頭に浮かんだことばをひたすら書いていく。自由連想文ってやつをやります。目安の時間は10分。
今回のはじめのキーワードは「くるぶし」。
くるぶしを触るとちょっと安心する気がする。ごろごろとした存在感が、はっきりとその質量を感じられることが、なんとなく落ち着きにつながるのでは無いだろうか。
しっかりと、ここに在るということ。触って、その存在を確かめることができるということ。それが、安心感である。ような、気がしている。
どうもふわふわとしたものは苦手なのかもしれない。確実に、触ったときに手応えが返ってくる。そういうものが好きだ。人だって同じ。好意を投げたら、同じくらい好意を投げ返してくれる相手のことが、やっぱり好きになってしまう。
本当に、この人は私のことを好いているのだろうか。そんな不安を抱えながら人を愛することは、たぶん、私にはできない。
さわって、きちんと形を確かめられること。思いを告げて、きちんと気持ちを確かめられること。それが安心につながる。安心できなければ、心が安らかで無ければ、たぶん、私は生きていけない。
穏やかでありたい。穏やかで、静かな心で、ただ風に揺られて生きていたい。そう願う。
私の願い、私の望み。いったいそれは何なのでしょうか。私は本当はどうしたいのでしょうか。本当に、ここにいたいと、生きていたいと願っているのでしょうか。
たまに自分がわからなくなります。本当に生きることを望んでいないのであれば、どうしてこんなところでこんなものを書いているのでしょう。真に私自身が望んでいることは何なのでしょう。仮に今死が訪れたとして、私は穏やかに笑っていられるのでしょうか。それとも、みっともなく泣きわめいているのでしょうか。できることなら、生き汚く泣きわめき騒ぎ汚物にまみれながらも這って生きようとする自分というものを、一度見てみたいと思います。
どうしよう、ここで終わってしまった。自由連想文だというのに連想が途切れてしまった。オチにはまだ早いというのに。
どうも最近これをやっていないせいかもしれません。前はけっこう続けてやっていたのですが、しばらくブランクが空いてしまっていました。前回の41をやる前、41と40の間が、かなり期間が空いていた、はずです。ちゃんと覚えているわけでは無いのですが。
記憶なんて曖昧なものです。そもそも、大して覚える必要があるような、そんな価値のある生活はしていません。数年まとめて、「特に何も無いすばらしい日々だった」でくくってしまっても良いくらいです。もしかすると私の人生とは、空虚なものであるのかもしれません。
空虚でもいいんじゃないかなぁ、などと後ろ向きでやる気のかけらも無いことを思えてしまうことが、やはり空虚である証拠のように感じます。せめて、この現状に対して、怒りに震えるくらいの感情があればよいのですが。己が空虚であることを嘆き、その理由を自己あるいは他者に求めて、怒りのようなエネルギーに変換することができれば、あるいは。
やる気がほしい。そう願う私の望みが、僅かでもかなえられるかもしれないのに。
望み。ほんとうに望んでいるのでしょうか。やる気なんてものが湧いて出てきたところで、果たしてそれを何に使えと? 結局こうして毒にも薬にもならない文章を書いて、やる気と時間をドブに捨てるのが関の山では無いのか。
私は、いったい何をしたいのか。