五十音の最初の二文字を貴方に送ろう。
何も見返りは求めません。ですが貰えるとするなら、貴方の口からもその二文字が欲しい。
そう言う隣の席の男の子から発せられた声は昼食後の五限目、寝惚けた頭でも透き通った川の水に石を落とされる衝撃があった。その石は丸っこくて掌に収まる程度のもの。それを川の中に落としたら、ぼちゃんと音を立てて落ちて、波紋が広がる。その波紋は生徒たちのざわめきにも似ていた。
隣の席の男のの名前はなんだっけ。入学したての学校で、クラスメイトの自己紹介を聞いたにも関わらず、名前を覚えていない。でも顔が良いことは知っている。学校中で顔が良い生徒が入学したと話が爆速で校内中を駆け巡ったという噂だ。
よし、もういいぞ。
中年男性の先生の声がその音読の声を制止すると、隣の席の男の子は静かに座った。ええと、本当に名前何だっけ。
自分は特別記憶が悪いわけでもない。だというのに頭の中に靄が掛かって見れないこの感じは何なんだろう。ああ自己紹介ちゃんと聞いておくんだった。
ねえねえ、と声を掛けてみるけれど一度は無視された。それはそうか。授業中だもんな。それでも飽きずにねえねえ、と話し掛けてみると今度は何、と言いたげな表情が返ってきた。
「さっきのあい、って何だろうね」
「……何だろう、って」
五十音の初めの二文字。それは「あい」という言葉ではあるがそれは愛なのか。I(自分)なのか。この作者の作った詩というのは実に不思議なのだ。あなたに送るのは愛なのか、それとも自分なのか。分からない。それとも違うものなのか。実に短い時間ではあるけれど現代文の時間で学ぶ題材に選ばれるくらいだから何か意図があるのではないのかと勘ぐってしまう。
「さあ、興味ないな」
「つれないなあ、顔はいいのに」
顔が良い事と、つれないことに何の関係があるのだと言いたげな眉間に皺を寄せた表情は前を向けとシャープペンシルが示してくれていた。授業中の何て事の無い戯言に付き合ってくれる程度の優しさは持ち合わせているようだった。優しい。
「ねえ、君の名前を教えてよ」
「――名前、」
自己紹介の時に聞いていなかったのかという顔をしている。うん聞いていなかったと頷けば、小さな呆れた溜息が返ってきた。分かる、私も私自身に呆れているんだから。
「名前は――」
春が始まる。気持ちが芽吹いて、花開いて、花散り行く時まで密やかに、秘めやかに思い続ける花の季節が。