天使の和毛色のカーテンは朝日を孕んで室内へと拡散させている。そのせいか、この部屋で眠るとやたらと早く目が覚める。とはいえ部屋の主より先に起きられたことは一度もないが。
「お早う」
 ダンブルドアは私の意識が覚醒するのに気づいて声をかけてくる。私がまぶたを動かすその前に。どんな術を使っているのか定かでないが、ひっそりと。
「お早うございます」
 目を開け、声のする方に顔を向けた。柔らかすぎる枕へ頭が沈んでいるがために欠けている視野、その端に彼の人が立っている。既に着替えを済ませ、ティーポットを手にしていた。二つのカップに紅茶が満たされる。枕元までその香りが漂ってきた。ベッドから上体を起こすと、上等すぎるシーツが肌から滑り落ちる。
「あなたがお淹れに?」
「遠慮はいらぬ」
 そう勧めながら彼は、カップの一方をサイドボードの上、枕元に程近い私の杖の隣に置いた。そしてもう一方を差し出してくる。彼は何も言い連ねなかったが、いつものやりとりだった。私は要求に応えて杖をとる。椅子の背にかけられたままのローブの隠しから小瓶を引き寄せた。中身をダンブルドアのカップに垂らす。寝起きの倦怠感を払拭する魔法薬だが、彼がこれを必要としているとは思えない。むしろ、ベッドから離れがたくて杖を振るような私の方にこそ必要なものと言えよう。分かっていて互いに黙っている。
 ダンブルドアの私室を訪ねるときには二種類の小瓶を持参する。寝入るための、そして寝起きのための魔法薬。「寝つきが悪く、眠っても今度は寝覚めが悪い」と言い張る老人に、という名目に沿って、作った薬を携えていく。
「セブルス、いつものを頼む」
 その注文は時に大広間で何気なく、あるいは廊下で引きとめられて、はたまた授業後の教室で、些細な頼み事であるかのように告げられる。実際、彼にとっては些事だろう。けれど私にとっては別の意味があった。教員生活の合間を縫って、死喰い人の面々との交流を保っている私にとっては。
 嫌な相手の元へ足を運び、相手の情報を掠めとる。直截的か婉曲的かの違いこそあれ疑念を向けられることには変わりなく、その時には『校長を騙して信を得た』という話をまことしやかに囁いてみせる。人を信じやすい哀れな老人への嘲笑を交えることすらしている。――だから、その嘲笑が本心でないことを検めてほしいと、私の方から申し出た。そして申し出は容れられた。死喰い人との会合を持って数日のうちに、校長は“いつもの”口実で私を呼び出すことになっている。
「私は貴方の躾が欲しい。貴方の手で私のすべてを、どうか詳らかに」
 そんな言葉でそういう処遇を求めた私に、彼は少しのあいだ渋面を隠さなかった。しかし結局は要求を呑んだ。傍に子供たちがいるときには好々爺然と笑っている彼の私室へと、心を暴かれるために私は、夜になってから一人で入る。
 そうして私を迎えるダンブルドアは、勤務時間外だというのに良き校長の顔をしているのだった。最初は当たり障りのない話をしはじめる。授業に必要な教材は揃っているかとか。今の生徒の得手不得手をどのように育て、また、どのように補うつもりであるかとか。
 彼の他愛ない教育談議に、毒にも薬にもならない返答をする。大枠の流れはいつも変わらない。勧められて飲む茶にも何も混ざってはいない。
 解っている。解っていても、抗うことはできない。
 偉大なるアルバス・ダンブルドアその人の言葉が、知らず、私に浸透し、気づいた時にはもう遅い。なぜ自分が人の形を保っているのかが分からない。染みこんでいる。そのときには既に。私は、私の体は溶け崩れる寸前にまで潮解している。冷えて澄んだ水が全身の細胞に入り込んでいるのだった。体の全てが彼の瞳と同じ色に透きとおってしまい、自らの意思では波打つことができない一つの水鏡になる。私は悪寒をとめられないのに震えるべき体がない。ただ、この人の手にすくいとられ、意のままにかき混ぜられ、何もかもを彼の前に映し出すだけの水になる。彼に制御されていなければ流出するか蒸発するかしかない、為す術のない無力な水に。
 ダンブルドアの美しいが容赦のない開心術は、潮が満ちるように私を暴き、潮が引くように私を置き去りにする。意識が自分の体に戻るとき、このからだは呼吸もおぼつかずに汗みずくだ。そのせいで暫くは、体がその汗の雫を引き金にして自壊しはじめる錯覚に苛まれることになる。気づけば私は、汗を吸った衣類をかきよせている。体の輪郭を保とうとしてしまう。理屈を手離した手。指。それらが勝手にそうしはじめる。自分を呼ぶ声が聞こえた。水の膜の向こうから微かに。同時に、張りつめた指を解こうとする力が現れる。どうして? 離せば崩れてしまうのに。それだけが自己保全のよすがなのに。奪われまいとする抵抗は実らない。泣いても喚いても許されない。むなしく身ぐるみを剥がされる。
 在るか無きかの肉体がむき出しにされ、汗も涙も拭い去られる。体が乾いて、やっと、その段になって漸く、自分が液化などしていないことを実感できる。息を、努めて整えながら、さっきまで心身に染みこんでいた男の声をきく。
「セブルス」
 差し出されるカップの、その紅茶の水面には、元のかたちをした私がうつっている。気を抜くと鳴りだす歯の根を理性で押さえつけ、その紅茶を飲み、眠りに落ちる前にカップを返す。
 薬の片方は、そういうふうにして、私が飲むために持参させられている。
「相変わらず格別の効き目をしておる」
 眠気覚ましを飲んだダンブルドアはそう呟いた。私は昨夜の――或いは今までの――出来事をいつしか反芻していたかぶりを軽く振る。
 彼に「その薬は必要ないでしょう」と言ってみたことはない。私より先に目覚め、私の目覚めを見逃すことのないその人に対し、魔法薬が役不足なのは自明だとしても。彼に「その言葉は必要ないでしょう」と言ってみたこともない。二心がない証明として貴方に手ずから暴かれたいと言ったのは私だ。ご機嫌取りなどされずとも、疾うの昔に腹は決まっている。
 私は言葉を発する代わりに、彼の淹れる何の変哲もない紅茶を受け取る。それを干し、温かさが臓腑に広がっていくのに身を任せている。飲むごとに、その温かさからは逃れ難くなる。教員一年目の冬が近い。
「薬が必要なのは今日が最後であるように思う」
 校長がそう切り出した。
「どうして」
 私は自分の声を遠くに聞いた。
「私は今でも“旧友”と連絡をとりあっている」
「しかし彼らに与することはない」
「何故そう言い切れます」
「言い切ったのは君で、しかもこうして確かめさえしてきた」
「私の心は――」
「これからは、セブルス、君の見聞きしたものをわしもそうする必要があるときには君の記憶に入る。心にではなく」
 その断言に有効な反証などありはしない。私はすべてをさらけだしていたし、彼もそれらを見た上で言っている。
 私の見つめる先に彼の瞳は無かった。いつの間にか、剥き出しの左腕へと視線をおとしていた。そこにある闇の印に。
「君の勇敢さをわしは買っておる」
 老いた指が視界に割り込んできた。予想に反し、その指は私の髪を耳にかけただけで通り過ぎた。見るなと遮るのではなく、直視しろと。
「何を恐れる必要もないのじゃよ」
 私の全てをつまびらかにした男はそう言ってのける。唇を噛んだ。
 今更、身体や精神を苛まれることに恐怖はない。怖いのは、私が私でなくなること。私が失敗して服従させられリリーが守ったものを守れなくなること。私がそれを忘れたことすら忘れるのなら、それを知り始末をつけられるのは一人しかいない。
 アルバス・ダンブルドアその人は、もう一度、噛んで含めるように同じ事を言った。
「セブルス、何を恐れる必要もない。――来る冬に対しても同じこと」
 開心術など使わずとも、この程度の内心は読み取って当然であるらしい。彼は語尾に微笑をにじませて、私の頤に指をかけた。先刻通り過ぎて行った指はあたたかい。導かれるまま、老人の瞳を見る。新しい朝と調和する、血の通ったその輝きを。
「……また、お茶をいただきにきても?」
「もちろん」
「ではいずれ、寒い夜に」
 ティーカップを置き、昨夜の服を着る。ローブを羽織って空のフラスコをしまいこんだ。
「またおいで。今は気をつけてお帰り」
 校長はそう囁いた。その向こうが透けてでも見えるかのように、顔を出入り口側へ向けている。
「おはようセブルス」
 廊下を一度曲がったところで声をかけてきたのはミネルバ・マクゴナガルだった。挨拶を返し、歩き続けるが、どうやら目指す方向が同じであるらしい。視線が注がれているのが痛いほど伝わってくる。普段から毅然とした規範意識に則ったふるまいをする彼女が、慎重に言葉を選んでいるらしい様子を初めて見た。
「――セブルス。あなたの能力を疑うわけではありませんが」
 そうやって、意を決したように前置きを口にする。
「あなたは新任教員で、私は副校長です。いくら校長の頼みでも負担が大きいと感じるならば、私に相談してくれて構いません。学校の仕事は教員の皆で分担しようではありませんか」
「我輩の顔はそれほどまでに疲れて見えますかな」
「いつも通りの土気色です。ですが、たびたび就寝前に校長から呼ばれているでしょう。そして今日のように始業前にも」
 それこそ髭もあたらないうちから、とミネルバは付け加えた。
「お心遣いをいただき恐縮ですが、ご心配には及びません」
「遠慮は無用ですよ」
「我輩が校長直々の躾を望んだのです」
「躾」
「左様。とはいえ校長は優しすぎる。昨夜も散々泣かされましたが、あれでは……飴だか鞭だか分からない」
 胡乱な出まかせが唇から滑り落ちる。けれど、本心でも「あの躾は咎めにしてはあまりにもお優しい」と感じてしまっている。彼も、この場所も、ひどく温かいのだった。魂から凍える監獄行きを免れてぬくぬく生き延びる罪悪感を決して忘れさせはしないほどに。
「セブルス……あなたも冗談を言うのですね」
「冗談に聞こえましたか?」
「あなたは校長の好みのタイプからは外れています」
「そ、れは――初耳ですな」
「冗談です」
「……お人が悪い」
「あなたほどではありません」
 彼女はその言葉を最後に大広間へと消えた。千切れ雲が吹き過ぎゆく晴れ空を模した天井が続く。早起きの子供が彼女と快活な挨拶を交わすのが漏れ聞こえてきた。望ましい夢のような長閑さ。不意にこみあげてきた欠伸を噛み殺し、自室へと急ぐ。
(了)
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HPダンスネ「火の無いところのアバンチュール」
初公開日: 2022年07月01日
最終更新日: 2022年08月02日
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完成しました/やましくない密会の話