〇〇〇〇〇〇、赤名島。そこに行くためには1週間に1度しか出ない定期便に乗り、船で12時間揺られ続ける必要がある。
赤名島にはおよそ300名ほどの村人が住んでいるが、電気や水道は通っているものの携帯の電波はつながらず、衛星電話でなければ本部と連絡を取り合うことはできない。
総括から言われた少し遠出がまさか東京から直線距離で300km以上離れた孤島をさしているとは思っておらず、お酒に釣られて安請負したことを明音は既に後悔していた。
その日は特に海が荒れており、島がもう目の前にまで迫っているにも関わらず沖で2時間様子見し、なんとか本土に帰ることなく上陸することができた。
島に行き慣れているはずの定期便でさえ赤名島にたどり着ける可能性は半々と聞いていたので、一度の航路で島に上陸できたのはとても運のいいことなのだろうが、合計14時間もの間波に揺られ続けた明音は、上陸と共に体調を崩し、船着き場で一人横になっていた。
「うげぇ……、気持ちわる……」
船の上ではなるべく物を食べないようにしていたので戻してしまうようなことはなかったが、船に揺られすぎて地に足がついていることに違和感を感じ、海を見ながらしばらく休む。
先ほどまで海の上にいてもう見飽きたと思えるぐらい見てきた光景のはずなのに、今ではむしろ安心する光景だった。
「あの……、大丈夫でっか。ずっとそこから動かんけんど」
しばらく船着き場で横になっている、どうやらここの住民らしい少女に声をかけられる。
おそらくこの島独特の方言なのだろうが、標準語に慣れている明音からしてみれば、自分がよく知らない土地に来たのだという気持ちが強くなってきた。
「えぇ、大丈夫よ。ちょっと気持ち悪くなっていただけだから」
「けんど、そげん気持ち悪かばお医者様に見てもらった方がええ。うちがそこまで案内ばしようか」
「えっと……、ありがとう。じゃあお願いしてもいいかしら」
少女の方言がきつくて正確なコミュニケーションが取れているのかは怪しいが、どうやらあたしのことを心配してくれているらしく、診療所まで案内してくれるらしい。
ただの船酔いで医者にかかるのは大げさなような気もするが、30分以上経っても頭がふらついていることは事実だし、念のために見ておいてもらってもいいだろう。
明音は起き上がり、少女の肩を借りながら診療所へと連れて行ってもらうことにした。
村に唯一ある診療所は思っていたよりも港に近くにあったらしく、少女の肩を借りながらでも5分とかからなかった。
海風にあてられてさび付いているシャッター街を抜け、元々は町内会等で使われていたのだろう小さな公民館へと連れていかれる。
待合室には十数人ぐらいの住民の方たちが集まっていたので何事かと思ったが、ただそこに集まって井戸端会議を開いているだけらしく、持ち寄ったせんべいやおかきを食べながら勝手にくつろいでいた。
「……他に目立った症状もないですし、まぁただの船酔いでしょうね。この薬を飲んどけばたぶん治ると思いますんで、あとは安静にしておいてください」
目の充血や喉の奥をじっくとり見られた後、身体に異常はないからたぶん船酔いでしょうと診断され、都内だったらどこの薬局でも買えるような酔い止めの瓶から何錠か取り出してポチ袋に入れて薬を渡される。
この薬は食後に飲むのか、それともいつ飲んでもいい薬なのかと瓶に貼ってあるラベルを見ながら説明をしているのが少し不安だが、明音が文句を言える立場ではないので薬はありがたくいただくことにする。
都内ならどこでも買えるような酔い止めの薬を準備せず、とりあえず着替えだけあればいいかと何も考えずに出発してしまった身の人が文句なんて言えるはずもなかった。
「この人はこの島で唯一のお者様やけん。うちのおっとおもこの人に治療してもらっとったとよ。島の人たちは皆この人に助けてもらっとるけん。お姉ちゃんもその薬を飲んだらすぐよくなろうよ」
あたしをここまで案内してくれた少女は、あたしをベッドに寝かせたかと思ったら勝手に食器棚からコップを取り出してコップを持ってきてくれたり、案内所にいたおばあちゃんからもらってきたらしいせんべいを私に食べさせたりしてくれた。
それは熱を出した人の看病で、吐き気がするって言っている人にするような療養の仕方ではないような気もするが、その気持ちだけでも明音はこの島に来てよかったと思った。
「さて、気分もだいぶ良くなったし、そろそろ任務再開と行きますか。すみません、この近くに宿屋さんありますか。いくら安っぽい所でも構わないんですけど」
お医者さんから渡された市販の薬を飲み、あとは時間が解決してくれるだろうと思い身体を無理やり起こして宿屋を探すことにする。
これはただの怠惰ではなく、いくらインターネットでこの島について調べても情報が一切出てこなかったので、宿はこの島についてから決めるしか方法がなかったのだが、お医者さんからは明音が想定していなかった答えが返ってきた。
「宿屋って言われても……、この島に宿屋なんて上等なものはないよ。そもそもこの島にお客さんが訪れることなんて滅多にないからね。よかったらこの診療所に寝泊まりしてもいいけど、どうするかい」
都会産まれ都会育ちの明音にとって、田舎は田んぼや山々が見えるが交通の便はある程度整っているぐらいしか経験したことがなく、村人が数百人しかいないような絶海の孤島での暮らしなんて想像できるはずがない。
都民である明音にとっては観光地や駅の周りには宿屋が乱立しているのが当たり前であり、この島を観光地とさえ認識していないような島民にとっては宿屋がないことが当たり前となっていた。
「えっと……、あたしの他にもこの島に来た人とかいると思うんですけど、その方たちはどうされてたんですか」
「他の方って言われても、ほとんどうちに来る人なんていないしなぁ……。この島に来る人は基本的に誰かの親戚だろうからそこの家に泊まるだろうし……。あぁ、私がこの島に来たときは佐久間さんの所に泊めてもらってたんだっけ。もう10年以上前の話になるけど。あの頃は佐久間さんも若かったなぁ……」
なにやら思い出に浸っている人がいるが、明音の頭は今からどうするべきか必死に考える。
任務でこの島に来たので親戚や顔見知りがいるわけではないのでこの診療所に泊めてもらえるのはすごくありがたいことではあるのだが、東京を出発してから何も食べていないのでできれば今すぐ何か食べたいような気もする。
島民の人は先ほど歩いてきた商店街の所で買い物をするらしいが、昼の4時頃には店を閉め始めてしまうらしいのでもうこの島に着いた時点で間に合わない。
島に入港してよいか様子を見ていた2時間があれば余裕で間に合っていたのにと、己の運の悪さを呪った。
「あの……、よければじゃけどうちのうちに来ればよかよ。おっかあもええって言うと思うけん」
「……あぁ、あなたのお家にお邪魔してもいいってことね。けど急にお邪魔したらご迷惑じゃない?」
「別によかと思っけどね。お魚たくさん釣りすぎて他の人に配って来いって怒られたぐらいやけん、むしろ消費してくれる方が助かるとよ」
どうやら港には晩御飯用の魚を釣りに行っていたらしく、今日は大漁で4,5匹ほど釣れたらしい。ここでは自給自足をするのが当たり前なんだよと言っているが、海に行けばいつでも釣りたての魚を食べられるなんて正直羨ましい。
いかの刺身に稚魚のから揚げ、タコの酢の物。これだけ海の幸が豊富だったら一生おつまみには困らないだろうなと、そう思った。
「……じゃお言葉に甘えてお邪魔してもいいかな。あまり迷惑はかけられないから今日だけだとは思うけど」
「別に今日だけじゃなくてもよかとに。とりあえずおっかあに聞いてみるからちびと待ってて欲しかねん」
そう言って、少女は一度家に帰り、あたしを家に連れてってもよいか聞きに行ってくれる。
彼女を待つだけなのにずっと診療所にいても迷惑になりそうだったので、一度待合室にでも戻って少しでも情報収集しておこうかと思っていたのだが、逆にあたしの情報は筒抜けで、上陸から2,3時間しか経っていないのにほぼ全員の島民に知れ渡っており、逆に質問攻めにされて大変な目に合ったのはまた別の話である。