班目先生のところでお世話になっていると紹介されたお弟子さんの1人、喜多川 祐介くんとの出会いは確か彼がまだ高校生になりたてで、私が芸術家として駆け出し始めた頃のことだったと思う。班目先生にご馳走になりながら聞いていた彼の身の上話は正直興味が無かった。内心、これ彼の身の上話はどっかのプロデューサーが目を付けて金と引き換えに美談にするつもりだろうなとか、班目先生の良い餌にされるんだろうなって思いながら和食に手を付けたのを覚えている。
幸か不幸か。幼い頃から苦労してきて、それでただでさえお金の掛かる日本画に、その才能を見込まれて買われたのはその先も彼が彼自身の才能で生きていけるようにと育ててくれているのは良いなと思った。
だけども同時に悪い噂は良くも悪くも目に届かないようにしていても、ネットの大海を泳いでいれば目に入ってしまうし、自衛のためにと思っていたとしても耳に入ってしまうものである。
班目先生が若手の才能を搾取している、なんてね。自分がその毒牙に掛かるかもしれないと思っていようがいまいがその才能は知らない内に何時の間にか取られているものだ。だから、班目先生がまだ若手の私に近寄ったのも何かの偶然かなんて思っていたけれどもそんなことなかった。否、むしろそれ目当てだったのかもしれないなと思うと少しだけ、いやかなり喜多川くんは可哀想だと思う。
芸術界隈でアイディアが盗用されたされてないなんていう話は嫌な話ながらもまあある話で……(だからと言って許されるわけではないけれども)それが技術やなりすまし、所謂ゴーストライターになっただけ。と言えばそうではあるけれども、芸術家の魂そのものが奪われる卑劣な事が起きていると考えたらゾッとする出来事である。でもそれを糾弾すれば、その業界から消されてしまう。世間は弱肉強食の世界だから、きっと私だって消されてしまうだろうし何より証拠がないからそんなことできなかった。
だから見過ごしていた。どうなるんだろうなあ、って。私らしくないと言えばそうだけれども、そればかりは大人になってしまった今ではどうしようもないと思える程時が経って老いてしまったのだ。
締め切りに追われる日々を過ごしていたら気づけば班目先生の号泣会見がテレビのニュースやネット上でも大騒ぎしている。そうなるならこんなことしなければいいのに、なんて冷めた心で見ていたけれども、それと同時に湧き上がったのは。あの子は何処に行ってしまったのだろう、と言う事だった。班目先生が拠点にしていたという家屋には当然立ち入り禁止のテープが貼られて、誰も居ない。あの子はちゃんと身元を保証されたのかな、いやこの場合は保護された? とか思っていたから、プライベートで上野の美術館に来ていたらあの子がいたので、元気そうで何よりだと思った。見た目もそうだし、中身もちょっと……いや、芸術家だからかもしれないけれども所謂変人だから友達もいるのかなって思っていたけれども友達もちゃんといて、良かった、と思った。
それであの子との関係は終わり。だと思っていた。
「八戸さん、ご無沙汰しております」
「お久し振りだね、喜多川くん。どうしたの?」
「実は」
彼からの突然のチャットにびっくりしたのは冬の何時頃かは忘れた。でもとっても寒い日だったのを覚えている。かじかむ手でスマホのキーボードを叩いていたのを覚えている。
要は犯罪を起こしたと冤罪を吹っ掛けられた友人がいて、その子を助けたい。その子は犯罪なんてしていないというから署名活動にサインを、というものだった。
「君はその子を助けたいんだね?」
「はい。俺の大事な友人です」
「そっか。じゃあサインをしてあげようー。ネットでの署名活動はオッケーなのかな?」
「できたら書面でお願いします」
「んー、スキャンしてじゃだめ?」
「俺が貴女の家に出向かいます」
「それは困るかなー。折角だから、ご飯いかない? 若者の流行りとか見解とか教えて。奢らせてよ。何食べたい?」
「迷います」
「とりあえず食べたいものあげてみ? 五千円以内でね」
つらつらとあげられたものはまあ大抵五千円以内で収まらないものばかりで若者はファーストフードじゃないのかなあ。回らないお寿司とか要求してきた若人とかいたけどさあ。
「じゃあこのお店ね。約束だよ」
翌日にその店の前で会う事を約束すれば、おお、目立つ。顔も良いし身長も高いし、何よりスラっとしていて、うーん、目の保養。拝みたくなっちゃうよね。
「八戸さん」
「お待たせ、喜多川くん。本当に蕎麦屋で良かったの?」
「はい。此処の蕎麦は先生……が、初めて教えてくれた蕎麦屋でとても美味しかったのを覚えてて」
「そっかそっか。じゃあ何でも好きなもの頼んで。経費で落とすから」
蕎麦屋さんの暖簾をくぐって、店内に入る。四人掛けの席に案内されて早速、と言われて出された書類に内容に改めて目を通して自分の名を綴った。
「これでいいのかな?」
「はい、ありがとうございます」
「いーえ。未来の芸術家のためならなんだってしちゃうよ! あ、お金の工面とかは別でね?」
「そこまで頼れる程の人はいませんから」
店員さんが出してきた暖かなお茶を静かな顔して飲む喜多川くんの穏やかそうな顔は始めて見た気がして目を丸くする。
「君、そんな顔もできたんだねえ」
「え。俺そんな変な顔をしていましたか」
「ううん、穏やかーな顔してた。前はちょっときつーい顔してた気がする。君が高校生になったぐらいかな」
「あの頃は……」
「ああ、言わなくていいよ。色々あったでしょ。それを別に無理して言わなくて良いよ。世の中にはね自分で言いたくない事があったら言わなくてもいいの。大人になったら嫌でも言わなきゃいけない事やくみ取ったりしなきゃいけない時があるんだから」
例えばクライアントの要求だとか、言わなくても分かるでしょみたいなこと言われてそれをくみ取ったりとかね! 面倒くせえなって思いながらもやるわけですよ。仕事だから。
「子供のうちはそんな事しなくていいんだよ。はい、だから今日のご馳走はおねーさんにどんと任せなさい。何にする?」
そう言いながらラミネート加工された二つ折りのメニューを広げ、店員さんを呼び込んできつね蕎麦を頼む喜多川くんの顔は年相応に見えた。私は普通に盛り蕎麦を頼んで、去っていった店員さんを見送る。
「久方ぶりに会った俺に何でここまで」
「君今日誕生日じゃない?」
「……あっ」
「おう、その顔は忘れてたって顔だな?」
「恥ずかしながら……。どうして覚えてらしたんですか?」
「班目先生が若い子の誕生日プレゼントってどうしたら良いと思う? って聞いてきたのを覚えてたからかなー。電話してきて、普通に画材とかで良いんじゃないですか、って言ったら即切りされそうだったからうーんってちょっと悩んだ振りして子供にはちょっと手出しづらい奴って言っておいた」
「……それって」
心当たりがあるようだった。班目先生のお弟子さんになるとそりゃ画材とか普通に与えられてるだろうから、それが誕生日の贈り物適するかは知らない。
「藍色の絵の具。私は日本画の事はよく知らないけど、高いんでしょ、青系って」
「あり、ました。一度だけ」
「君は班目先生の事、恨んでるかもしれないし憎んでるかもしれない。でも、そこにちゃんと愛はあったんじゃないかな。だったらあんなに高い絵の具、渡さないし大事にもしてない筈だよ」
芸術関係って確かにピンキリではあるけど日本画、絵の具っていうか膠もそうだしアクリルと値段が違ってて見間違いかなって思ったことがある。いや怖いね。そりゃ学生では金欠にもなりますわ。
「お誕生日おめでとう、喜多川くん。これは私からのささやかなお祝いだよ。本当はちゃんとしたものを渡したいところだけど日本画は生憎専攻外でね」
「お気持ちだけで充分です」
「お待たせしました、きつね蕎麦のお客様」
「はい」
「さー、冷めないうちに食べちゃって。お代わりも好きなだけどうぞ。あっ、天ぷらも美味しいんだっけ此処」
「すみません、海老天と芋天も追加お願いできますか」
「おう、奢りと聞いていっぱい食べようとする遠慮ない若人良いぞー。嫌いじゃないぞー」
「八戸さんも若いじゃないですか」
「心はいつでも十代だからね、肉体は成人迎えたら忘れた!」
「忘れないでください」
ははは、と笑って黒い蕎麦つゆにわさびとネギを放り込んで沈んでいくのを見つめて割りばしで掻き混ぜた。
「若い子達がいつまでも切り開いてくれる芸術界が楽しみだよ」
「俺が、いや俺達が切り開いていくんですよ」
「そうかもね」
わさびを全部入れてしまった蕎麦つゆは少し辛くて、でもしょっぱさの中に辛みがあって美味しくて、蕎麦と一緒に啜ると鼻の中を抜けていって美味しい。ああ、これで飲む蕎麦湯美味しいんだろうなあ。
「すみません、替え玉一つお願いします」
「喜多川くん、ラーメン屋行く?」
「行きます」
いっぱい食べる若人、良いなあ。どうかその力で、その若さで、その元気で、健やかにいておくれ。