「た、大変だー!!」
 明音がこの学校に教育実習生として通い始めてから1週間が過ぎた。連合に届いた予告状が本物であればいつ魔物が襲ってきてもおかしくない状況なのだが、魔物が現れる気配は一切ない。
 このまま平和な時間が過ぎてあの予告状は偽物だったというオチになればいいなと思いつつ、実習期間中に仲良くなった先生たちと談笑しながらくつろいでいると、なにやら慌てた様子で職員室に乗り込んでくる教頭の姿があった。
「えっ、クマの目撃情報ですか」
「えぇ。先ほど警察から連絡があったのですが、体長は1メートルほどしかないようなので比較的小さいサイズではありますが、もしそのクマに襲われたら私たちはなすすべもありません。なんとか生徒たちを避難させなければ」
 あまりにも慌てている様子だったのでついに魔物が出てきたものだと思い、真っ先に教頭の元へと駆け寄って情報を聞き出していたのだが、どうやらそれは明音の杞憂だったようで、ただ学校の近くに魔物が出たというだけだった。
「そ、それは大変じゃないですか! 早く他の先生たちも集めないと。とりあえず今職員室にいない人に連絡してみますね」
「あぁ、そうしてくれると助かる。みんなも昼休み中で申し訳ないが、今から緊急会議を開かせてほしい。警察からの要望でもあるが、生徒の安全を守るためにも午後の授業は全て休校にしたい。この学校は森に近いし、生徒たちに何かがあった後ではもう遅いからな」
 周りの先生たちは教頭の言葉を聞いてすごく慌てていたが、てっきり魔物が出たものだと思っていた明音にとっては拍子抜けな情報だった。
 確かにクマは危険な生き物であるが、基本的に温和な生き物で自身に危険が及ばなければあちらから攻撃をしかけてくることはない。無差別に破壊行動を繰り返す魔物と比べたら可愛いものである。
 だが、それは魔物と比べたらそう感じるだけであって、野生のクマが危険じゃないわけではない。
 教頭が職員室にかけこんできてから数分後、職員室では臨時会議が開かれ、午後になったら生徒たちを一斉下校させて手の空いた先生たちは見回りをすることになった。
「おーい、お前ら席に着けー。今から結構大切な」
 学校内にいる全ての先生を集めた緊急会議が終わり、藤田先生からクラスの人たちに今回のクマ騒動について説明してきてほしいと任されたので、明音はクラスの子たちに声をかけながら教壇の前へと立つ。
 最初は丁寧な言葉遣いを心掛けながら生徒たちに接していたのだが、取って付けたような丁寧語がそう長く続くはずもなく、今では連合で体調を務めている時みたいな緩い空気で生徒の前に立つことが多くなっていた。
「というわけだから、今日の授業はこれで終わり! 今から一斉下校することになったからみんなは荷物をまとめていつでもここを出れるように準備しておくように」
「武田せんせー、つまり今日の部活はなしってこと?」
「そりゃそうでしょ。クマが活発になるのは早朝とか夕方とかだから、その間はなるべく外に出ないように。詳しいことはこれから決まると思うから、それに従うように」
 さっきの会議では今日の授業が休校になることが決まっただけであり、詳細な内容は生徒たちを帰らせてから決めるとのことだったのでそれを連絡網で回すかもしれないとは言っておいたが、どうやら最近の子供たちはチャットで連絡を取り合っているらしい。
 確かに最近の子供たちはみんなスマホを持っていると聞くし、理屈で考えれば当たり前なのだが、自分より出席番号が後の人に電話をして、その人の親だったり兄弟が電話に出てあたふたしていた思い出がある明音にとって、今年一番のカルチャーショックを受けた気がした。
「それより先生。実査に熊と会ったときはどうしたらいいですか。走って逃げた方がいい?」
「無暗に近づかないようにすることは正解だけど、走って逃げるとむしろ襲われてしまう可能性があるから注意だね。もし熊に会ったら相手の目をじっと見ながらゆっくり後退すること。絶対に背中を見せちゃいけないよ」
「あれ、でも目を合わせて大丈夫なの? 普通こういうのって目を合わさないようにしましょうって言われない」
「それは犬とか猫とかの話だね。クマは基本的に好戦的じゃない生き物だし、こちらから何もしなければ襲ってきたりはしないよ。あと、大きな音を出して威嚇するといいって言うし」
「大きな音? とりあえずクマが出たぞー! って叫んでおけばいい」
「それはイソップ物語の話でしょ。分かったよ、お手本を見せてあげるから誰かクマ役をやってくれる人いない。どうせ一斉下校の時間までまだ時間があるし大丈夫でしょ」
 先ほど決まった話では、昼休みが終わってすぐに今回の騒動について説明し、14時頃に一斉下校ということになっているのだが、それまであと少しだけ時間に余裕がある。
 本来だったらここで帰るときの注意事項だったり今後の授業体制について説明するのだろうが、今後の学校としての対応は知らないし少しぐらい話が脱線してしまってもいいだろう。
 明音はクマ役に立候補してくれた人の中から一番血の気の多そうな男子を1人選び、教壇の上に立ってもらって模擬訓練を行うことにした。
「ぐおおおお!」
「……!? グワオォォ!!」
 教壇に立った生徒はとても元気よく熊の鳴き真似らしきものをしてくれたが、それには迫力が全然足りなかったので明音は両手を大きく広げて威圧的な態度を返す。これには熊役の生徒も驚いたようで、生徒の方が後ずさりをしてしまった。
 だが、それは想定通りである。熊は相手が怯えている姿を見ると自分でも勝てると思って襲ってくる習性がある。なのでもし熊に会ったときは腕を大きく開いて相手を怯えさせなくてはならない。
 明音は驚きすぎてその場から動こうとしない生徒を残し、決して振り返らずにそろりそろりと生徒から遠ざかっていった。
「……すげー、武田先生本物じゃん。俺も熊役やってみたい!」
「そういう意味でやったわけじゃないんだけど……、一斉下校の時間も迫ってることだし、また今度ね」
「えー、竹沢だけずりぃよ。それより、先生と対峙してみてどうだった」
「……いや、すげぇ怖ぇよ。これから武田先生を見る目が変わるかも」
「恋愛的な意味で?」
「いや、それはない」
「はぁ!? なんでそこで私の名前が出るのさ。あんたたちがクマの撃退方法が分からないって言ってたから実践してあげたんでしょ。少しは感謝してほしいんだけど」
 何がおかしいのか、教室の中の誰かがくすくすと小さく笑い始め、それが周りへと移って盛大な爆笑を巻き起こす。
 
「さっ、もうそろそろ時間になるしさっさと帰る準備するよ。私は職員室に帰ってもまだやることがあるんだから」
「……」
「ん? どうした、お前ら。さっきの元気はどこに行ったんだよ」
「……いや、外」
 さっきまでの元気はどこに行ったのか
 そこには隣のクラスの先生が立っていた。
「武田先生、盛り上がっている所悪いですが少し騒がしすぎだとは思いませんか」
「……はい、申し訳なかったです。以後気を付けます」
 そこに立っていたのは隣のクラスの先生だった。どうやらさっきの声が壁を貫通して隣のクラスまで聞こえていたらしい。思い返してみればあれほど盛り上がっていたら当然である。
 明音にとっては、魔物や熊よりも人間の方が怖いかもしれなかった。
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