散髪にいく悟のいる夏五(夏不在)
名無しモブが多め
「悟って、目、綺麗だね」
じっと見つめて寄越された言葉に、は、と悟は声を漏らした。
意味が分からずまじまじと目の前の相手を見つめると、そんなに見つめないでよ恥ずかしいな、と目の前にいた相手が笑う。
「いや恥ずかしいこと言われたの俺だろ」
照れたような顔をした相手に眉を寄せ、言い放った悟は相手に奪われていたサングラスを奪い返した。
真っ黒なそれで瞳を隠すように掛ければ、そう? と向かいに座る男が首を傾げる。
「思ったことを言っただけなのに?」
「いや揶揄ってるだろ」
「揶揄ってないよ」
素直に受け取ってよ、と笑う男は楽しそうだ。
綺麗なものを綺麗だと言って何が悪いのかと続くそれに、悟の口からはため息が漏れた。
男同士で、綺麗も何も無いだろう。
悟は自分の瞳が特別なことを知っているが、鏡で見て特別『綺麗』だと感じたことは無い。
「物珍しいからそう思うだけだろ」
だからそう言うも、そういうんじゃないよ、と男は笑うばかりだ。
「じゃあどういう意味だよ」
相手の机へ頬杖をついた悟が問うと、そうだな、と声を漏らした男が緩く手を組む。
にこりとその顔へ微笑みを浮かべたまま、悟へ向けて男は囁いた。
「いつも私のこと見ていてくれて可愛いなって」
「…………見てねーし」
「いや、見てるでしょ」
放られた言葉に悟が無理やりそっぽを向けば、くすくすと男が笑う。
なんとも楽しそうな相手に、悟の眉間へ皴が寄った。
そんな覚えなんてまるでないのに、まるで見たもののように言われては不愉快だ。
ますます顔を逸らそうとすると、分かるんだよ、と男が言った。
「だって私も、悟のこと見てるから」
さら、と寄越された言葉に、ぱちりと悟の目が瞬く。
数秒を置いてゆっくりと悟が視線を戻すと、組んだ手を机の上に乗せていた男が、少しばかり体を前に傾けていた。
その手がゆっくりと解かれて、動いたそれが悟の方へと伸ばされる。
動いてきたその手が自分の方へ迫ってくるのを、悟の六眼がじっと注視した。
術式を展開すれば簡単に阻めるはずのそれが、そのままそっと、悟の髪へと触れる。
その事実に少しだけ嬉しそうに目を細めて、男が口を動かした。
「悟、髪伸びたね」
◇
自動ドアが開くと、来客を告げる軽やかなアラームが鳴った。
耳にしたそれを追うように悟が視線を向ければ、いらっしゃいませ、と声をかけてきた女性店員がいる。
美容師らしい身なりの彼女は悟を一目見るなりその顔に困惑を浮かべていて、辿った呪力の流れでそれが分かった悟は、笑いながら片手を自分の顔へやった。
「ここ、予約なしでも大丈夫?」
「え、あ、はい……」
目元を覆い隠していた目隠しを外しながら尋ねると、色づいた視界にいた目の前の非術師がぱちりと目を瞬かせる。先ほどとたいして変わらない表情だが、顔を見て目を瞠られるのは慣れていた。
軽く首を傾げると、は、と我に返ったらしい彼女がこちらへどうぞと受付へ案内をしてきた。
店内は程よく静かだ。術師の残穢も呪霊の気配もない。わずかに香ったのは恐らく染髪料の匂いで、そちらへ意識が向いた悟の前で、今日はどうしますかと店員が尋ねてくる。
寄越された言葉に、悟の手が自分の後頭部を軽く撫でた。
「ちょっと後ろ伸びてきちゃったから短くしたいんだよね」
「なるほど、ではカットと……申し訳ありません、カラーはお時間が掛かるのでご予約を頂いてからになるのですが……」
「あ、大丈夫、これ地毛だから」
別に染めても脱色してもいないと笑えば慌てたように謝る店員がいて、それが少し面白い。
洗髪はどうするかと聞かれてついでだからと頼めば、それではまずはとシャンプー台の方へと案内された。
どうやらこのまま彼女がつくらしい。寄越される指示に従って椅子へ座り、傾けられる背もたれに合わせて横たわる。
「それでは、失礼しますね」
声をかけながら顔へとタオルを乗せられて、久しぶりだな、と軽く足を折り畳んだままで悟はそんなことを考えた。
◇
「そりゃどうしたんだ、坊主」
驚いた声を寄こしたのは、店主の男だった。
顔なじみの相手が寄越したそれに、なんの話だろうかと悟が首を傾げる。
目だよ目、と言葉を放った男が自分の顔を指さして、寄越された言葉と仕草に相手が何を言いたいのか気付き、ああ、と悟の口が声を漏らした。
「これ、グラサンの代わり。この前落として割ったからさ」
「いやオマエ代わりって、それじゃあ前見えねえだろ」
「見えるんだな~これが」
放られた言葉に笑いながらも、悟の手が自分の顔へと触れる。
緩くつまんで引っ張れば、結んであった包帯が解けた。
するすると解けたそれを左手に巻き付けるようにして片付けると、何を馬鹿なことを言ってるんだ、と言いたげな顔をした店主がため息を零す。
「髪もぐしゃぐしゃじゃねえか。寝ぐせでも隠してんのか」
「後ろはちょっと蒸れるけど、あとはべつにいつもと変わんねーし」
言われた言葉に言い返しながら歩いた悟が椅子へ座ると、やれやれと肩を竦めた男が手元のタオルを広げた。
伸びてきたその手が悟の首へタオルを巻きつける。首でも絞めるような仕草だが、彼の行動に何ら危険が無いことを知っている悟の術式は、店主の動きを阻まない。
広げたケープまで掛けられれば、いつもの恰好の出来上がりだ。
「随分伸ばしたもんだな」
「なかなか切りに来れなかったから仕方なくね?」
「もういっそ短く坊主にしちまうか、坊主らしく」
「何でだよ」
放られた言葉に悟が笑えば、冗談だと告げた男の手がひょいと椅子を引っ張る。
ガタンと音が立って椅子が後ろ向きに倒れ込み、相変わらずの急な動きに笑いながら、悟は背もたれへ背中を預けた。
真後ろのシャンプー台に頭が乗せられて、顔の上に乱雑にタオルが乗せられる。水の流れる音がして、少し無ずついた足を組みながら、悟はケープの下で緩く手を組んだ。
開いた目には、タオルの向こうにある呪力で出来た世界が映り込んでいる。
子供の頃なら情報量の多さに吐き気までした世界の細やかさは、今の悟にとってはもう常識で出来たものだった。恒常的に使用している反転術式が、脳を常に真新しく再生している。
「これからもあの趣味の悪ぃ包帯を巻くのかい」
「グラサンより楽だったから、しばらくはそう」
「そんじゃ、いっそ刈り上げにしちまうか」
悟の頭を濡らした店主が、洗髪剤を手にしながらそんな言葉を口にした。
寄越された言葉に、悟の首が少しばかり傾げられ、がしりと掴んで戻される。
「どんなの、それ」
「後ろが短くなるから涼しいぞ」
「へー。じゃあそれで」
「お、即決か」
もう少し悩むかと思ったがと言葉を落とされ、快適になるならその方がいいじゃんと悟の口が返事をする。
そうか、と答えてから少しばかり黙り、両手を動かしていた店主が、次に口を動かしたのは悟の髪をすすぎながらのことだった。
「そういや、このところ顔も見ねえが、もう一人の坊主はどうした?」
ぽんと放られた言葉に、悟の口がわずかに息を吸う。
『もう一人』。
この店主が呼ぶその相手は、ただひとりの男を示している。
それがどこの誰だか分かるだけに、悟の口からは言葉が出なかった。
そしてその数秒の沈黙を受け取って、ははぁ、と声を漏らした店主がシャワーを止める。
「さては喧嘩したな?」
言葉を落とし、少しばかり笑いすら滲ませながら、店主は悟の頭へ新しいタオルを当てた。
ゆっくり頭を持ち上げるようにしながらタオルを挟み、揉みこむようにして髪を拭く。
寄越される力加減は少し痛いくらいだが、されるがままになった悟の顔からひょいと小さいタオルが取り払われた。
「どうだ?」
「喧嘩……うん、まぁ」
曖昧に頷けば、やっぱりな、と頷いた店主の手が悟の頭から離れる。
「そりゃまあ仲の良いこった」
言葉と共にいくらか操作した椅子が起こされて、悟は鏡の前へ座り直す格好になった。
「喧嘩してんのに?」
「仲が良くなけりゃ喧嘩だってしないもんだろ」
「俺のこと嫌いになったとか」
「そいつはオマエ、本人に聞かなきゃわかんねぇことだろうに」
さらりとそんな風に言い放った店主から切るぞ、と声をかけられて頷けば、店主の手が悟の頭へ手を伸ばす。片手にはハサミを持ち、しゃき、と横側から毛先を揃え始めた店主の動きを、悟は鏡越しにぼんやり眺めた。
やがてその視線がゆっくりと、鏡に映り込む店内を見つめる。
壁。床。待機席代わりのソファ。横に置かれたカラーボックスには古びた漫画雑誌が入っていて、どの背表紙がどの雑誌なのかももうすっかり覚えていた。
一瞬ソファに座ってそのうちの一つに手を伸ばす人影があったような気もしたが、瞬きをすればすぐに消える。
『君は五条悟だから最強なのか? 最強だから五条悟なのか?』
あの日の問答が『喧嘩』と言えるなら、確かに悟は、『もう一人』と喧嘩をした。
夏油傑という名の呪術師は、今やもはや特級呪詛師。非術師を何人も害した犯罪者となっている。
そうして彼は、悟の大切な友人だった。
この店を悟に教えたのだってあの男だ。
『最近いい感じのところ見つけたんだ、悟も一緒に行こうよ』
そんな風に悟を誘ってこの店へ連れて行き、二人で揃って常連になった。
店に赴いて髪を切ってもらうなんて初めてのことだったが、寂れた街角の理容室は通いやすく、悟はすっかり気に入っていた。
高専から少し遠く、行き帰りの間にコンビニがいくつもあるのが良い。二人で歩いて話す時間が長くなるからだ。
店主が一人で切り盛りしているから、片方が髪を切っている間はいつもすぐ傍にあるソファに座って待っていた。その場で悟と男が話せば店主も加わって、くだらない話をしたりするのも楽しかった。
けれどもそんなことをしたのだって、もうずっとずっと、昔の話だ。
これからだってずっと一緒だと思っていたのに、今はもう、男は悟の傍にいない。
「まぁ原因なんて片方から聞いても仕方ないからな。坊主から折れてやれ、なんて言ったってしょうもない。二人はうちの常連なんだ、仲直りしたらまた一緒に来い」
事情など何一つ知らない店主が、そんな風に言葉を零す。
優しく子供を諭すような言いぶりに、俺らのこといくつだと思ってるんだよ、と悟は少しばかり呆れた。
もうすぐ呪術高専も卒業するのだ。年齢的に言ってももはや社会人と遜色ないし、そこいらを歩く新卒よりも悟は十分に稼いでいる。
しかし呪術も呪霊も知るよしのない非術師は、俺からみりゃあ坊主は坊主のまんまだよ、と目じりの皴を深めた。
その手が鋏を手放して、次の道具を手に取る。
「仲直りのしるしに髪形をお揃いにしてやる。好きな坊主を考えとけ」
「全部剃るのかよ。出家する予定ねーんだけど」
「男のけじめだ、けじめ」
そんな風に言われて、傑はともかく俺まで剃るなよ、と悟は少しばかり笑い声を零した。
◇
提示された金額分を手渡せば、ありがとよ、と皴の増えた店主の手が受け取った。
佇んだままそれを見やって、悟の顔がそのまま店内を見回す。
寂れた理容室はいつ来ても殆ど変わらない。しかし壁紙も鏡台ももう随分と古びていて、革張りのソファにはいくらか修繕した跡があった。
そのまま見回していけば壁に貼り付けられた紙が視界に入り、それを見ながら何となく自分の後頭部へ手をやった悟が、ねえ、と店主の方へ声をかける。
「店閉めんの?」
「ああ、まぁな」
問いかければそんな風に返事が寄越されて、ふうん、と悟は相槌を打った。
この月末で閉店する旨を記された紙切れから視線を外して、レジへゆっくり金を片付けている店主へと視線を戻す。
ずっと以前と同じ姿のままでいられる人間などいない。
通い続けている間に悟が成長したように、店主もゆっくりと老いを得ていた。それもそうだ。悟がこの店へ通い始めてから、もう十年以上が経っている。
通い詰めている間にゆっくりと体を萎ませていった男が、悟の視線に気付いてその目をちらりと悟へ向けた。
何だ、と尋ねてくるそれを見やって、あのさ、と言葉を零す。
「この前終わったんだ」
何を、と悟は言わなかった。新宿。京都。どちらもこの店からは離れていたし、何度か聞いたことのある店主の住まいも別にある。避難の指示も出ていただろうし、見る限り五体満足だ。呪霊の存在など、店主は未だに知りもしないだろう。
数秒の沈黙が、まだまだ冬の気配が残る年明けの冷えた空気の中に降りる。
ゆっくりと瞬きをした店主が、そうしてそれから同じだけゆっくりとした仕草で息を零した。
「……そうか」
細かなことなど知らないだろうに、程よい距離で相槌を打った男が、どうだった、と問いを放る。
寄越されたそれにそっと自分の頭から手を離して、そうだな、と声を漏らした悟の片手が今度は自分の顔へと触れた。
顎へ指を添えながら、その唇がそのまま言葉を落とす。
「とりあえず、嫌われては無かったみたい」
悟が言うと、店主はわずかに目を細めた。
「……そりゃあ良かった」
◇
「ありがとうございました~!」
店員の元気な声に追い出されるようにして、悟は美容室から外へ出た。
しっかりと綺麗に整えられた頭を軽く撫でれば、もはや慣れた手触りだ。
「当たりかな」
しばらく通う店にしようと決めて渡されたポイントカードをポケットへ仕舞い、悟はゆっくり歩き出した。
目元はすでに黒い目隠しに隠れていて、歩きながらふと嗅いだのは嗅ぎ慣れない香料だった。自分から漂うそれに、何となく笑ってしまう。
「アイツがいたらなんて言ったかな」
妙なこだわりのある男だった。自分が開拓した店へ悟を連れていくのを好んでいたし、悟が新しく見つけた店には必ず一緒に行きたがった。たまに物を揃いで持ちたがることもあって、渡されると妙に嬉しかった。
それこそずっと昔に言われたように、もし二人が『仲直り』でもしたら揃いの髪形にでもしたかもしれない。
想像してみるとどうにも可笑しくて、あり得るはずもない馬鹿馬鹿しい想像図に思わず吹き出してしまったのを片手で押さえる。
仕草が不審だったのか非術師の何人かから視線を向けられているが、気にせず足を動かして、悟はその場から移動した。
もう少し行けば補助監督と落ち合う場所だ。
そもそも今日は休日であったはずなのに、新しい任務が押し込められている。特級過呪怨霊が暴走することなく事態が収まり、特級被呪者だった男子学生の死刑は取り下げられ、通常通りに扱われると決定した。それを許す代わりにと条件を付けられて、面倒くさいことを押し付ける口実をせっせと探す連中には呆れるばかりだ。
仕方のないことだと道を歩きながら足を動かし、ふと何かに気付いて悟の足が止まる。
視線を向ければすぐ傍のガラスに、佇む自分の姿が映り込んでいた。
記憶の中にある学生の頃の自分とは、もはやまるで違う。
それもそうだろう。あれからもはや何年も経った。
男が触れたことのある髪だって、悟にはもう、一ミリも残っていない。
その事実を確かめるようにそっと自分の頭へ手をやってから、映り込む自分の動きの馬鹿馬鹿しさにゆっくりとため息を零して、悟はそのまま両手をポケットへを片付けた。
「ばーか」
子供っぽい文句をどこの誰にともなく吐き出して、またゆっくり歩き出す。
雑踏の中へその身は紛れていき、あとにはもう、何も残らなかった。
end