早乙女の手汗で俺の手首まで湿っている。今更逃げたりなんかしないから離してほしい。そう思う。思うが口には出さない。今更だからだ。早乙女の家までもう連れてこられている。
早乙女は片手で玄関を開けて「あ」と声を漏らした。が、二の句はない。繋いだままの手を無言で引かれた。どうにか狭い三和土に収まり、後ろ手に鍵を閉める。不穏な呟き声を滑らせたきりの早乙女が何も言わずに突っ立っているので、渋々、訊ねた。
「何」
「今、電気つかない」
「帰る」
この熱帯夜に電気が止められている部屋になぞ用はない。真っ先にそう思った。踵を返そうとして、それでも早乙女が俺の腕を引き寄せる方が早かった。バランスを崩してたたらを踏む。
「靴脱いだか?」
掴まれていなかった方の手まで捕まって、濃い暗闇の中、靴を脱ぐはめになった。上の空気味に投げかけられた「揃えて脱げよ」なんて小言に舌打ちを返しながら。
躊躇なく歩を進める早乙女がテーブルからリモコンを拾い上げ、エアコンに向けた。小刻みな音がして、設定温度が自棄のように下げられているのが分かる。
「電気は?」
「蛍光灯が切れてるだけ」
「いつから?」
問い質した。玄関を開けたと同時にあの「あ」が出たということは、蛍光灯が切れているのを知っていて放置したに他ならない。
「最近ずっと朝帰り続きだったから電気つけなくても別に困らなくて」
何気なく言う早乙女は、俺の質問に答えてはいなかった。確かに、他人の家の蛍光灯がいつから切れていようがそれを知ったところでどうとも思ってはいなかったろうが。それにしても、だ。いつだって、俺はこの男のペースに巻き込まれるのだと、そんなことはできれば意識したくはない。手首に感じる体温。
「つーか電気止まってる家に人呼ぶような奴に見える?」
「見える」
即答以外の選択肢を想定しているわけでもないだろうに、早乙女はわざわざ訊いてきた。くすぐるような笑い方をして、テーブルの上でシルエットだけになっている物を机上の隅に寄せている。
手を伸ばせるだけ伸ばしてカーテンを開ける。と、手首を解放された。ベランダに続く窓へと歩き寄り、カーテンを全開にしてそれぞれを紐で留めつける。街灯の明かりが入りこんできて、ワンルームはそこそこの明るさになった。日付が変わりそうな夜、見える範囲に出歩いている人影はない。車も通らない。
名前を呼ばれた。
「笹塚、食器出して」
早乙女は冷凍庫を開け、取り出したものを冷蔵庫に入れていた。よく見るとその手に包丁が握られている。しまうためでなく、冷蔵庫の庫内灯で手元を照らすためだけにそうしているらしい。
「……両側から食べれば良かったんじゃないか?」
「この時間からこのサイズ食い切るのはどうかしてる。五号のアイスケーキだぞ」
「誰に振舞うわけでもないのに、形なんて」
「こういうのは形が大事なんだろうが」
早乙女の独断で二切れのケーキがそれぞれ皿に乗せられた。残りが冷凍庫に戻される。テーブルに向かい合って座ったが、早乙女の顔はおぼろげにしか見えない。
「笹塚。誕生日おめでとう」
その声音から想起される喜色も判然としない。
「どうも」
「まさか当日に食えるとは」
「どういう意味だ」
「お前の誕生日当日にお前を捕まえられるとは思ってなかった」
「出待ちしてたやつが言う? それ」
「駄目元だったんだよ」
食べ終わったあと、早乙女はエアコンの温度をすこし上げたらしかった。体が内から外から冷えている今となっては、それでいいと感じる。さっきまで二人分の体温を受けて熱くなっていた手首すら、どうせ平素の三十五度そこそこになっているのだろう。それが、惜しいような、いやそうでもないか。
悪い習慣が身についていて、煙草が吸いたくなる。けれど持ち合わせてはいなかったから、開いた口が詮無いことを口走った。
「蝋燭立てられないのが難点じゃないか。早乙女が形にこだわる割には」
「まーな。でも普通のケーキを買い置いておくのは無理だろ? いつ会えるか分からないのに」
「誕生日にケーキっていうのが……」
「そう。俺が思う、あるべき形式」
早乙女は、噛んで含めるようにそれを言った。外から弱く射す明かりに左半身を照らされながら煙草を銜える。ライターが点る間だけ、唇がゆったり描く弧が見えた。夜に浮かぶ音の無い笑みが。それと、きれいな月が。
火が消えたらそれらは消えてしまった。
「あ」
俺は思わず、身を乗り出して早乙女の煙草を奪っている。
「あ、じゃねーよ。欲しいなら言え、一本くらい――」
「違う」
「じゃあ何だよ」
ほとんど無意識に摘み取っていた煙草を早乙女に渡す。さっきまで吸いたかったけれど、消える炎に照らされる早乙女を見た途端に、他の衝動がそれを上回っていた。
今は見えなくなったとはいえ、なんとなく、早乙女が怪訝な表情をしているのが分かる。
「早乙女がそれ吸い終わったらでいい」
「だから何が」
「……欲しいのを、言うから」
俺の歯切れの悪い言葉を早乙女は肩を竦めながら聞いた。
「吸いづらくなるようなこと言うなよ」
不平じみた台詞を白い煙と一緒に吐きながら早乙女は、しかし終いにはケラケラと笑い出した。仕方ないな笹塚は、と言うようなことを口の中で呟きながら、焦らすように殊更ゆっくりと吸っている。赤い火がときおりからかうように燃えて、多分、とうに日付は変わっていた。
(了)