オリンピックでいのりさんが狼嵜選手に競り勝ったとき、貴方が、貴方にとっての光を失ったのが分かった。
夜鷹純の指導のもとで同じ道を辿る人間は、これで世界にひとりもいなくなった。
表彰式で狼嵜選手と笑い合ういのりさんの姿に、俺は泣いた。涙が溢れて止まらなかった。フィギュアスケートを巡って関わったありとあらゆる人びとが、彼らと共にしてきた時間が、この一瞬の光景に凝縮されているように感じられた。14歳から今までこの競技にかけてきたすべてのことに意味があった。そう思って、同時に、貴方の孤独を想った。
すべてが決着したその日に、だから俺は言った。
「俺は二十歳のころに戻ることはできません」
俺は35歳になっていた。貴方は41歳。互いの生徒を通じて出会ってから、9年の月日が経っていた。
目元がぴくりと引きつる。ふしぎなほど老いの色の見えない人だった。まるで運命に呪われているみたいに若々しいままだった。
「8年前に言った通り、俺がアイスショーのキャストになることも、アイスダンスの選手になることもありません。そうしたい、やり直したいと、後悔したことはありません。今日までずっと、俺はいのりさんのコーチを務められたことを、心の底から誇りに思ってきたから」
「君は僕よりも優れたコーチだ。今日、君はそのことを証明した」
歯切れのいい言葉でありながら、長い長い旅路を行った果てに、目的地を見失ったような、疲れの色濃い声音だった。
触れていいのならば、両肩を支えたい衝動に駆られた。そうするための資格がほしかった。
体の底から湧き上がって止まらない震えに、名港杯のはじめて啖呵を切ったあの日を思い出した。俺は言葉を振り絞った。
「……今日に至るまでの、このフィギュアスケートにまつわる喜びと苦しみのすべてを、この人生を、俺にくれたのは貴方だ」
何も見えていないような目が、かすかにこちらを映したような気がした。
「俺は貴方に何ができるんだろう、何を返せるんだろうって、考えていました」
「……それで?」
「俺の未来をあげることならできます。……俺の残りの人生ならあげられます。二十歳だった頃の貴方にあげられるスケートはもう存在していないから、貴方が本当に欲しかったものではないとは分かっていますけれど、貴方が俺について何か必要としてくれるものがあるなら、俺はそれを差し上げたい」
最後の方は自分でも消え入りそうになっているのが分かった。それでも面を上げて、貴方の目を見ていた。口約束にしないと、信用されるようにと、力を込めて見つめていた。
「受け取ってくれますか」
今でもそのことが信じられなくなるのだけど、貴方はそのとき確かにそれを受け取ったのだった。
それから今まで、俺は夜鷹純の隣にいる。
互いの生徒のコーチが一段落すると、俺たちは同居の準備をはじめた。
貴方は当時から連絡機器の類を持たないことをずっと徹底していたから、転居を終えるまでは、互いの予定をやりくりして鴗鳥先生の家で会っていた。俺と貴方の関係はすでに鴗鳥先生から切り離されたものになりつつあったし、この計画がうっかり理凰さんの耳に入ろうものなら彼の感情を刺激してしまうのが明らかだったから、はじめは断っていたのだけど、
「理凰には黙っておきます。それに純くんが彼の家族以外の誰かと住むなんて、私が知る限り初めてのことですから、どうかお手伝いさせてください」
とあのお辞儀を見せられてしまえば最後、俺が強く出られるわけもなかった。鴗鳥先生が貴方に複雑な感情を抱いてきたことを俺はもう知っていたから。
そこで鴗鳥先生が淹れた蜂蜜入りのミルクティーを飲みながら、お誕生日席で腕を組んで「ほら言ったでしょ」と言ってのけた貴方の姿に胃痛が悪化したのは言うまでもない。いくら気心が知れているとはいえ4歳年下が取っていい態度ではないんじゃないか。それなのに鴗鳥先生ときたら「純くん、家具の梱包は大丈夫?」と相変わらず物腰柔らかに世話を焼いたりしていて、最後まで俺はこの人たちの妙な距離感についていけなかったなあと思った。
「現役を引退したときから住んでいる部屋を引き払うから手伝いに来て」
写真を撮ったわけでもないのに、忘れることができずに、俺の記憶にずっとこびりついている貴方の部屋。
大量の紙袋と箱。グランドピアノ。観葉植物。ヘッドホン。賞状。
火を見ていた。
荘重な造りのライターと、持ち主のまとう雰囲気はよく似ていた。その火気には何者をも喰らいつくそうとする威圧感がある。だから貴方の名前は燃える。賛辞もまた燃える。床の白さに吸いこまれていく賞状の燃殻は、叩き割られたトロフィーの破片とあいまって、黒と金の雲母を散りばめるように場を綾なした。
僕には君がいてくれればいいんだ。灰の闇にまもられたちいさな足場から、声は茫漠と響いた。だからこんなものはもう不要だと見せたかった。気が触れた者のたたずまいには見えなかった。その静謐さに、かえって俺は慄いた。おそろしいと感じた。背筋に悪寒が走り、どうしようもなく、こみ上げてくるものがあった。こんなことは望んでいないと言うことはできなかった。
貴方に惹きこまれ、いとおしさをおぼえたじぶんに、素直であることしかできなかった。俺は。振り絞った声はかすれていた。俺は、あなたのことが好きです。
貴方は腕の中で笑っていた。
あのクソジジイとなにかありましたよね。理凰さんにそう声をかけられたのは、
ものすごい機嫌悪いんですよ。
アイツ、親父と光と明浦路先生の言うことくらいしかまともに聞かないし。あなたといっしょの大会出たあと。
夜鷹ほど鮮烈な経歴ではないにしても、ノービス時代の挫折をバネに世界大会で台乗りを繰り返し二十歳になって以降も(ここが重要)現役を続けている理凰さんが、クソジジイに「お前が親父や光に寄生してでも未練がましく思ってた場所、大したことないね」って笑って煽るところ見たすぎて気が狂う
「いい年こいて俺が今いる場所が羨ましくて忘れられなくて、選手としては無理だからコーチとしてどうにかここにいたくて、光を連れて厚かましく人の家の敷居跨いだんだ 気持ち悪……」くらいの精神攻撃をかます資格、理凰さんにはあると思うぞ
幸福な顔ができないんですよ。親父にも光にもあれだけのことをして、俺の居場所なんてなんにも知らないみたい。
好き勝手してまわりに許してもらってるのに、じぶんは不幸だって顔してた。笑顔ひとつ見せなかった。ずっと。俺はアイツのああいうところが嫌いです。コーチだって満足にすることができない。じぶんでじぶんが幸福でいようとできない。
明浦路先生がアイツに振り回されているのを俺は見てられないです。親父みたいな人を見るの、俺はもういやだ。俺と会ったとき、もっと楽しそうだったじゃないですか。優しい側がなんでこんな損ばっかしなきゃいけないの。だから、俺は先生に、しあわせになってほしいんです。
理凰さん、ありがとう。
だから、
それとね。俺といるとき、彼は笑うよ。
は。
でも、明浦路先生は。
放っておいてほしかった。理凰さんにはほかの人間がいるだろう。けれど俺にこの物語を与えたのは夜鷹純しかいない。彼を真っ向から負かしたのは俺しかいない。
だからどれだけおかしかろうと、同じものを見るのだ。同じことをするのだ。彼があの世界にいるあいだに、同じ場所に行けなかったぶん、これからはずっと。
俺が氷の上に立つことを、家族に望まれないのがなによりも辛かった。加護さんの家にお世話になって、芽衣子さんが亡くなって、よその家に負担をかけた。
それが今、なにも思わなくなっていた。
申しわけないとは思う。俺のせいで苦労はさせたと思う。
けれども俺は望まれていた。いのりさんに。貴方に。
あつい。重い。
朦朧としながら目を開けると、僕の左肩に君の頭が載っている。君は体温が高い。起きぬけには眩しすぎる髪色をしている。目を瞬かせているうちに、そういえばセックスの後の君はいつも僕より先に目を覚ましていたのか、と悟る。
面を上げて車窓を眺める。ソチを出立したときから吹雪は変わることのない、夜を永遠に吹き抜けんばかりの勢いだ。どれほどの時が巡ろうとも、永遠にここにありつづけると確信させる景色が、異様な速さで走馬灯のように流れていく。
氷上に裏があるとすればきっとこんな風だろう、と思って、つい先程まで見ていた夢がまぶたの裏に甦った。もう二度とここに上がるまいと決心して氷から降りた、二十歳のときの夢だった。この二十年間、一時たりとも意識に上らなかったことのない、見なかったことのない夢だった。
立ち上がり叫び出したい衝動に圧倒される。息が苦しい。逸り出し、過呼吸になりかかりつつある呼吸を、意識してコントロールする。こめかみの痛みが強くなる。
だが、君を起こしたくない。絶対に起こしたくない。
僕も君も、朝、二度と目を覚まさなければいい。
目覚めたときに狂ったように叫ぶ朝を、僕がひとりで何度繰り返してきたか、君は知らない。その孤独な過程にどれだけの時間をかけて慣れてきたか知らない。ようやく瘡蓋になった時間を爪で剥がされる痛みを知らない。
起こしてしまえば君が何をするか、僕は知っていた。君は僕を抱きしめる。そうしてしばらくは口をつぐんで、自分の優しさを証明するために一言二言口にする。どれだけ僕のことを愛しているのか、心配していて大切に思っているのか、見せつけるように言葉を吐く。君は自分の人生を愛したいがために、僕を愛していると信じることに執心しているから、いつも怯えている。一度僕が抱擁を振り払ったときなど、憎悪さえ目に過ぎっていた。そういうときの君を、僕はひどく好きだと思う。
眠っている間の僕は呼吸が浅く、息をしているように見えないという。だから君は僕の寝息に耳を澄ませるのだという。一度、君の涙で目が覚めたことがある。熱いものが頬に垂れた。すみません、不安になってしまって、と笑ってごまかそうとしていた。貴方が俺の見ていないうちに死んでいたらどうしようって。子どもの頃の俺が貴方のスケートに出会ったとき、貴方はもうリンクの上にいないって知ったときのことを思い出して、悲しくなるんですよ。
思い出しているうちに、胸が冷えこんでいく。気分が悪い。もたれかかってくる君の頭が鬱陶しい。見たものを忠実にコピーして再現できる頭。希少で優れた才能の詰まった、僕のスケートを細やかに分析する頭。
叩きつけたくなる。壊してしまいたくなる。
明浦路司は僕への罰だ。
君といる限り、僕はフィギュアスケートを放棄したことを忘れないでいられる。
煙草は僕が手に取らなくてはならないから億劫だった。けれども君は自分から進んで僕の手のなかにやってくる。それが楽だった。二十歳の頃からずっとそうであるように、僕は楽な方に流れていて、君の余生を受け取った。結果的に吸う本数は増えた。
僕達以外に、車内には誰もいない。駅名を確かめる。目的地にはまだまだ遠い。このままふたりでいても、君はなにも知らないだろう。それでいい。僕を生かしたいのだと言い、僕を笑わせようとして笑い、僕が乱暴な行いをすると止める。
君は気づかなくとも、慎一郎くんは目ざとい。きっとなにかを告げ口したのだろう。あの後は本当に骨が折れた。涸れた欲を無理やりあるかのように装って振る舞わなければならなかった。君の手が僕の火傷を抓ったから何とかなったようなものだ。
どうして君のあこがれに付き合わされなければならないのだろう。
君が僕を見てスケートをはじめたことを後悔すればいいと思う。