「教科書を書く気はないかな、セブルス」
 シャワーを使い事務所に戻ると、我らが校長は開口一番そう言った。返すべき言葉は一つしかない。
「ありません」
 唐突な提案だったし、そもそも今夜の来訪も負けず劣らず唐突だった。
 放課後のまとまった時間で魔法薬の調合に集中すると時間を忘れるのは茶飯事で、今夜も大して気に留めてはいなかった。鍋を火にかけ砂時計を返し、一息ついたタイミングで時計を見る。そうでもなければ見ない。大広間での夕食には到底間に合っていないし、砂が落ち切るころには入湯時間も過ぎている。ともあれ、消灯間際の点呼に間に合えさえすればいい。教員だけに使用が許された合図を厨房へ送り、屋敷しもべ妖精へいつもの軽食を指示した。鍋の中身はもうしばらく煮立てて完成を待つだけとはいえ、焦げ付きには気を払わねばならない。底を返しつつ撹拌を続け、暫くして、屋敷しもべ妖精の仕事が遅くはないかと気づいた。
 いつも通りならこんなに長くかからないはずだが。そんな思考に忍び寄るように階段を下りてくる足音がする。次いでノックの音がドアの向こうから。屋敷しもべ妖精ならこんなことはありえない。誰何を躊躇った一拍の隙間に校長の声が割り込んできた。
「ご注文のサンドイッチをお届けに」
「……開いています」
 宝石のような眼をした校長はまっすぐ隣へ歩み寄ってきて、ピクニックバスケットを大鍋の横に置いた。鍋の中身と砂時計とに一瞥ずつ視線をやり、最後に私を見て、言った。
「シャワーを浴びておいで。今なら消灯に間に合うじゃろう」
 ダンブルドアはバスケットから取り出した皿を机に置き、そこにある『上級魔法薬』に目を留めた。
「君を待つ間見てもいいかの?」
 穏やかだが有無を言わせぬ語調とアイスブルーに輝く瞳とに歯向かうほどの理由はなかった。
「鍋を焦がさずにいてくださるなら、お好きにどうぞ」
 シャワーを済ませたその足で寮へ行き、監督生の点呼報告を受けて事務所へ戻る。校長は教科書を見ながらサンドイッチを食べていた。砂時計の砂は落ちきり、鍋の火は止められている。
「教科書を書く気はないかな、セブルス」
「ありません」
 唐突な提案を受け流しながら、まだ時折水滴を落としている髪を拭く。
 校長は気分を害した風でもなく、そうか、と一言答えて杖を取り出した。ゆるく空気を割く杖先の動きに従って、持っていたタオルが手を離れ、濡れた髪を包んで静止した。洗い髪の水分を根こそぎ吸い取ったタオルはしゅるんと音を立てて消えた。ランドリー室へ送られたのだろう。
「どうも」
 キャビネットからフラスコを取り出し、鍋の中身を濾過しながら収めた。ダンブルドアに目を向けると、また『上級魔法薬』のページを繰ってサンドイッチの最後の一口を頬張るところだった。余白という余白をメモ書きに費やしているのでお世辞にも読みやすいとは言えない本なのだが。
 校長の隣へ腰かけ、事務机に積んであった羊皮紙の束を呼び寄せた。上にパンくずが落ちないように、そのレポートを生徒の名前順で宙に広げる。皿に供されたサンドイッチを口へと詰め込み、羽根ペンをとった。ほとんど同時に、ダンブルドアは二つのカップを並べて紅茶を注いでいる。立ち昇る香りが視界の外から鼻をくすぐる。見れば、彼は湯気の立つカップに早速口をつけるところだった。そして何故か校長は、たかが一教員がするレポートの採点を見守ることにしたらしい。
 正すべき部分、改善の余地がある部分に下線を引き、評価すべき部分に印をつける。得点と評価を書きいれる。教務手帳の該当生徒のページが開き、点と評価が転記される。羽根ペンの滑る音。
 明日の一限に返却するべきレポートに目を通し終え、適温になったカップに口をつけた。湯気を戴いたままの紅茶をちびちび飲んでいる校長に訊ねる。
「まさかとは思いますが、貴方も広間で夕食をお召しにならなかったのですか」
「所用があって校外に出ていたのじゃよ。空腹で帰ってきて厨房に行ったら丁度、セブルス、君の声がした」
「そしてご親切にも私の下へ御足労くださった、と」
「人恋しくて、つい。心がぱさぱさになるような仕事をしてきたところじゃったから」
 冗談めかして弱音じみたことを口にしたダンブルドアは、それでも、この部屋のドアを開けたときよりはいくらか気力が回復しているらしかった。
 疲れているときの彼の目は、私にはありふれた宝石に見える。入室してきたときの彼はまさしくそう見えた。瑕の無いよう磨かれてはいるが、物も言えず、人々からの期待にその値打ちを翻弄されるばかりの虚しい宝石に。その凍てつく無表情の輝きが生徒の前で表れることはない。自分が生徒だった頃には知る由もなかった。私が私のすべてを彼に引き渡し、二人きりの時間を何度か過ごすようになって初めて気づいた。
 ひとまず今の校長の瞳は、少なくとも人らしい体温を取り戻して見える。
「貴方ともあろう人が何を仰る。お好きでしょう、暗躍するのは」
「人聞きの悪いことを言うでない」
 ダンブルドアは、しかしゆったり微笑して、言葉ほどには私をたしなめる様子はなかった。皺が深められたその眦を見ながら、空になった皿をバスケットに戻す。
「……貴方は、望めば研究者としても政治家としてでも華々しい功績を成すことが出来るでしょう。だのに何が楽しいのか、好き好んでこの城を帰る場所と仰る。これでは暗躍がお好きなのだと噂されても仕方がないのでは」
「他の誰がそんな噂をしても、『何が楽しいのか』などと、よもや君はそう思うてはいまい? セブルス」
「思っています。失望しましたか」
「ところで、君は教師としての生活には慣れたかのう」
「……貴方はいつも唐突だ」
「まあまあ」
 思わずカップを置いて、とぼけた口調の校長を睨みつけていた。採点の済んだ羊皮紙を事務机に戻すのが、つい、乱暴になって、ガサリと端から落ちるおとがする。
 ダンブルドアのほほえみを見る。体温を持ったその瞳を。そこにあらわれた春の湖を。雪解けを迎え、生命を慈しむ温度にかがやいているような、その瞳を。
 彼のその表情を無碍にできたことがない。知ってしまったからだ。この偉大な魔法使いにも、ショーケースの中に冷たい身を横たえているほかないような疲労に苛まれることがあるのだと。その瞳の凍土が融け潤み、芽吹きの予兆を目の当たりにしたかのような慈愛が、私にも一筋注ぐことがあるのだと。
「それで、どうかなセブルス? 教師としての生活は」
 溜息混じりに、私は唇を動かしている。
「日々の授業が既に万事そんな調子です。もっとも――」
 校長の手元にある教科書を顎で指した。教員になってから新しく買い求めた『上級魔法薬』。生徒だった頃に勝るとも劣らない量の書き込みで埋め尽くされたその一冊。
「――ようやく二年目の駆け出しがどんな有様かなんて、それをご覧になったならもうお分かりでしょうが」
 授業をする側になって初めて意識させられたことがある。世の中の魔法使いは魔法薬学への適性がある者ばかりではないということだ。O.W.L試験で一定の成績を修めた生徒に教えていてすら、鍋の中身が上手く反応しないことがある。ましてや一年生の授業が平穏無事に進むはずがない。
「起こり得ることを能う限り書き出してから授業に臨んでも、生徒は易々とそれを上回ります――良くも悪くも」
 とは言うものの、良い方向に上回られたことなど無きに等しい。大体が「何故そうなる?」と頭を抱えたくなるような事態ばかりだ。もちろん、授業中も二つきりの目を精一杯に働かせて机間巡視に努めているのだが、それでも馬鹿な事故は起きる。まさしく目の回るような忙しさで、日々は飛ぶように過ぎている。
「魔法薬学の授業でセブルス・スネイプを易々上回るほどの生徒たちか。余程未来は明るいと見える」
「ええ、貴方から見たらそうでしょうとも」
「それにしても、君が日々の授業にもここまで手を入れておったとは。初年度の進路指導では随分骨を折ったと聞き及んでおったが」
「おかげさまでイースター休暇中にも仕事に励むことができました」
「怖い顔をするでない」
 生徒たちの所業は日々私の想像を上回っているが、それ以上に、私に初年度から寮監をも命じたダンブルドアは“上回る”どころか想像の外側だと言ってもいい。在学時期が重なっていた生徒ですら顔と名前を一致させるところから始めるしかなかった教員に、寮監だなどと。授業以上に生徒指導には手を焼いた。特に、一方的に私を――私とポッターたちとの因縁を――知っている五年生への進路指導は、当然、大いに神経をすり減らした。来たる夏学期までの目まぐるしい日々。他の教科担当教員から直接話を聞いたり、スラグホーン教授と手紙のやりとりをしたり。今まさに自分がついている教職にすら興味がなかった人間が、生徒が目指すそれぞれの職業について調べることすらした。
 それでも、特にこの学年への進路指導では情報収集に手を抜くわけにはいかなかった。教員による“指導”だ。万が一にも、上級生のアドバイスなどと舐めた受け取り方をされないように。元々、やってやれないことはないのに「できない」と思われるのが耐え難い性質でもある。
 はたと思い当たることがあった。
「もしや、今夜あなたは私にご忠告くださるおつもりで?」
「なぜ」
「なぜ、とは……つまり、このままでは昨年度の二の舞だと釘を刺すつもりでは?」
 着任するにあたって、生徒の観察と指導は教育活動のあらゆる場面で行われるべきだと言い含められたのを忘れたわけではない。大広間での毎日の食事ひとつにしても、生徒の人間関係や素行を把握するために有効な手段の一つなのだと。
「生徒と接する機会をみすみす逃し、提出物の採点に追われている教員に、貴方は――」
「そんなつもりはない。『何が楽しいのか』という疑問に答えるため、聞いたまでのこと」
 老人の含み笑いから意図をつかむことができなかった。自然と生返事が唇からこぼれている。
「魔法薬学教授としての君を見て、更に今の話と照らし合わせる限り、やはり君は既に答えを持っているのではないかな」
「……仮にそうだとして貴方は、それを援用することで貴方自身もそうなのだと仰りたいのですか?」
「頑固じゃの」
 遂にその唇からは笑声がこぼれた。豊かな髭の下で一度口を噤み、短い逡巡を経て、彼は問いかけてくる。地動説が提唱されてから遍く普及するまでに何世紀もの時間がかかったことを知っているか? また唐突で、今まで以上に脈絡がないと感じた。私が頷くと、彼は「では」と問いを重ねた。
「地動説はどのように受け入れられていったと思うかな」
「それは、書き残された記述が伝播したり、時代が下って反論を覆す法則が発見されたりして、徐々に……?」
「そういう要因もあろうが、結局のところ――」
 唐突なのは今更だ。そのはずだった。
「――受け入れられない者はいずれ死んだのじゃよ」
 雷光が走った。そう感じた。が、何のことはない、部屋の灯りが彼の飲みさすカップの液面と瞳との間で乱反射しただけのことだった。本当にそうだろうか。ダンブルドアの表情は変わらない。
「……露悪的な物言いですな。とても生徒には聞かせられない」
「バケツリレーのような政よりも教育現場に楽しみを見出す理由は、端的に言えばそうなってしまう。手ずから如雨露で水を撒くこと自体の楽しみもある」
「そういう比喩を用いると『ダンブルドアは生徒を花壇に囲い、彼の意のままに育てている』などと、貴方の敵は揚げ足取りをするでしょうね」
「君の方こそ偽悪的な物言いをする」
「校長の露悪趣味がうつったのでしょう」
「それにしても、生徒が悪天候のような自力ではどうにもできない困難を忍んで健気に成長する様を見ていると、そんな例えを使いたくもなるのじゃよ。最近はとみに、頑固で周到で理屈屋の嵐が落雷を伴って、魔法薬学の授業で吹き荒れているようであるし」
 私だって、ついさっき貴方に春雷のいなびかりを見たばかりです。
 喉の奥で突沸したそのもどかしさを、しかし伝えはしなかった。半月眼鏡の奥で目を細め、くすくすと笑みを浮かべている上機嫌のその人に、伝えたいとは思わなかった。
「……私だって何も気まぐれで減点しているわけではないのですがね。単に規則を軽んじる生徒が偏っているがために、ルビーの上には雷が落ちやすいというだけで」
 迂遠な会話に調子を合わせるつもりの言い方を選んだら、何故か校長は声を上げて笑った。一頻りそうしたあと、余韻を残したままで彼は、私を呼んだ。
「のうセブルス。君は自覚していないと思うが」
 打ち明けるように語りはじめたその人の、瞳の湖面にまたたく真昼のごとき光。
「魔法薬学の先生である君とこうして、毒にも薬にもならぬような話をしているときじゃ」
 彼にその目で見つめられながら、私も彼の目を見ている。
 視線だけで、話の先を促したことは伝わった。
「君のその、夜に井戸を覗きこむような暗がりの眼に、星が映るときがある。ささめくような遠い光がちりばめられて見える。夏の銀河の光の帯が。……それは大抵、君の溜息と共に浮かびあがる。生徒の話をしたり課題を検めたり、君を“上回った”生徒の未来を慈しんだときに。そして至極わずかな間だけ現れた笑顔と共に、明けの明星のように消えてしまう」
 好々爺然とした表情で、校長は随分と大袈裟なことを言った。無論そのような自分の挙動に――というよりは不随意な反射か何かだろうか――心当たりは無い。生徒の将来を憂えたことはあるかもしれないが、慈愛ではない。
 知らず、私は溜息をついている。
「校長職を辞したら、老後は詩人として活動されてはいかがですか? 研究者や政治家を薦めるのは撤回します」
 目の前にいるひとりの男は笑みを深めた。
「わしは生涯現役の校長でいるつもりじゃが」
「生涯現役を目指されるのであれば、人恋しくなったからといって夜も更けてから新人教師の部屋を訪ねるのはやめた方がいいでしょうね。説教臭い年寄りだと思われます」
 なるべく刺々しくならないような口調を選んで苦言を呈してみる。すると彼は、露骨に視線を逸らした。あまつさえ唇を尖らせている。拗ねたポーズをつくっている。
 ダンブルドアの手の中ですっかり冷えきったカップに指を伸ばした。それを包む枯れた手に触れる。皺と骨とをたしかめるように表面をなぞってから、カップを取り上げた。彼の目が再び私をとらえるのを直視してから、口にするのも憚られるような文句を、口に出した。
「もし今後もこういうことをしたくなるようでしたら、新人にではなく私にしてください。疲れきったその身ひとつでこの部屋のドアを叩いてください。あなたはそうするべきだ」
 既に私は自分が無碍にできないものを自覚している。そして私は、私のすべてを彼に引き渡した身だった。
「……君はもしかするとホグワーツで一番任用期間の長い教師になるやもしれん」
「まさか。すぐに辞表を出します。貴方が……あなたが詩人になったらすぐに」
 死ぬまでは校長として勤め上げるつもりの偉大な魔法使いに、私はそう言った。元より仮定の話であるというのに、私は何故か「あなたが死んだら」という表現を避けている。あからさまな間を取り繕えなかったが、本当に何故かとしか言いようがない。また、彼が死んだあとにまで自分がホグワーツで働き続ける想像がつかなかった。
 二度目の生涯現役宣言をされるかと思ったが、返答は存外に真剣な声音で紡がれた。
「教職を退いた君は――そのときが来るとして――そのときこそ経験を生かし、教科書として採用されるような本を執筆すべきだと、わしは思う」
 そして思い出したように、「書き残された記述が伝播する影響力も捨て置けるものではない」と付け加えた。私も少し居住まいを正す。
「お言葉ですが、この短い教員生活の経験を生かした結果が、書かないという判断です」
 今は机上にある『上級魔法薬』を一瞥する。次いで、同じく書き込みだらけになっている『魔法薬調合法』も。学生時代には「非効率的な方法ばかりが載っているのではないか」と躍起になって教科書の記述の妥当性を検討したものだったが、授業をする側になって分かったこともある。効率を追求したとして、全ての生徒がその実験操作についてこられるとは限らないのだ。例えば材料の切り方を変えて反応が早まった結果、温度管理がシビアになる。例えば混ぜ方を変えて温度が下がった結果、次の材料を入れるべき時間の猶予が短くなる。しかも、遺憾ながら、手順を一通り読んでから実験を始める生徒ばかりではない。
「長年に渡って使われている本にはやはり理由があります。適性も興味関心の方向もそれぞれ異なる子供たちが等しく学べるための理由が」
 ふむ、と校長は頷いて「何にせよまだ時間はある」と呟いた。席を立って、厨房から借りたバスケットにティーポットを戻している。私もそれに倣ってカップ二つを収めた。
「考え直すのに遅すぎるということはない」
「……貴方は私にそう言ってくださるのですか」
「考え直したあとに行動が伴う者には、という条件付きでのう。さて」
 バスケットが姿を消す。厨房に戻ったはずだ。
「さて、『時間はある』と言ったのはもちろん君の老後の話であって、今夜のことではない。楽しい時間と約束をありがとう。おやすみ、セブルス」
「などという癖に、全く立ち去る気はありませんね」
「どうせ今わしが目を離したら『やはり朝までに午後の試薬も作っておこう』などとやりだすに決まっておる」
 図星だった。正確なところをいえば「明後日返すレポートも採点してしまおう」だったが、その実情を思えば図星というほかない。
「ベッドに入りなさい」
 向けられたのは温和な口調とほほえみだったが、退く気は一切ないのがその佇まいでよく分かる。退く気がないどころか、私を追いこむべく歩を進めさえしはじめた。結局ほどなくして私はベッドに追い詰められてしまう。観念して「おやすみなさい」と言う他ない。
 ダンブルドアは最後に私の髪を撫でてから部屋を出た。閉まった扉の向こうから聞こえるその足取りは心なしか軽やかだった。遠ざかる足音を聞きながら目を閉じる。
(了)
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HPダンスネ「例えば天球の回転について」
初公開日: 2022年07月02日
最終更新日: 2022年07月28日
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完成しました/「無い」老後の話
大神と元カノのマイナス書いてる(無言)
全然おおがみじゃないかも。一時創作でやれよって言わないでください(TT)
O型
ランを助けにいくルチがホールデ厶する話 ★
行方不明になったランスキーをルチアーノが助けに行って、ホームデ厶で賭けする話
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