1つ目は『本屋』
2つ目は『辞書』
3つ目は『書く』
タバコ屋を過ぎて三つ奥の道で曲がったところにある古書店は多くの古い紙の匂いで満たされていた。十進法に基づいた配列はボロボロの背表紙であろうが一刷分古い新書であろうがあらゆる本を設けていた。中高一貫校や大学などの学問機関などとちょうどいい距離であることはもちろん、大通りの喧騒から離れていることも幸いして経営を続けられていた。
店の看板娘である黒い猫がレジ台の上に乗って寝ているのを、その来客はそっと撫でてから目的の棚を探し始めた。その猫は彼の柔らかな手つきにごろごろと寝言みたいに喉を鳴らし、彼の口元を綻ばせた。レジカウンターの向こう、奥まった倉庫においてあるロッキングチェアに座っている店主は、足音で目を覚まして来客を見る。知らない顔だった。ぎし、と立ち上がる音で猫は目覚めて店主の足元をぐるぐると回り始める。
「らっしゃい」
「あ。えと、こんにちは」
「高校生かな」
「あ、はい。――コウコウ、に」
その少年は学ランの前をきっちり締めている真面目な子供に見えた。顔立ちや目の色や頭についた黄色い補聴器らしき器具、そして言葉のたどたどしさが転校生であることを店主に推理させる。彼は少し不安げな目を持っていた。店の外をちらと見れば、おそらく彼のものであるとわかる自転車。彼が答えた高校はこの店の近くにあるから、きっと同級生に教えてもらったのだろう。
「何探してる?」
「えっと、えー、ヴェルタァブーフ、なんだっけ……」
「辞書?」
「それ!」
意味が伝わったことがうれしかったのか、途端に顔を明るくする。なるほどドイツで過ごしたことがあるらしいこの子の日本語、今の調子であれば話すのにも一苦労であることがうかがえる。
「何?ジャパントゥジャマニ?」
「えと、ギャク、ドイツ語、から、にほんご」
店主は独和辞典をご所望らしきその子についてこいと顎と目線で語ってから辞書の棚まで歩き始める。猫は先ほどまで会話していた時も依然として店主の足元をぐるぐるしていたが、やがてぴょんとネコ科特有のしなやかな跳躍で店主の背中を追う少年の肩に飛び乗った。
「へ!?おう、うわ、」
「あー、耳のそれ気に入ったんじゃないか?大丈夫?」
「だいじょぶ、じゃ、わかんないです、あの、左側なにもきこえないので、」
「わかってるわかってる。右から話せばいいんでしょ。えっとね、ここからここまで辞書。独和はどっかに固まってるだろうから自分で探して」
「はい。あの、この子」
店主は「飽きたら勝手に降りるよ」と言ってレジまで戻っていった。肩にのしかかる鞄の重みと猫の重み。ふわふわした黒い毛の温かみが、彼の緊張をほぐす。ドイツ語が背表紙に箔押しされている辞書を手に取ってめくり、何冊か取り出して比較する。薄い紙をめくって文字を追ってみてはうーんと悩んでいる様子であった。その中から一冊手に取り、そして辞書の棚以外を漁り始めた。どうやら多少は置いてある原書を時折懐かしそうに見ていたりしていたようだ。
少年がレジに向かうときには、猫は店主の予想通り彼の肩から降りていた。そしてレジ横すぐの棚の上を陣取っており、香箱を作って彼らを見下ろしている。
「……ずいぶん難しいの買うね」
「あー、翻訳してないの、難しかったから」
「じゃ、ちょうど辞書役に立つね」
「ハイ」
「お会計、――だけど持ってる?」
彼はしばらく財布の中にあるお金を探しては出していたが、残り数百円ほどで顔を青くした。どうやら持ってきた金額では買えなかったのだろう。値札をつけられない古書店ではよくある話だ。店主はしばらく何かつぶやいてる様子だったが、やがてレジのボタンをぱちぱちと押した。
「……君こっち来たばかりでしょ。六百円割引したげる。小銭二百円出せる?」
「え、いいんですか」
「いいよ。高校生大変だもんね」
はい、と店主が数冊の本をずいと差し出せば、少年は頭を下げていそいそと鞄に詰め込んでいた。
「お父さんとかお母さんいる?」
「一人です」
「その年で一人暮らしかぁ。頑張ってね。毎度」
もう一度頭を下げて少年は古書店を出る。猫がちょうど棚から飛び降りて、彼を見送るように店の前で座っていた。
1つ目は『真っ赤な鳥居の下』
2つ目は『ジャケット』
3つ目は『契る』
手入れが怠われていたことがわかる、コケやツタが覆う鳥居。きっと掃除して塗りなおせば、朱色の美しい鳥居が見せるのだろうと頭に浮かぶ完成予想図を思う。会社の名前をいれているジャケットは着ていたままのほうがいいかと思わされたが、この暑さと張り付いた植物の量では着ても脱いでも同じだと袖から腕を抜いて車の中に押し込んだ。黒いTシャツがもう汗で背中に張り付いていて、それにほんの少しげんなりしてから作業を始めた。軍手をはめた手がツタを掴んでばぶちぶちとちぎり、一方的に一部をもぎとられたツタをさらにたどって掴んではちぎり、と繰り返していた。
何個目かのバイトは清掃業だった。清掃業といっても一口に部屋の掃除だとかではなく少々特殊なところで、町中にある小さな神社の掃除を担うというもので、行政からの依頼も多くあるような業者であった。夏に多く依頼が舞い込むらしく、こうして防人鮫が働いているのも夏の時期のバイトを募集しているというのを学校にいる年上の同級生から聞いたからだ。入っていきなりこの仕事か、と思いつつも彼は無心でツタをもぎりとっていた。契約は夏休みの間。給料は少なくとも居酒屋やファストフード店に比べれば十二分なくらいだった。
社殿を掃除している先輩から昼休憩を告げられた時、ツタはだいぶ取り除かれていた。元々一人で黙々と作業すること自体は嫌いではない。余計なことなんてする必要もやる余地もないから余計な注意やお叱りも入らない。他のバイトに比べればずっとずっと楽だった。
「依頼人から貰った」
そう言って先輩の女性が見せたのはアイスの箱で、しかもまだ溶けていない。五本入りの柑橘類の棒付きアイス。この暑い時期に何より助かる差し入れ。
「マジすか。貰います貰います」
「その前に水飲んでこい」
「あいっす」
ペットボトルにある水はもうぬるくなっていて、しかしそれまで汗をだぶだぶと流して作業していたものだから体にしみる感覚を明瞭に味わう。ジャケットを車に置いたのはさすがによろしくなかったかと思い、紺色のジャケットを腰に巻いて結んでやった。
かじる氷菓のみずみずしさは日差しの下での作業にあまりに効いた。体の中の気温が急低下する感覚。まるでビールを流し込んだような息が出る。
「うま……」
「でしょ。あとすごいお礼言ってたよ。足腰悪くなって手入れができなかったからって」
「あー、そういう理由もあるんすね」
「この会社にいるとよく見るよそういうの。あとなんだ、河原の清掃とかもお願いされる。来週とかそんなんじゃなかった?」
「そうだね。雑草抜きだ。腰痛くなる覚悟しとけよ」
「今時点でちょっと痛いんすけど」
そう言えば清掃会社の社長でもある彼女はけらけらと笑って彼の背中を叩いた。
「いやぁほんと、――の紹介って聞いてどんなもんかと思ってたけどいい子じゃん。今定時制行ってんだって?」
「あーはい、一人暮らしで金欲しいんで」
鮫の返答に、「正直だな」と笑う社員男性。彼も社長もアイスを半分ほど齧り終えている。
「この夏は忙しかったからさぁ。いやぁ助かる助かる」
「僕はもっと忙しいからねぇ」
「まだ依頼あるんすか」
「いや違う。こいつシェルパーのバイトしてんの」
初めて聞く単語。アイスの最後のひとかけを飲み込んでから「シェルパー?」と聞けば、彼は頷いて説明する。
「もっと言うと歩荷っつーんだけど。荷物運びよ。観光シーズンだしめっちゃ多いぜ」
「人まだ募集してるんだって?誘っちゃえば?」
そう社長が言うと、鮫はわかりやすく「マジすか」と興味ありげな反応を見せる。その食いつきに驚きながらも肯定する。
「あー……とりあえずあれだ、小屋の管理人に相談だな。その前にまずここの掃除だけど。鮫くんコケの掃除の仕方わかる?」
「いや、わかんないっす」
「じゃ早めに休憩終わってそれ教えるところからにしよっか。気合入れてこうね」
社長の威勢のいい言葉に「はぁい」と男二人が返事をすれば、彼らは再び背中を叩かれた。
1つ目は『映画館』
2つ目は『キーボード』
3つ目は『預かる』
その日のレイトショーは音楽ものを扱っていた。しかしそれは彼女にはどうでもよく、とにかく紛らわすものが欲しいという気持ちでポップコーンとアイスコーヒーを携えて席を探す。ポップコーンを一つまみして口に入れれば、口の中は塩以上の塩気を感じた。
彼が他の女性とホテルに入るところを見てしまった。結局そういう話なのだが、彼の優しいまなざしとかけてくる言葉が本心だと思っていただけに傷は深いものであった。彼の好みに合わせたメイクなんてとっくに涙で落とし、振り出した雨も気にせず映画館に飛び込んだ。スタッフはわずかに狼狽していたが、もはや彼女にとってはそれさえ気にすることができなかった。
やがてスクリーンは暗くなり、映画が始まる。黒人がニューヨークでサックスではなくキーボードでバンドを作り、やがてアメリカを席巻するバンドとなるという、典型的なサクセスストーリー。流れるイントロ、ジャズがスピーカーから流された。その音の圧が彼女の体にずんずんと響く。コントラバス、ドラム、そしてひときわ高く混ざるキーボード……音色の重なりは、彼女からしばし涙を忘れさせた。
エンドロールが流れ終わり、ゆったりと覚めた頭で考える。映画のように、ウソであればと思う。しかしそうではなかった。スマートフォンの電源を入れて真っ先に通知に入ったメッセージは、『ごめん。君より好きな人ができた』。嘘ではない。どんな風に返信を書こうか、それもまとまらない。また涙が出てきて、もう人がいないシアターで声を出してしまった。
「上映は終わったぞ」
不意に、声が後ろから聞こえた。振り向けば、そこには一人の大きな男性が座っていた。黒いタートルネックに、黒いトレンチコートを着たままで靴もズボンも髪も目も暗く、肌の白さだけが異様に目立っていた。スタッフがまだ来るでもなしに、彼女のせわしない頭では不躾だという気持ちがよぎった。
「勝手じゃないの」
「そっちの事情は知らないが、もうすぐ夜が明ける。帰ったらどうかな」
「帰ろうにも、こんな顔じゃ、帰れないもの」
ハンカチはすでにぐしょぐしょで、涙を拭こうとしたところで頬を湿らせらるだけだ。彼は一つ呆れたようなため息をついて、コートから一枚の紳士向けのハンカチーフを差し出した。シミ一つない、真っ白なもの。
「使え。返さなくていい」
「……悪いもの」
「じゃあ言い方を変える。預かっていろ。今度また僕と会った時に返してくれたらいい。だから、早く出ろ」
出てほしいという気持ちが本当であることが声色からわかり、彼女は不思議に思いながらもそそくさとシアターの入り口まで歩いていった。――歩いて、振り返って。
いない。彼の姿なんて最初からなかったみたいだった。後ろから出たのかと思われたが、この小さなスクリーンの出入り口は一つしかない。
「……あれ、」
そういえば、券売機を買ったときにこのショーを見ている人は自分を含めて三人ほどだと知っていた。そして残り二人は、自分よりも前の列に座っていて――
「……なんだったんだろう」
名前もしらない、白い肌の彼のことが不思議でならなくて、手元の白いハンカチをただ見ていることしかできなかった。