最後司と夜鷹の語りが融けあう、どちらが話しているのか分からないようにする(人称を出さない) 孤独、生と死の境目にいる、というところで一致
番組を終えたテレビの前から明浦路司が動けなくなって、すでに十分が経った。このまじめな十四歳の少年の頭からは、お金がないから節電を心がけるように、という両親の教えの実践がすっかり抜け落ちてしまっている。リモコンは英語の宿題の横に置かれたままだ。
このとき、司はほんとうの意味で、ひとりになっていた。これは彼にとって、生まれてはじめてといっていい瞬間だった。この瞬間はその人生をほんのすこし、しかし決定的に、特別なものにする。なぜなら居間の掛時計が、今日も世界は明日を迎えたと鐘で知らせ、ようやく寝つかされていた六歳の末の弟がまたむずがったとき、彼はそれから数十年は抜けないその恍惚のおかげで、ずっと気に病んでいたはずの弟の蛮声に陶然と聴き入ったのだ。重大な転換が訪れたしるしだ。
なんて、なんて美しいんだろう――この声は、この生命は。この世界は?
その十分間ほどで、夜鷹純は二本の煙草を吸い終えている。目を覚ましてから眠りにつくまでを一日と数えるのなら、その日で百二十四本目の煙草だった。
とはいっても時計で計れば二日間ということになる。ずっと眠れていないから。テラスから室内に戻ると、ベッドまで這っていく気力もなしに、フローリングの床に沈みこむ。血色を失った細面には、深刻な精神的危機にさらされているひと独特の微妙なしるしが、いくつも浮かんでいる。雑音に似た雨音は、だれかの声に化けると、彼を責め立てる。ひどい頭痛と吐き気に奥歯を噛みしめる。錆びついた歯車がきりきりとかちあうような、鋸を下手に引かれているような、凍てついた疼痛が頭を鳴らす。それが動悸に、呼吸に合わせて脳を締めつけるので、突き破るにはあまりにもかたい皮膚のうえから、夜鷹は心臓を鷲掴みにして取り出そうともがいている。これを外に出してしまえば痛みが止むんだ。痛みが止むまで生きていけるように、まだまだずっと吸っていたい。
新しい箱に溺死人のような指が伸びる。吸って、吸って、汚して、汚されて、取り返しのつかないところまで、早く壊れてしまえばいい。この世界が終わらないのなら、僕が僕を終わらせるほうが、絶対に簡単なのだから。
ふたりは異なる軌道をたどる惑星のようなものだ。ふだんはおのおのの周期を巡っているが、あるかなきかのどこかの一瞬、身を焼きつくすほどに摩擦する。
ほんとうに、なんという輝きだっただろう! 司はずっと呆気にとられている。もう知る前には戻れない。あんなものがこの世界にあっただなんて! あんなひとがこの世界に生きているなんて! 夜鷹純。あの観る者との距離を融かしてしまう魔法の指先。あの幾億光年も遠くの星明かりを宿すまなざし。
いくらまだ短い人生といっても、生きていてこんなにも、息をするのが苦しくなったことがあっただろうか? 知らず知らずのうちに涙があふれたことがあっただろうか? この身に流れる血がごうごうと狂騒じみた唸りをあげたことがあっただろうか?
俺の未熟なからだは、ちっぽけな心は、こんなにも揺さぶられて動くものだったのか。こんなにも力強く、脆く、揺らぎながら懸命に、生きようとすることができたのか!
ああ、この今を生きている俺にとって、さっきから聴こえてくるこの雨音ときたら、なんて奥深い響きを持っていることだろう! 耳を澄ましてみよう。ひとつとして同じ響きはないんだ。アスファルトに落ちていくその雨の、一本一本が立てる音を、聴き分けられることはない。屋外に出たところで、きっと見分けられも、感じ分けられもしない。天から産み落とされた雨は、その一本一本をだれにも識別されて聴かれることも、知られることもないあいだに消えていってしまう。俺たちは雨を群れとしか感じられない。だから雨はさびしい。たまらなく、ひどくさびしい。
弟をあやす母さんの声もすこしずつ雨音のなかに打ち消されて、気がついたら静まりかえっている。今この家で、いや、この世界で、こんなふうに目を覚ましているのはきっと俺だけだ。真夜中のひとりぼっちの居間は、なんておそろしい、ぞくぞくする自由をもたらしてくれることだろう! ああ、ここから外に出て行けたならどれだけいいか! 銀色の針のように冷たい無数の雨に刺し貫かれながら、だれの視線もまとわない夜闇のなかひとりきりでも、この心をいっぱいに表現しようとあんなふうに踊ることができたならどれだけいいか! どんなに下手でみっともなくたっていい!
でも俺は踊り方を知らない。悔しい。悔しい。行き場がない。この熱を、命を、どうすればいい。どうしてくれる。言葉も、感情も、あのひとのまえではまるで足りなくて、これじゃあたまらない。視界が歪んで前が見えない。
そうだ、ワークをちゃんとカバンに入れないと。それに歯をみがかないと。こんな生活はなんてバカバカしく意味のないことに成り下がるのだろう、あの演技の、あのひとの――底知れず深いからこそかえって、日の光などよりよほど烈しくきらめく闇の美しさの前では?
すでにフィギュアスケートという踊り方を知っている高峰瞳は、明日の大会を前に緊張して眠れない。寝室の暗さは少女の不安をかきたてる。ずっと練習は重ねてきた、大丈夫、と何度もじぶんに言い聞かせる。
だけど、リンクに立つには芯となるなにかが、私には足りていないように感じる。順調に歩いてきたつもりだけど、こういう夜はなんだかどこかへ落ちこんでいきそうな気分になる。寝返りを打っても、どんな姿勢でいても、なぜか落ち着かない。私をいつも寝苦しくさせる、足りていない何物かの正体はなんなんだろ? 私はそれにこれからもずっとつきまとわれるの?
その疑念に対する答えは、今は放り出されたままで、まだ返ってこない。加護芽衣子の仲立ちによって無名のスケーターとペアを組むことも、彼がその答えを持ってやってくることも知らない。じぶんを鼓舞してやまなくなる司のその執念が、今まさに生まれ出でつつあるということも、シーツにくるまれた瞳は知らずに待っている。彼女は雨音の調べに身を委ね、やがて来る眠りを、そっと受けいれる。
些事を片づけた司もまた、おのれのなかに萌え出でたその情動が瞳と加護家にとってどれほど眩く、稀有なものになりえるか、知らないまま持て余す。もちろん雨空の下で踊るために玄関のドアを開けることなどできなかった。
その代わり彼は、布団を敷き並べて眠っている家族に隠れ、携帯を持って寝床に入っている。明日の学校のことは頭から抜け落ちている。イヤホンを着けて検索をかけ、一番上にポップアップされた動画を開く。Jun Yodaka(夜鷹純)'s Greatest Performance 20×× Olympics Games No Commentaryと銘打たれているその演技は、テレビで目にしたそれと同じものだが、実況が入っていない。
名前がコールされるとともに両腕をあげて一身に歓声を浴びたそのひとの、粛然とした異様な存在感に、そのはじまろうとする演技の美しさに、脳髄がしびれる。スポットライトの閃光がダイヤモンドとなって銀盤の王を飾り立てる。さあ。
まなざしが射竦める。指先がひらめく。音楽は回りはじめる。ああ、彼が跳ぶ――軽やかに堂々と。羽が生えているみたいだ。なんて陳腐なたとえ。だけど俺の言葉で、認識で、彼を汲み尽くして語れるはずもない。どんな言葉も片っ端から、彼によって受肉して、その体温で焼け落ちて、乾涸びて、死んでいく感じだ。こんなに鮮烈に生命を燃やしてる人間を前にして、言葉なんかなににもならない。束にしたって彼ひとりの命には価しない。彼がそこに生きている。それがすべてなんだ。俺が好んで読んできたどんな物語も、どんな共感も同情も、彼を語ることはできない。本は燃えてしまった。
すべてのジャンプを跳び終えて、リンクの端に立った彼の表情ときたら! こんなにも祝福されているのに、こんなにも美しいのに、こんなにも歓びから突き放されたという目をして、凄烈に舞う。
孤独。
演技を終えた彼の顔に、喜色が過ぎることはない。おのれに浴びせられる喝采など知らないかのように、ただ静かに、一本、人差し指が高く掲げられる。
司はそこで腑に落ちた。そうだ。孤独だ。孤独なんだ。一言、一言だけ彼のスケートについて言えるのなら、このひとは孤独だ。だから、まとまった言葉を散らされて、思考を剥ぎ取られて、はだかになったちっぽけな俺に、この演技は問いただしてくる。お前は何者なのかって。俺は誰なんだろうって。
僕は僕の命を思い通りにできる。同時刻、夜鷹は繰り返し、繰り返し反芻している。叫ぶように。ひどく蝕まれたからだで、司がたった一言形容したように、ひとりで。間断なく立ち聴こえてくる雨音から身を守るように、身を丸めて、だれのことも見ないでどんな声も聴かないで、これ以上じぶんのなかに入ってこないように。開けっぱなしの窓から射しこんだ雷光は、たまゆら彼の肢体を照らし出したが、夜鷹はこのときだれにも見つかっていない。窓辺から入りこむのは風雨だけだ。
もう、だれにも見つかりたくない。夢の果ての果て、追いやられたこの一隅で、永遠にこうしていたい。
僕のからだは僕のものだ。どんな脚光を浴びせられたとしても、僕の名前は僕のものだ。夜鷹純は僕のものだ。日の下に引きずり出されて、だれにどれだけ踏みにじられようが、このスケートは僕のものだ。だから世界の頂点をきわめたこの天才さえも、ひとりよがりに損なうことをゆるされている。だれにも知られないまま、ひとりで朽ちていくことができる。
そう思い切ってしまうと、息もつけないほどの安堵が、その面貌に浮かんだ。そうとでも考えなければ、生きる意味が見つからない。本来ならばめざましい才覚を発揮しただろう十全なからだをもっていながら、あの舞台に、歓声に包まれることなく、今ここで息をしていることが耐えられない。壊れなければ生きていけない。
夜鷹が百二十六本目を吸い終えて刻々と命を削っているあいだに、司は夜鷹のように踊りたいという強烈な衝動に生を駆り立てられている。
フィギュアスケートができるような家の子どもに生まれてきたらよかったのに。そう願ったとき、家族の立てる寝息は聴こえてはいなかった。彼は次の動画を再生する。彼はこのときはじめて、みずからの出生を憎んだ。幼いころから親兄弟に気を遣ってきて、本を読んで感情を豊かに育んだ分ひとの気持ちに寄り添えて、だれのことも分け隔てなく愛してきた彼の外皮から、独善的な魂がはじめて頭をもたげる。
どうしてフィギュアスケートではなかったのだろう。俺がこれまでこなしてきたいろいろな物事のなかのひとつに、どうしてフィギュアスケートが存在しなかったのだろう。母さんと父さんに頼みこんだって、許してもらえるか分からない。お金のかかるスポーツだ。それも十四歳からはじめるなんて。スタートには相当遅いだろう。ジャンプやスピンの種類は分からなくても、そのくらいのことは俺でも分かる。きっと俺は、このひとのようには、一生かけても滑れない。
司のはるか先を行っている蛇崩遊大も就眠している。ジュニアにとどまって活躍をつづけている十六歳の彼は、男子シングルのスケーターとして堅実にキャリアを積み重ねている最中だ。
彼は毎日が楽しくてしかたがないといったところで、仲間たちと切磋琢磨して笑い合っている。学校とスケートを行き来する日々を愛している。もっと強い選手になりたいし、試合で勝ちたいと思っている。その一方で、そろそろはじめて十年になるこのスポーツのためだけに、じぶんが生きているわけではないということを悟ってもいる。だいたいの選手が大学卒業の年で引退するのだから、彼に残されているのはあと六年ほど。飄々としているように見えて、計画的な蛇崩は、すでにセカンドキャリアを考えてもいる。
俺はスケートにぜんぶ賭けたいわけやない、スケートをして生きていきたいんや。世界クラスの選手とはちゃう。だけど俺はリンクに立つのが好きやし、クラブの年下の子らに頼られたり、年上に可愛がられたり、同年代とバカやったりするのが好きや。そういう自分が、リンクの上で、スケートを通じてだれかに必要とされるのが、俺は嬉しい。司と同じだけの他人への関心と想像力を持つ彼は、スケートで食べていく現実の厳しさを冷静に見据えつつも、まだ見ぬ人びととの出会いに胸を小さく躍らせている。
十九歳の那智鞠緒は、三つ目のピアスを開けた痛みで、寝苦しい思いをしている。お姉ちゃんそろそろいい加減にしなよ、と高校二年生のかわいい妹に、先日すこし怒られてしまった。妹は看護師になるために黙々と勉強に励んでいて、スポーツ推薦でスケートとバイト漬けの毎日を送っている那智としては、彼女が遠くにいってしまったような気分になる。
もともと落ち着いた子ではあったけど、むかしはあんなにお姉ちゃんって甘えて寄ってきたのになあ、時が経つのははやいわ。妹がもうひとりいたらよかったんだけどなあ。あっ、この服かわいい。那智は手元の携帯の画面に触れる。もっとピアス開けたいのは山々だけど、さすがに我が妹に嫌われんのはつれーわ。そろそろ服に投資すっか。私は背ひっくいから、合うサイズがあるといいんだけど。
もともと服飾は好きだったけれど、彼女にとって着飾ることはますます楽しくなりつつある。むかしは違ったなあ。ふと思う。中学生になって、あんなに軽々と跳べていたジャンプが跳べなくなって、すこしずつ成績が落ちていって、どんなにじぶんのからだを恨みがましく思っただろう。私はこんな胸なんていらない、四回転を試合で成功させるほうが大事なのに、どうして女に生まれちまったんだろうと何度も何度も泣いた。まあ今でも、せめて成功させてから第二次性徴が来てほしかったな、と思うことはある。摂食障害にならなかったのは、私がジャンプを跳べなくても、ナッチンはそのまんまがいいと言ってくれたみんなのおかげだ。
私はいまはもう十分私のからだが好きだし、まあね、心配するひとがいんなら、これ以上穴開けんのは今はやめときますか。おっ、このワンピもいいねえ。でも私には似合わないかもしれない。あ、でもそんなら、妹が期末テスト終わったら買ってやったらいいのか。あの子はガーリーな服がステキに似合うし! ようし。たまには私にもお姉ちゃんっぽいことさせてほしいぜ。
雨は降りやむことがない。一本また一本と絶え間なく降り注ぐ。雨粒は空中において一本ずつ落ちてくるけれども、冒頭で司がこぼしたように、一本ごとのかたちや音を見聴きする力は、われわれにはない。彼らはわれわれの、そしておそらくは彼ら同士でさえも見知らぬあいだに、どこかへと消えていってはふしぎな巡り合わせで合流すると、いつかは大きな流れをつくる。それは人間の運命に似ている。
司は泣いている。一本の水脈をつくりだそうとする涙を、生まれてはじめてこぼしている。湿やかな熱気が布団のなかにこもって不快なはずが、そんなことなど気にかけさえしない。
これまでに泣いたことがなかったわけじゃない。もちろんあった。たくさんのひとに出会って、たくさんの想いに触れて、そのたびに俺は胸を打たれてきた。そのときそのときを、必死に生きてきたと思う。みんなが俺という人間をつくっている。だからこんなふうに、だれにも見つけてもらえないで泣くのが、あまつさえその寄る辺なさ、心細ささえも愛おしくなる涙を流すのは、はじめてだ。ううん、それどころか、だれにも見られたくないって思ってる。泣いたらいつもだれかを探していた俺が、心底ひとりで泣きたいって思ってる。
だれにも理解なんてされたくない。慰められなどしたくない。秘密にしておきたい。肌身離さず宝物にしておきたい。夜鷹純の演技を観ているひとが世界中にどれだけいても、俺が観た、俺が感じた、俺が愛したこのひとが、このスケートが、共有されるなんて考えたくもない! 俺がこのちっぽけな命をかけて、だれに叫んで伝えたところで飽き足りないたったひとつのものに、この感動に、分かった顔なんてされちゃたまったものじゃないんだ。だから。だから、……。
だんだんと泣き声を抑えられなくなってきたのを、司は歯を食いしばって嚙み殺す。暴れ出しそうに熱い。
だから、俺もああなりたい。あんなふうに、じぶんの命を踊ってみたい。このひとのスケートのように、燃えるように生きた瞬間がほしい、このひとの生きる世界に行きたい。この夜のままのじぶんでまた明日を迎えたい。そうすれば、夜鷹純と彼のスケートが、俺のなかに残りつづける。他のだれのものでもなく、永遠に俺のものになる。この俺が、このひとを生きることになる。
今もだれかが、と夜鷹は想像する。胃のなかのものを吐いてしまってすこし気分はよくなった。しかしからだの余裕というのは、かえって思考を悪い方向に進ませるゆとりを与えるものだ。
ジャンプやスピンのフォームの参考教材として、僕のスケートを映した動画を再生しているかもしれない。日々の娯楽や暇つぶしでそうするのかもしれない。はたまた粗探しをして楽しむかもしれない。気が遠くなる。それでも一番我慢がならないのは、僕の演技に目を輝かせてこれからスケートをはじめようとする人間だ、と気づく。それにしてもさっきからうるさい。この雨は嫌いだ。雨のなかにからだを貪られて死んでいるじぶんの姿が見えるような気がする。
だれもが一時の快楽のために僕を消費して、そしてすぐに忘れてしまって、自分たちの生活に戻っていく。彼は日ごろは仲間たちと笑い合っているが、時折僕のような他人の人生を盗み見ては、このひとはああだとか、このひとはこうだとか、そんな都合のいい物語をこしらえて、つまらない日々にどうにか刺激を与えようと苦闘する。彼の性質が悪いのは、じぶんのためにやっていることが、僕たちのためにあると勘違いすることだ。
波打ち際に打ち上げられた溺死体にはだれも気づかない。だれも僕を物語にすることはない。それはどんなに世間への復讐になるだろうか。いや、復讐にならなくたって構わない。ただ、彼が目にしてほんの一時でも死を想うことがあるなら、それはどんなに今の僕にとって幸福だろうかと思うだけだ。後悔すればいい。おのれの無知を、不感を、恥じ入るがいい。こんなことを考えながら生きていること自分が憎い。僕ではなくて、彼が代わりに壊れてくれたならどれだけいいか。
きのうより前の俺は、夜鷹純のスケートに殺されたんだ。それは奇妙な符合だ。遠く離れているはずの、言葉を交わしたことさえないはずの声を聞き届けたみたいに、司の頭にはそんな言葉が浮かんでくる。まぶたが腫れるまで、息が詰まるほどに泣いて芯を痺れさせた脳は、引きつった痛みに苛まれている。夜鷹のそれを分け与えられたかのように。
このひとは俺に、だれよりも近くて、だれよりも遠い。母さんも父さんも兄ちゃんも弟も、友だちも見つけてくれなかった俺を、このひとは見つけ出してくれた。俺がこのひとを見つけた、というよりも、そう言うほうがしっくりくる。それなのに俺はこれまでなんにも知らないで、じぶんの命をやり過ごすみたいに生きてきた。こんなもんだと知ったかぶりをしてた。それのなにが、生きていると言えるのだろう? ずっと死んでいたのと同じじゃないのか?
闇は温かい羊水のように、体を丸めた司を包んでいる。
だから俺は、もうここにはいられない。こんなに孤独だと思ったのははじめてだ。それでも俺は、このひとと同じになるために、このひとと同じ世界を立って、同じものを見るために、フィギュアスケートがしたい。届かなくても、手を伸ばさずにはいられない。諦められない。そうすることがゆるされるなら、俺は孤独で構わない。リンクの上に立ってさえいなくても、それだけはこのひとと同じになれるだろうから。
この世に産まれ落ちるというのはわれわれにとっては大仕事ではない。それはわれわれの見知らぬあいだに、他者によって執り行われる。
たとえば司が望むすべてを持っている子どもは、ようやくこの世に生まれる準備を整えられたばかりだ。とはいっても、まだ息子とも娘とも判別がつかない。母親の妊娠が明らかになって間もないからだ。
彼の父親になる鴗鳥慎一郎は、シーズンの第二戦に向けて重ねた練習の疲れで、すでに眠りに落ちている。じぶんの子どもが生まれると分かってから、彼はただでさえ大好きなスケートにさらに打ち込むようになった。生まれてくる子どもに一度でいいから現役の父親のスケートを見せてやれるといいのだが、と頬を掻く彼を、コーチやコリオグラファーはほほえましく応援している。父親になったとはいえ、その寝顔はまったく少年のようだ。好敵手が引退してから、気が塞いで張りつめた顔をしていたが、それも次第にやわらいでいる。
彼の妻は彼のずれかかった毛布を直してやりながら、彼と交わしたこんな問答を思い出す。子どもにもスケートをさせたいの? もちろん。シンイチロウ、あなたのようなメダリストにさせるつもり? いいや。そこで彼は苦笑したのだ。この世に生まれたからには、楽しいことをひとつでも多く教えてやりたいというだけさ。いっしょにスケートができたら嬉しい。それだけだ。子どもは子どもの道を行けばいい。
あれほどわたしを安心させたものはないと、彼女は無意識に平らなおなかを撫でる。ハニー、と呼びかけてみる。このひとはいつまで経ってもスケートが大好きで、ちょっと子どもみたいかもしれないけれど、ちゃんとあなたの父親でもある。わたしも待っているから、安心して生まれておいで。
彼ら夫婦は、この子どもにまったく血のつながっていないきょうだいができることになるとは、まだ夢にも思っていない。かつての好敵手が、彼女を連れてくるとは知らない。家庭の外からやってきたそのふたりを慎一郎が迎え入れてから、その子の居場所がなくなっていくことを、追い出されたその子が司の手でひとつの自立を迎える未来を知らずに、築かれるだろう家庭の平穏を夢見ている。名古屋市に降りつける雨の音はとろとろと彼らのまどろみを誘う。
司によって拾い上げられるもうひとりの子どもも、まだ母親のからだに宿を借りているところだった。彼女の存在にはしゃぎ、大喜びして、気がついたときにはいつもその子に話しかけているのが、約一年後には姉になる結束実叶だ。彼女は母親の膝の上で眠って、ちいさな頭を撫でられている。
今日もスケートの練習で疲れちゃったのね。はじめたばっかりなのに、あんなに好きになるとは、わたしもお父さんも想像できなかったわ。実叶はいつもにこにこしているけど、スケートをしているときはいっそう楽しそう――わたしのおなかのなかにいるこの子も、と彼女は想像する。いつかいっしょにスケートをするのもいいかもしれないわね。実叶もきっと喜ぶだろう。
早すぎる決断、引退、二十歳で引退がどれだけはやいかはじめて知ったオリンピックを最後に演技があがらない特異性を知らない。
歯をちゃんと磨いたっけ、ワークはちゃんとカバンに入れたっけ、たしかめようかと思うけれどずっとここにいたい。
イヤホンを外す。司の耳に、雨音がよみがえった。
雨はひとりだけどうつくしい。いつか巡り合うだろうそのだれかのために、ひとりで、落ちていけるなら。
酸素が足りない。息が苦しい。与えられる方がくるしい。美しければ美しいほど苦しい。なかったときのことをおもってしまう。
僕からスケートがなければ、と夜鷹は思う。彼は眠りに落ちる。脚が折れればいい。そうすれば、もう生きてはいられないくらい、死ぬほどうれしいだろう。折られた骨が癒着しはじめて、まっすぐきれいだった脚のかたちが変形しはじめた。激痛に熱を出してずっと呻いていたけれど、あるとき、ひどく高らかな笑い声が響いた。いくら気丈な彼でも、ついに気が狂ったのかと訝しんだ。やっと、やっと、と喜びに感極まったかのように呟いていた。続きを聴くために扉に耳をそばだてて、ようやく届いた言葉は割れた音色をしていた。やっと本当にやめられる。僕のスケートが消える。(床を力なく叩く音)死にたいくらい嬉しい。そのうち哄笑は途切れ途切れになった。嗚咽が混ざりはじめた。
あの演技をしたひとが生きているんだとおもえばふしぎだ。彼はいまどこでなにをしているんだろう。もう、眠っているだろうか。明日どんなスケートをするか考えているのだろうか。まったく想像がつかない。俺を見つけてくれたそのひとを、俺もいつかは見つけたい。
このひとが生きている世界に、俺は生きているのだ。いまなにをしているだろう。
この瞬間で死んでしまえたらいい。