る速度を速めた。
「ふざけんなよ!」
 再び、弟の声が聞こえた。草の中に入り、手を切ることも厭わず声のする方に向かう。
「こうしろう!」
 声のする方に呼びかけると、弟の背中が見えた。
「弟」
 弟の肩に触れる。弟の前には俺たちと同じ制服を着た二人の男子生徒が立っていた。弟の隣には子猫を引き取ってくれるといった生徒がしゃがみこんでいる。彼の前にも、弟と男子生徒らの足元にも段ボール箱は見当たらなかった。
「だって、いらない子供でしょ」
 どうした、と弟に聞く前に、弟の前に立っている生徒の一人が言った。
「捨てられたんだから要らない猫だよ」
 弟が、前に踏み出した。右手を振り上げるのを見て、とっさにその腕を取って制止する。
「ちょ、まてよ、なにが……」
「兄ちゃん……」
 弟は泣いていた。予感は、土手に来る前に弟の声を聞いた時からあった。しかしまだ確信はなかった。自分は、それを見ていなかった。
 弟に殴られかけた生徒は顔を守るように上げた腕を下げ、だって、と呟いた。
「だって、要らない、捨てられた奴なんか、さっさと殺してやった方がいい」
 どうせ一匹で生きていくこともできねえような弱いやつ、殺してやった方がそいつの為にもなる。
 そう生徒が言ったところで、弟は俺の制止を振り切ってそいつに殴りかかった。弟の拳はそいつの鼻に入り、二人はそのまま草の中に転がり込む。
 引き取ると言ってくれた生徒の手元には、段ボール箱に敷かれていた北欧柄の毛布があった。毛布には、ちょうど手のひらサイズのまるい膨らみがあって、今朝の子猫の毛のぽわぽわとした様子を思い出い出した。朝の少し寒い草の中、しゃがんで子猫の頭を撫でた時に指先に感じた湿り気と、確かな温かさ。
「ううーー!」
 苦しく叫ぶような弟の泣き声と、生徒を殴る音が聞こえる。殴られている方は顔を守るのに精いっぱいなようで、弟にやたらめったらあちこちを殴られて啜り泣いている。
「弟……」
 馬乗りになって一方的に殴るのを止めない体を持ち上げるようにして俺は弟を止めた。これ以上殴れば、問題になると思った。弟は警察官になりたいと言っていた。俺と二人で、絶対に警察官になって、悪をくじくのだとずっと前から言っていた。詳しくは知らないが、高校に喧嘩をして相手を殴ったと知れたら、きっと不利になる。もしかしたら弟の警察官になるという夢がこんなことでふいになってしまうと思った。
「やめろ、なあ、幸志郎」
 言いながら、どうして自分は冷静に先の事を考えて、今、ここで弟を止めているのだろうとも思った。弟の腕をおさえながら、どうして自分は弟のように相手に殴りかかれないのだろうとも思う。
 風の届かない湿った草むらの中、弟の泣き声と、殴られた生徒の泣き声ばかりが響く。今朝聞いた、か細いにゃあにゃあという子猫の声はもう聞こえない。
 俺は殴られた生徒の顔を見ながら、鼻血さえ止めれば、と考えていた。こいつの顔は腫れていない、鼻血さえ止めればバレないだろう。この後腫れても、上手く転んだと言わせれば、猫の事は不問にしてやるからお前も黙っていろと言えば、猫なんて、お互い、なかったことにすれば。
 俺は草むらの中で冷静だった。冷静な俺を、もう一人の俺が空の上から冷めた目線で眺めていることにすら気づいているほどに、冷静だった。
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20220912 猫 兄弟
初公開日: 2022年09月11日
最終更新日: 2022年09月12日
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かけたらかく
即興でざっと最初から最後まで書くやつをやる
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おおくら
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壁打ちしてたら割とまとまってきたゆうぎり喜一の現パロいちゃいちゃ世界線のメモ
篠畑
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