あの時どうするべきだったのか。
テオルがホルムに帰還する際の戦いでは、判断はずっと簡単だった。本隊を率いた彼は違いなく味方で、もっとも勢力が大きく、キャシアス達は小規模な陽動を率いるのが懸命だった。
それは、敵の首魁が出払った領主の館を奪還し、父を助けたいキャシアスにとって、とても都合のいいことだった。
テオルは都合のいい言葉をくれた。災厄を引き起こしたようなものだと内省するキャシアスに、「町のため」だと言わせてくれた。同じように、都合のいい戦をくれた。――都合のいい手柄をくれた。彼が事態を指揮していなければ、キャシアスは西シーウァの高貴なる狂戦士の姿など、生涯のうちに見ることも叶わなかっただろう。
「……お館様の部隊が」
戦場で、斥候からの報せを聞いたフランが、思わずといった様子で声を漏らした。
――このまま南に突っ切れば、父を助けに行くことが出来る。
アルソンの青い顔を見て、キャシアスは、きっといま鏡を覗けばこう映るのだろうと考えていた。
カムールが指揮する部隊に合流しようとすれば、どれだけの時間がかかるだろう。文字通り矢のように早く事態が進む戦場で、その掌握者にどれほどの時を与えるだろう。
父を助けに行くことが出来る。――動かない鉄騎兵の謎を置き去りにして? もっと近くで、あるはずの後援もなく奮戦する友軍を置き去りにして?
アルソンが判断を委ねてくれたのは、ホルムがキャシアスの郷里だからだ。それでも、そのアルソンとキャシアスとを知り合わせたのはテオルだった。キャシアスの父を己の父のように案じる男を、隣に立たせているのは誰か。
「……テオル公を問い質しに行きましょう」
兵を従え、武器を構えて。かの、やさしく都合の良い恩人を。
後に、折々思うことになる。
テオルはホルムの恩人ではなかった。キャシアス一人の恩人だったと。
自問する。父を殺したのは誰か。
天に問う。カムール・グリムワルドが死ぬ運命なら、なにゆえ一度は救わせたのか。
自問する。嗚呼キャシアスよ、なにゆえお前はあの日、父の手を、ひいては従者たちの手を、ホルムの手を離すことが出来たのか。
「――御子よ、」
まことの家族では、ないからか。
「――今こそ御身の力を試さん!」
鉄塊のごとき大質量の剣が、音を置き去りにして振り抜かれる。
目の前の魔将の剣技は、『人を相手にする』ような質のものではなかった。そう勘付いたところで、何の意味も無い。魔術で強化された鎧を軽々と貫いて、袈裟懸けに一閃。
キャシアスの肉体が二つに泣き別れなかったのは、打ち合いはとても不可能だと判断して咄嗟に一歩身を引いた成果。ざっくりと体を裂かれて血が吹き出したのは、その判断が遅すぎた代償。
それでも、まだ動けるはずだ。たたらを踏んでも体勢を戻し、キャシアスの膂力でならなんとか扱える大剣を、振り上げる――ことが、出来ない。
(……内臓が破れたか? 肺の機能が弱っている?)
何かがおかしい。目の前にいるのは確かに尋常の武人ではないけれど、刀傷以外のものが、確実にキャシアスを蝕んでいる。
戦場の、ほんのわずかな時間の間に、記憶を振り絞る。走馬灯の中に、今の状況を知るための知識を探る。
クーム・ルーム・ディーム。竜殺しの英雄。竜を殺せと命じられて、そう期待されてはいなかった。
(……船)
キャシアスは、彼が漕ぐ船に幾度も乗ったことがある。その中のいくらかでは、キャシアスや仲間達の操船では、どうしても魔物に妨害されて同じ道を往けないことがあった。
ク・ルーム。タイタスに二つの宝を託された、誰も知らない彼の親友。竜のあぎとが彼を食み、その目的が果たされた。
(……毒だ! 彼の全身が、息吹一つまで、生き物には耐えられない毒素を持っているんだ!)
そう確信したのと同時に、第二撃。
不安定な地面を転がるようにして、断頭台めいて振り下ろされた剣を避ける。受け流すことなど考えもつかない重量が水の流れのみで固まった地面の形を変えて、風圧で舞い上がった土埃がキャシアスの頬を汚した。
瞬間、ころりと懐から何かが転げだした。
今に始まったことではない。タイタスが作った呪いの石は、事あるごとにキャシアスの前に姿をあらわして、運命的な出会いを装う。
手を伸ばせば掴める場所に落ちたのは、小人族の王子に「捨てる」と約束した、赤い石の指輪だ。その約束は、今この場でキャシアスが踵を返し、指輪を置き去りに逃げ出しても果たされないに違いない。
――キャシアスは、きっと今ならより深く、かの王子の無念がわかる。
あとほんの一週間早ければ、小人王は死なずに済んだのではあるまいか。――あるいは転がる死体の数を、一つでも減らせはしなかったのか。かつては勇壮だったという小人王の枯れた腕が、父に重なる。そこから秘宝を抜き取った腕が、己に重なるように思えた。
全身に毒が回っていた。
(……ダリムさん、)呼吸するだけで、胸が痛んだ。その痛みから解放される手段が目の前にあるのだと、理屈にならない直感でわかった。(……彼を、裏切ることになる)
時間はあるところでは風のように早く、あるところでは泥のように遅かった。キャシアスが逡巡するだけの時間をかけて、魔将が剣を振り上げる。
三度目の奇跡は起こるまい。
白い民の集落からここまで、キャシアスを追うことだけを考えていた小さな手足が、戦いで荒れた墓所を走る。階段を数段飛ばして駆け降り、貯水地の岸辺に転げ落ちて、大急ぎで起き上がって右を向き、左を向いて、目指すものを見つけた。
エンダはほとんど二本足になることなしに走って、飛び上がり、今まさに振り下ろされようとしていた魔将の右腕に組み付いた。
「……エンダ!?」
名付け親の、弱った声に答えてやりたかったが、仕事があった。ぐっと力を込めた両腕が、灰色の外套を突き破る。いまエンダの腕を覆っているのは、キャシアスと同じ白くやわい肌でなし、酸の海をも泳ぐ黒い鱗だ。エンダの中にはずっと昔の感覚が残っていて、それに較べるとずいぶんと射程が短いのが、いけない。頭っから齧ってやるためには、まず棒切れを落とさせる必要があった。
ぐわりと開けた顎には、腕と同じ色の牙が並ぶ。巌のような巨人も、これで食らった。豚はもっと簡単で、丸呑みに出来るので好きだ。兎は、たまに牙が喉に刺さって喉ごしが悪い。
この姿で人間の腕に食いつくのは初めてだった。
なのに、エンダは『これ』を食べたことがある。
そう確信した瞬間、竜でない体の部分が、空っ風に吹かれたときのように毛を波立たせた。人間は、そうやって危険を感じることがある。
目だけをギラリと上向ける。エンダは振りかかる危険から、逃げるということをまるでしない。片腕で振りかぶられた、どこか見覚えのある大剣に、恐怖するということがなかった。エンダの口元に、バチバチと力が集まる。雷撃で迎え撃ってやろうという、その直前に、まさしく間近に稲妻が落ちたような衝撃が走った。
一瞬の目眩ましの後、エンダは自分が中空に浮遊していることに気づいた。あれほどしっかり組み付いていたはずの腕が、簡単にほどけて、吹っ飛ばされた。それも、殺すため以外の目的で。
エンダは眼下に、魔将を見た。数瞬前にエンダを両断しようとしていた魔将の剣に、食いつくように一撃を与えたばかりの、愛する名付け親の姿を、見た。
「――キャシアス、こいつ不味いぞ!」
「うん、食べないよ!」
ぐるりと宙を一回転したエンダの足は、吸い込まれるように着地する。
竜は何にだってなれるのだ。エンダは今、小人族に似ている。四つ足の大型獣を狩って生き、地表から金属を嗅ぎ当てられるほどの力を彼らが持っているのは、この星そのものに愛されたから。その霊長である竜は、この世の『根』に連なるすべての因子を持っている。
「それに――」
なれないものは、ほんの少しだけ。この星の外からやってきた『何か』に愛された、あの種族のいくらかの特徴は真似るだけ。
「――ああ、わかってる!」エンダの意を汲んで、キャシアスが叫んだ。――エンダだって、彼を愛しているから、同じものになろうとした。「――こいつは、人間だ!」
――エンダに格闘術を仕込んだのはキャシアスだ。より正確には、エンダが『最近の本』として童話や聖典とまったく区別しない古代の書物を、他の仲間の力を借りながら読み解いて、エンダの体格でも扱えるように教えたのがキャシアスだった。
いくら火が吹けるからといっても、酒場でぐるぐる走っている子供を見ると心配になるものだ。ものだ、というよりも、世に言うそうした心配性を、キャシアスはエンダを見て初めて体感したのである。特訓に付き合わされたパリスは、ひどい目に遭ったとぼやきながらも、キャシアスにほとんど文句は付けなかった。彼は幼い子供に対するとなればキャシアスよりずっと先輩だから、思うところがあったのかもしれない。パリスのそういうところを、素直にすごいな、と思う。彼は自分で言うよりずっと責任感が強くて、ずっと情に厚くて、ずっと優しい。
それにひきかえ。たかだかその程度で子供を守ったつもりになったキャシアスの、なんと浅はかなことか!
エンダが超人のごとき魔将から自分を救おうとして、剣の間合いに自ら入っていったのは、人間の感覚で、半端に武術を教えたからじゃあないか!
――キャシアスは。
風のように早い時間の中で、ほんの一瞬前。
どうするべきだったのか? べきなのか? 考えてはいなかった。
目の前でエンダが切られると、確信した瞬間に立ち上がっていた。自分を立たせた力について、思い馳せるということがなかった。
たとえばエンダが、たとえば他の家族みんなが、キャシアスをそのように愛した形の通り、キャシアスも彼らを愛していたからだ。
キャシアスの体は、本人に制御しえないほどに沸騰している。全身を蝕む瘴気が異常なまでに体力を削いでいたのが、今は逆に、異常なほどの新陳代謝でそれを押し流している。全身から血が噴き出し続けていても、全身で血を作りながら、戦い続けられるに違いなかった。
右手に輝いているのは、赤目の白蛇を象ったニルサの指輪だ。
(『竜退治』の書は、元々は巨人族の狩猟術だ)
頭脳も、異常に回転している。いつかどこかで聞きかじっただけの知識を、たやすく掘り当ててくることが出来る。
(小人の塔の魔将には、あの書物の教えが効いた。彼は本当に竜だったんだ)
ク・ルームの二刀を、大剣一刀を二倍振るって打ち流す。そんな立ち回りをしながら、エンダを助けるために打撃を与えたのがどちらの刀か、まだ目で追えていた。
(――こいつには、その手応えがない!)
キャシアスの剣が、ふたたびク・ルームの刀を打った。いにしえの鋼で作られた、人を殺すには巨大すぎる武器が、芯を打たれて木っ端微塵に砕け散る。
「……流石」
それを予期していたかのように、魔将も残った剣を両腕で構えた。黒衣に身を包んだ男と、白々とした青年とが、鏡合わせのように向き合う。
「不死身なものか、魔将ク・ルーム」
その隙に、キャシアスは左の手袋を食いちぎるようにして取った。右と揃いの魔術の品だったが、そちらは指輪の力に耐えかねて焼け落ちていた。
人を殺す武技を知らない男に、決闘の流儀が通じるはずがない。だからキャシアスは、本当に手袋を投げ捨てただけだ。
「お前を殺す者の名は、カムールの子キャシアスだ」
投げ放った勢いそのままにほんのわずか大地を蹴る。踏みしめる足の力を借りずに、腕だけで剣を振り上げる。
それで討てると確信して、振り下ろした。
風圧が先に、魔将の頭巾を凹ませる。その下の頭蓋の形を露わにする。大剣が先に、沈み込む。剣と一体となったキャシアスの身体もまた、ぐんと引かれるように英雄に沈み込む。
刹那、自我が融解する。
*
ここは巨竜の腹の下。
上から、血と肉の入り交じった半液体が塊のまま落ちてきて、男に己の輪郭を意識させる。あるいは、そのとき輪郭が生じたのかもしれなかった。
これはク・ルームの最初の死と再生の記憶だ。
天を仰いで血肉の沼に浸かっている男の視線は、一点に注がれている。彼の上にそびえ立つようにして、巌のように動かなくなった竜の喉元を、男はずっと見つめている。
竜は逆鱗を欠いていた。
竜鱗の極彩色が、煉瓦が抜け飛んだように途切れている。こうして竜の下に横たわって初めて、男はそのことに気付いたのだった。
男は英雄ではなかった。昔からそうだった。竜の弱点を耳元に囁きかける精霊の類とは、とんと縁がなかった。彼がたのむのは己が身ひとつ、耳を傾けるのは友の声ひとつだ。
――なぜ気付かなかったのだろう?
呆と横たわって、もう他にすることがない。思索にふけるなど、今まであまりしてこなかった。
――仕損じたのか?
畢竟、それだけが心残りだった。
あとほんのわずか早くに秘密に気付いて、竜の喉に剣を突き立てる自分というものを空想しようとする。慣れない作業だった。それは自分ではなく、見知らぬ英雄の姿であるように思われた。
たとえば、あの鱗が、戦いの中で剥げたものであるなら、どうだろう。
誰かが、戦いで荒れた地層から虹色の石塊を拾い上げる。
それはもう、ク・ルームの記憶ではない。
小舟の舳先のランタンが、まだ光を失わずにゆらめいていて、捧げ持つように掲げられた物体の極彩色を明らかにする。ぺちゃりと座り込んだエンダが、それをためつすがめつしていた。
「……! エンダ、無事……」
「動くな馬鹿野郎! 臓物引きちぎられてえか!」
一喝されて、キャシアスはようやく本当に意識を取り戻した。大地に剣を突き立てたまま、硬直したように自失していたらしい。切っ先には、半ば以上塵と化した灰色の外衣。その自分を取り囲むように、魔術的な光を放つ不可思議な円陣が敷かれている。
エンダはキャシアスの声に気付いたのか、座り込んだまま手を振った。
「シーフォンのチユは下手だからちょっとかゆいぞ。がんばれ」
「るっせえな、文句があるなら自分でやれっつってんだろ。敬意が足りねえんだよ敬意が」
陣を敷いているのは、共に墓所に降りた魔術師の少年だ。――思えば、キャシアスはもうずいぶん長く前後不覚の状態だった。魔将を討ち果たしてからではない。指輪を手に取ってからでもない。
「……ごめん。慌てて……みんなを、置き去りに」
「動くな。喋るな。落ち着きのないやつだな」ただでさえよく喋るシーフォンの口数が、いつもより更に多い気がした。「生まれごときで一丁前に傷心ぶりやがって」
――エンダはシーフォンの背後にいて、キャシアスを見ていた。少年の素早く小さい罵り声の、細かいところは果たして聞こえていただろうか。
聞こえていても、同じことをしたのだろう。エンダはすっくと立ちあがると、シーフォンの長衣に付いた頭巾を垂直に引っ張り上げた。
「キャシアスをいじめるな。ショーチしないぞ」
「おいおいおい締めるな死ぬ死ぬ死ぬ!
……がっ、おい、キャシアスがどうなってもいいのか!?」
「いじめるな」
エンダが頑固に言い出すと駄目だ。まるで重さがないかのように服を掴んで振り回されるシーフォンを見て、キャシアスは思わず吹き出してしまった。すると、たしかに腹部に激しい痛みが走って、出血がずっと続いていたことがわかる。
けれども、その痛みよりも、これと決めたエンダが自分より大きい人間をずるずる引っ張って行ったり、ひょいと背負って大した高さのない場所を見せてくれたりといった思い出が、キャシアスの中にどっと溢れてきて、涙が出そうだった。
「エンダ。……エンダ、やめなさい。こっちおいで」
「むう」
いかにも大上段から、『キャシアスが言うなら仕方ない』と言わんばかりに、エンダは少年を離した。
「ゲホッ……おい……ッのガキ、いつか焦がす……」
――後ほど謝るのは、多分『親』の仕事になるだろう。
そんなことを考えるキャシアスの前に、エンダはしゃがむように座り込んだ。じいっと、腹の傷を見つめてから、ふと。手を伸ばした指先で、爪が輝石のように青く光る。
これはエンダからすればごく近代の、タイタス流の――治癒の魔術だ。
あれっ、と思っていると、エンダは口を開いた。
「アダばあちゃんと、本読んだ。……キャシアス、すぐ旨そうになる」
「……すごいじゃないか。エンダは偉いな」
そう言うと、にんまり笑って胸を張った。
「キャシアスも偉いぞ。ソダチがよかったんだ」
「そういう意味の言葉じゃねえよ……」
復活したシーフォンが、ずるずる割り込んでくる。
エンダはむっとそちらに顔を向けてから、はたと思い付いたように、まだ持っていた虹色の石塊を取り出した。
「シーフォンも偉かったから、やる。オマエもすぐ旨そうになるからな」
「あ? 竜鱗……でもねえな。血を被って変質したのか」
「む?」
「わかんねーもん寄越すなよ。人間の血を竜の血と『等しく』するってぇ怪しいまじないがあるが……ほーん、こういうのは珍しいな」
先ほどのエンダと同じように――おそらく本人たちから言わせればまったく別の部分に注目して、シーフォンが石塊をためつすがめつする。エンダは漠然とした、なんとも感情の読みづらい表情をしてその様子を眺めていたが、やがて出し抜けに言った。
「ごくろう」
「いちいち偉そうなヤツだなほんと」
「……オマエじゃない」
*
ほどけた自我が凝集する。
ここは奈落のこつぼの果ての果て。
鍾乳石から落ちる冷たい水滴を受けて、ク・ルームは目覚めた。
生涯二度目の死は、かつて確信した通り、一度目と同じ者からもたらされた。
多くの者が『彼』と同じ名であった。それは冠が王の器を示さないように、『彼』が健在であることを意味しなかった。ク・ルームの死がたった二度目であるように、何千年の時の大洪水から、男はやっとふたたび英雄の姿を見つけたのだった。
河の子ティタス。今はキャシアス。それだけのこと。
歓喜のほとぼりは、まるで永遠のもののようだった。起き上がった身体は、どこか軽い。よみがえりによって、男はようやく竜のあぎとから解き放たれたのかもしれなかった。
輪廻の石を呑んだ男は、そのようにまた喜び勇んで、死地への階段を上っていった。