切先戒善と鵙野凛々の二人は、ある意味祥鳳社内における名物の組み合わせだ。大学生時代にコンクールで最優秀賞をとったことをきっかけに作家として活動を始めた切先に彼女があてがわれて以降、そのまま彼の作家人生のほとんどを支えている。彼本人が編集者が鵙野であることに拘りを感じているでもなければ、鵙野だって他に担当している作家もいるわけで。ならばなぜこの組み合わせが変えられることはないのか。
「また駄目だったんです?」
「彼も頑張ったと思うよ。でも切先先生だからなァ。そりゃそうでしょ」
午後出勤の一番最初、鵙野が文芸誌『小説・針と鼠』の編集長に呼ばれて聞いた話は何度目かわからぬ『洗礼』の末路であった。最近辞書部から文芸誌の部門に異動してきた編集者だったものだから、とりあえず誰でも対応可能としている切先に、という流れであったそうで。昼時ということで午前の確認からまだ帰ってきていない者や昼食をとるために外に出た者などがいるせいか、常に慌しい出版社も比較的落ち着いた時間帯であった。
「……で、一応理由は」
「特にないって言ってるから困ってんだよねぇ。つってもやることはいつもと同じ。また編集者戻りましたーって私からメール入れていつも通り君の巡回ルートに切先先生が加わるだけ」
「警備員じゃないんですから。っていうか、彼そんなに嫌われますかね……いやたしかに過去にいくつかやらかしてはいますけれども」
切先がデビューした頃には副編集長、その数年後に編集長としてのポストを得た[[rb:永桶>ながおけ]]はペットボトルのほうじ茶を一口飲み、鵙野を見やる。彼女は文句を言いたげな様子であったが、それを察してか永桶は鋭く切り込む。
「でもさ、あなたもそろそろ自覚した方がよくないかい」
「何をですか」
「あなた、切先戒善の担当編集は自分しかいないと思ってるでしょう」
鵙野のただでさえうんざりしていた様子の表情はさらに険しくなる。
「それはおかしいです」
「でも鵙野さん、あなた切先先生のことは結構すぐ出来る出来ないを判断するのに、他の人の返事は一瞬待つよね。いや叱ってるわけじゃないんだけどさ。だからそこ座って。今さっきご飯にいったばっかでしょあの人」
鵙野が立たされているからかよろしくない構図になりかけているのを、永桶は近くの空いているデスクに座らせることで修正する。
「いやさ、切先先生の病気のことなんだけどね。私も編集長になった時に知らされたわけで。いつ知ったんだ?」
「……彼の担当になってから、五年ほどです」
「あ、じゃあ馬場さんからなんだね。なんて説明されたの?」
「あの先生には変な噂があるんだ、とだけ」
「てことは、詳しいとこは本人から聞いたの?」
永桶の率直な疑問に、鵙野は頷いてからその経緯を話し始めた。
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当時の彼も同じように「誰から聞いたの」と問いかけてきた。馬場からだと素直に言えば、彼はそっかぁ、といつものようにへらへらと笑って返す。デビューしたばかりは短かった戒善の髪は肩に降りてきはじめたところで、自室の中であることからこぼれる髪も気にせず粗雑にまとめていた。
「で、噂ってどういうの?」
「過去に事故に合ったんじゃないかとか、そういうのだ。交通事故だの怪異現象だの……」
鵙野がそう言うと、彼は急に咳き込み始めた。やがてそれが切先がコーヒーで噎せてしまったのだとわかると、鵙野は距離を詰める。背中をさすれば、しばらくして彼は咳こそ止まらないが落ち着いた様子であった。
「大丈夫か」
「うん、ごほ、大丈夫。いやさ、怪異現象って何さ。そんなファンタジーじゃないんだから。交通事故とかも、かは、っ、あったことないよ」
彼が笑う様子に不信あるいは猜疑から由来する違和感に目を瞑り、「聞いたことがないからな」と返す。上向きに歪んだ目はやがて天井から鵙野に移り、真面目なものに変わった戒善の射貫くような視線にたじろぎつつも、彼の挙動を見届けていた。男は椅子から立ち上がり、やがて自分の棚から一つの白いファイルケースを取り出した。外の湿度はまだ百パーセントを下回ることはなく、彼女の靴の中にある一足目の靴下は濡れたままだ。彼がファイルの中身を漁っている間、鵙野は彼が淹れたカフェオレの中身を半分にする。彼女の中に明確な根拠があるわけではなかったが、今こうして話している彼の挙動を意識して眺めていると、やはり『違う』という疑心がぬぐえない。今まで何も考えず見ていた動きや言葉の全部が、他の人間と違うように見える。一度偏見のハンカチについたシミは、取れない。
「あったあった」
彼はやがて一枚の紙を取り出した。何かのコピーらしく、原本はきっと赤いペンで書かれているであろう文言はモノクロのグレーになっている。彼女は言葉ひとつひとつを目で追ううちにそれがどうやらカルテのコピーであると理解できた。しかし医学に造詣が深いわけでもない鵙野では結局彼はどういうものなのかさっぱりわからなかった。
「……何の症状だ、これ。というか持病あったのか」
彼は「ある」と一度肯定を示してから淡々と説明を始めた。
「ウルバッハ・ビーテ病。――脳の病気なんだけどね、知ってるかな」
「知ら、ない」
「まぁそうだよね。ざっくり説明するとね、海馬が損傷しているせいで『恐怖』の感情を理解することができないっていう病気なわけ。だから俺は怖いと思うことができないんだ」
言葉を反芻して飲み込み、理解するまで数秒。
理解した意味を、実際に考えてみて数秒。
「……!」
そのことが、どれだけ彼の人生を危なく、そして自分たちとかけ離れたものにしているかを、彼女はまるっきり想像して、そしてそれがどういうことかを理解した。自分の理解している感情の枠組みをはるかに超えた、果たして人間と呼べるのかもわからないそれ。
恐怖がない人生が何を示しているのか。それはもうすぐちぎれる吊り橋の上にいたとしてもまるで涼しい顔で縄がちぎれるまで歩き続けるのだろうし、きっとその感覚を理解されることも我々の感覚を理解することもないのだろうとわかる。見えないことをいいことに見なかった透明な壁を知覚してしまった。
そんなことを考える鵙野に対して、戒善はなおもへらついた様子で彼女の様子を見届ける。
「まぁそんな大したもんじゃないよ。一応月一で通院っていうか、なんだ?経過観察が必要だって言われてたけどもう今はほとんど行ってないからさ。現に持病が原因で事故事件になったことはないから」
そんな言葉で安心できるわけがない。確かにそれが今後作家と編集の関係に影響するわけではない。通院していないという以上活動は影響しないし、現に作家としての活動は問題なく続けられている。つまり戒善が彼女にその事実を伝えたのは『バレたから』というそれだけの話であり、彼らの信用の度合いはまったく計算に入っていないわけだ。この事実を鵙野のようなただの人間が正気をもって受け止めきれるわけがない。切先戒善と鵙野ら他の人間ではそも受け止める感情の選択肢の数が違うから。彼は返答を待っている。きっと、戒善が想定していない返答を戒善は待っている。彼はまるで人でない立場であることを主張しながら人として目の前にいる。