異変に気付いたのは六月、ぼちぼちとみなが衣替えし出した頃だった。
「沙弥香、最近目付き悪いねぇ」
いつものように机をくっ付けてお昼を食べていると、不意に愛果がそんなことを言い出した。
春巻きを口に運んでいた箸にストップがかかる。
「……そう?」
「うん」
「ほんとかー?」
「ほんとだって」
疑ってかかるみどり。もっとも、私の方もかなり疑わしく思ってるのだけど。なにせ愛果だから。
愛果と出会ってからもう二ヶ月ほどになる。彼女の奇行奇態にはだいぶ慣れたつもりだ。
ちなみに燈子は席を外している。例の如く、告白の呼び出しだった。
「授業中でもなんか黒板睨んでるし」
「学年トップ争いしてんだからそんなもんなんじゃない?」
「ちょっと待って。なにその偏見」
「いやでもさ、こーんなやって睨んでるんだよ。先生にガン付けてるのかなって」
そう言って愛果は、彼女の言う「こーんな」を表すかのように、主人不在の机に前のめった。
「ガン……?」
「ていうかあんた授業中そんなんであの点数なの? ふざけんなし」
「えー?」
愛果が笑う。みどりがぐりぐりと愛果の額を押している。
その日はそれで流れる程度の話だったのだけれど、私が自覚したのは次の日のことだった。
登校してすぐ、下駄箱で燈子を見かけた。すぐに心が彼女いっぱいになって、口から欠片が溢れ出る。
「燈子――」
――ぼや、と。その時、燈子がにじんだ。
反射的にまばたきを繰り返したけれど、燈子の姿は変わらずぼやけていて焦点が合わない。
「沙弥香。おはよう」
戸惑っている内に、気付いた燈子が歩み寄ってきた。
まだ輪郭はぼやけてるものの、燈子の姿は幾分見慣れた形を取り戻していた。
「おはよう燈子」
「どうかした?」
「いいえ」
思わず虚勢を張る。燈子は「そう?」と納得してない声を零していたけれど、上履きに履き替えた私が隣に立つと、にっこりと笑って一緒に歩き始めた。
他愛のない雑談を交わしながら、私の頭は昨日の会話と今し方の現象とを結び付けて、一つの答えを冷静に下していた。
/
休日に入ると、私は眼鏡を買いに行くことになった。
親に話し、念のため眼科にも行ってみたけれど、どうやら病気ではなく単純に視力が落ちたらしい。
そこまで酷使するようなことはなかったと思うけれど、なってしまったものは仕方がない。
あるいはそれは、心因的なものもあるのかもしれない。
……燈子の表面的に過ぎる完璧な姿と、見せようとしない弱さ汚さ卑劣さ劣等感嫉妬トラウマ本音建前嫌悪憎悪卑屈自己嫌悪偏愛性癖敵意悪意その他多数の後ろくらいものの数々。
一部なりとも知ってしまったから。私は燈子をどう見ればいいのか分からない。
だからぼやけてしまったんだろう。私の目も。
まぁ、実際のところ、そんなものは関係ないのだろうけど。無理矢理こじ付けてしまうような感傷だという自覚はある。
でも……眼鏡、か。
あまり気が進まない。なにが、と具体的に言うことはできないのだけれど……燈子にあまり見られたくないから、なのかもしれない。
それが、私の変化を示すことになるからなのか、それとも燈子からの評価が気になるのか、分からないけれど。きっと悩むにしては些細なものに違いはない。
それでも気が進まないのに変わりはないものだから、ずらりと並ぶ眼鏡を彷徨う視線はぼんやりとしている。気紛れにかけてみても、どれが自分に似合うかなんてよく分からない。
いっそ、付き添いに来てる母に選んでもらおうか……。
そう考えて近くにいるはずの母を探すと、ふとポスターが目に入った。
レンズのポスターだ。だけどここに並んでいる物とは違う、コンタクトの。
「……あ」
これなら、いいかもしれない。
何故だか直観的にそう思った私は、暇そうにしていた母へと相談することにした。
/
それからコンタクトを普段使いするようになった。
最初は少しだけ怖かったものの、慣れたら楽なものだ。おかげで学校でからかわれるといったことは特にない。いやそもそもたかが眼鏡だ。そんな大袈裟なことでもない。
だからうっかり忘れていた。
「あれ、沙弥香。これどうしたの?」
ウチに来た燈子が一頻り猫と戯れたあと、机に置きっ放しにしてた赤いハーフリムの眼鏡を指して疑問の声を上げた。
「あ、それは……」
別に疚しいことでもないというのに、私は咄嗟に答えられなかった。
なんだろう。隠し事への後ろめたさか。やっぱり些細なことではあるけども。
……結局、眼鏡も買っていた。風呂上がりや寝る前、コンタクトを外したあとに使う程度だから、持ち運ぶことは滅多にない。だからこそうっかり隠しそびれてしまった。
「沙弥香ってメガネかけてたんだ」
「いや、その……最近、目が悪くなって」
「えっ、そうだったんだ。でも学校だとかけてないよね?」
「コンタクトしてるから」
「えー、なんで?」
「なんで、って……」
矢継ぎ早の攻勢に狼狽えていると、燈子はにっこりと、いつもの笑顔を浮かべた。
「メガネ沙弥香、見たいなー」
……あぁ。全く。
やっぱり燈子には敵わない。さっきまであった動揺が、あっさりと溶けていく。
我ながらつくづく単純だなと思う。
――やっぱり私は燈子が好き。目に見える燈子の全部が、好きなんだ。
「なに、それ」
「だめ?」
「もう……ちょっとだけよ」
おねだりに応じて眼鏡をかける。当然眼鏡にも度が入ってるからちょっときついけれど。
燈子を見やれば、なにやらさっき家とか庭を見ていた時みたいな関心の声を上げた。
「おぉー……文学少女だ」
「そ、う?」
「いつもの沙弥香もきれいだけど、メガネ沙弥香もかわいいね」
そうしてさらっと、飾り気のない讃辞を投げかけてくる。相変わらずの不意打ちに、やはり私は一瞬固まってしまう。
「……そう」
「ちょっとかけてみてもいい?」
「どうぞ」
なにを期待してるのか、わくわくした様子の燈子に眼鏡を手渡す。
「うわー、ちょっと変な感じ」
「似合ってるわよ、燈子」
早速悲鳴を上げる燈子にくすくすと笑いながら、私もそのままの言葉を口にした。
――燈子の姿は、もうぼやけることはなかった。