教師という立場上、生徒から相談を受けることは珍しいことではない。
私の場合は舐められてるのか……それとも親しみを感じてくれてるのかどうか……程々にそういう話を持ちかけられることがある。大概が女子で、それも恋愛沙汰だったりファッションだったりとかどうでもいい話が多い。ちなみに男子の場合はもっとどうでもいい話が多い。
それでもやはりクラスの担当を持っていない教科担当という立場では、生徒一人一人に目を配ることなんて不可能に近い。生徒の顔を見るよりも、教科書だとか黒板だとか自作ノートだとか答案用紙だとか諸々の書類だとか、そっちに気を取られてしまう。
やることが多いのだから当然ではあるのだけど、ふと振り返って、私はなんで教師になったんだっけ、って思ったりする。その度に慌ただしく頭の痛い教育現場で初志貫徹の難しさを思い知るのだ。
そうした無力感を再び思い知らされたのは、都と佐伯さんの密会現場――ではないそうだけど――に立ち会わせてしまった時だった。
浮気だなんだよりもまず、大の大人が未成年を陽が沈むまで連れ回すとは何事か、と憤った辺り、都への信頼感なのか教師という職務が脳にこびり付いているからなのか。ようやく浮気の二文字が浮かんだのは都を叱り付けてるさなかだった。
二人からの事情聴取の末、経緯を納得した上でもう一度叱り直し、佐伯さんを見送って、都に偉そうに一家言を呈して床に就いたはいいものの、しばらくして自分がショックを受けていたのだと気が付いた。
全くの赤の他人である喫茶店の店長なんかより、学校の教師に相談して欲しかった。それと同時に、教師である自分が気付かなかったということも。
軽く事情を聞いてはいるから、納得はしてる。というか佐伯さんの洞察力を恐ろしく思うのだけど。賢い子だとは思ってたけど、そこまでなんて。
そもそも学校なんて閉鎖的なコミュニティで、自分が普通とは少し違うという自覚があるのであれば、迂闊に相談なんてできやしない。それは自分が――ううん、都を通して身に沁みて分かってることだった。
でも。それでもそこで私じゃなくて都を相談相手として選ばれたのは……分かってはいても、悔しい。
八つ当たりのようなそれは、きっと無力感なのだろう。あるいは……。
ともあれ、だ。知ってしまった以上、気にかかってしまうのは仕方ないだろう。
教師としてどうすればいいのか、うだうだと悩んだ末に、少しだけ話を聞いてみようと決心が付いたのは、二年生が修学旅行から帰ってきたあとのことだった。
「佐伯さん、ちょっといいかしら」
放課後でざわついてる教室の前で息を一つ整えてから呼びかけると、不思議そうな顔を浮かべた佐伯さんは、七海さんといくつか言葉を交わしてから歩み寄ってきた。
「なんでしょう」
「ちょっと着いてきてもらえる?」
不思議そうな顔が見る見ると真面目なものになって、彼女は「分かりました」と訊き返しもせずに頷いた。
……もしかしてもう察されてる? えぇ?
そんなに顔に出やすいかな、と自分の表情筋への自信をなくしながら、佐伯さんを伴って屋上へと出た。
今日の天気は晴れだけれど、日光の暖かさよりも風の冷たさの方が身に沁みるようになっている。
もう、すっかり冬が近付いていた。
「ごめんなさいね、このあと生徒会あるのに」
「いえ、この時期は特に忙しくもないですから」
「ああ、そうよね」
当然、私は副顧問だから知っている。
……ってそれじゃあ余計になにかあるって感じじゃないの。
佐伯さんの目、もう完全に真面目モードだし。
「えーっと、あー……」
ああ、言葉が上手く出てこない。あんなに考えてたってのに、今になってどれもこれも違うんじゃないかって思えてくる。そうすると余計に思考が空転する。
「……大したことじゃないのかもしれないけど。もしあなたがよければ、私も相談に乗れるから」
そうこう悩んでいたら、なにも考えてない口からぽろりとそんな言葉が出ていた。
なに言ってんだろ、と思わず顔をしかめる。と、一瞬きょとんとした佐伯さんは、ふっと小さく微笑んだ。
「なんですか、それ」
本当になんでしょうね。もう。
「それは……事情を聞いちゃったんだから気にするのも当然でしょう」
溜め息を吐き、頬を掻きながら観念すると、佐伯さんは微笑を苦笑へと変えた。
「……そうですね、すいません」
「まぁ、あいつはああ見えて聞き上手だから、それに比べたら頼りないかもしれないけど」
「そんなことはないです。なんて言うか……お二人とも仲がよくていいな、と」
「……なに聞いたのよほんとに、もう……」
やっぱり一度、都をシメた方がいいのかもしれない。これ以上生徒に醜態をさらされないためにも。
帰ったあと決める技をシミュレーションしながら、私はもう一度溜め息を吐いた。
「ごめんね。こんなことで呼び出しちゃって」
「いえ」
「ほんとはもっと色々と言いたかったんだけど、全部飛んじゃって……」
なにせ普段相談されることとは毛色が違う。より私に身近な話だ。
だからこその言葉を伝えたかったのだけど……余計なお世話なんじゃ、とか、一概に同じように言えない、ということをここに至って気付いた格好だ。
心配が先走り過ぎてしまった。反省だ。
でもまぁ肝心のことは伝えられたのだし、今回はそれでいいだろう。あとは相談された時に、内容に応じて適宜話していったらいいか。
「……それじゃあ、箱崎先生。ちょっとだけ話を聞いてくれますか」
そんなことを考えながら、「用事はこれだけ」と帰そうとした矢先、佐伯さんが真っ直ぐに私の目を見て呼び止めた。
「え、うん」
虚を衝かれてしまい、思わず生返事になる。
そうしてようやく思考が佐伯さんの言葉に追い付いた時、
「私、振られたんです」
彼女は突然、そう言った。秋のような寂しさを湛えて。
――驚き。呆然。懸念。色々と訊きたいことが浮かんだけれど。
「……………………そう」
私はそれら全てを呑み込んだ。
今の私は、そういう役目じゃないのだから。
「あ、今の話は児玉さんにはまだ言わないでください。まだ心の整理が付いてないので……もう少ししたら児玉さんにも伝えたいと思います」
「分かったわ」
……こんなことでちょっとした優越感を感じてしまう辺り自分に呆れてしまうけれど、それを一旦脇に置いて、私は彼女が言葉を続けるのを待った。
「別に悪い意味じゃなくて。望んだ結果じゃなかったですけど、気持ちは届いてくれたんです。ただ、私じゃなかった、ってだけで」
ああ、それは……よかったのだろうか。それとも、そうでなかったのだろうか。
いっそ、届いてくれさえもしなければ、もっと簡単に割り切れたのかもしれない。
私みたいに。
「頭じゃそう分かってるんですけど、心があんまりそう納得してくれないんですよね。諦めたはずなのにまだ諦めきれない」
そう言って、佐伯さんは、
「……いつか。いつか本当に、諦めることができるんですかね」
悲しさ――いいや、悔しさのような煩悶をにじませて、俯いた。
「……分からないわね」
その真剣な問いかけ――のような独り言に対して、私はそう答えるしかなかった。
彼女は別に慰めを欲していない。ただ、やり場のない感情をどうしたらいいのか、途方に暮れているのだ。
それに対する答えを、私は持っていない。
だけど。
「私の話なんだけどね。付き合ってた男に振られたことがあるのよ」
幾許か考えてからそう付け加えると、途端に佐伯さんはぽかんとした表情で私を見返した。
「――え?」
「悲しい、っていうよりあんなクソ野郎、って感じだったけどね、私の場合。で、人気のないとこに逃げたらそこに都がいた。でまぁ色々あって付き合うことになったんだけど。そんなの、予想なんてできないじゃない。そん時はさ」
……やっぱり、ここにきてなお、未だに上手く言葉がまとまらない。
「悲しいことは悲しい。それはそれでいいと思う。けど、ずっとそのままでいることは難しいことよ、きっと」
それでも、伝えたいことはあった。
「だから佐伯さんも、望む形に変われるわ」
その気持ちは、上手く伝わってくれただろうか。
私の言葉に佐伯さんは――未だ少しぎこちなくはあるけれど――小さな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。まだそう思うのは難しいですが、覚えておきます」
「それくらいでいいのよ。先生の言葉って。授業は別だけど」
それから一言、二言、言葉を交わして、佐伯さんは「それでは失礼します」と一足先に階段を下りていく。
そんな彼女の背中を見送りながら、私は久し振りに教師という職にあることについて、ふと考えたのだった。