「おい。さっきまであの娘、また来てたんだろ」
「あ、じいちゃん、おはよう……ってもう夕方ばってん」
喜一が玄関先でゆうぎりを見送ってしばらく。湯呑みを片付けていた背後から、長めの午睡から起き出してきた老爺がおもむろに言った。
「帰りに傘は持たせたのか。これから一雨来るぞ」
「え、嘘やろ!手ぶらで帰してしもうた、どうしよ……」
「帰りつく前に降られるかもな。多分、もう一刻もしないうちに降りだすぞ」
クン、と犬のようになにかの匂いをかぎ分けたらしい老爺に、喜一は慌てて襷掛けしていた紐を解いた。
「いかんいかん!せっかくじいちゃんのために薬ば届けに来てくれらしたとに……俺ちょっと行ってくる!」
バタバタ、と足音荒く玄関に飛び込んだ喜一は、立て掛けられていた番傘をひっつかんで飛び出していった。
「まったく。戸ぐらいちゃんと閉めていけってんだ、あのバカは……ん?」
老爺は、怪訝そうに傘立てに目をやる。この家に常備している傘は三本。家人二人と来客用の予備――それが一本しか減っていない。
「相変わらず、自分を勘定に入れねぇやつだ」
下手したら、自分だけ濡れ鼠になって帰って来る羽目になるな、と老爺は呆れたように息をついた。昔からそうだ。考えるより先に突っ走っては、盛大に転んで泥だらけになる養い子。いっかな治らないその危なっかしさは、老爺の手にもいささか余る。
そのため息を聞き付けたのか、いつの間にか老爺の足元に来ていた番犬が、ワン、と一鳴きする。その前足で、養い子の傘をカリカリと、意味ありげに引っ掻いている。
「止めとけ。あいつももうガキじゃねえんだ。いい加減、自分の始末くらい自分でつけさせねぇと」
ま、なるようになるだろ、と老爺はフワフワの毛玉をワシャリと一撫でして、色を濃くしていく鈍色の空を見上げた。
*
「これは、一雨きそうでありんすな」
夕暮れの畦道を行きながら、ゆうぎりは鈍色の空に独りごちる。
つい半刻前には青空が覗いていたにも関わらず、頭上の雲行きはにわかに怪しくなっていく。歩調をわずかに早めつつ、ゆうぎりはすっかり通い慣れた道を振り返った。
――また、要らぬ長居をしてしまった。
薬を届けて帰るだけなら、こんな時間になることはない。いつも、せっかく来てくれたのだから、と喜一が座布団をすすめてもてなそうとしてくるのを、無下にもできずズルズルと居座ってしまう――その時間を、自分が存外気に入ってしまっていることに、ゆうぎり自身も気付いていた。
――仕方ない。
急いで家に帰ったとて、自分のために家を調えて、食べて眠るだけの生活だ。
ゆうぎりは今や郭を去った一介の町娘、誰になにを求められることもない。与えられた遺産で食うにも困らず、養う家族も守るべき家もなく、ただ凪のような水面に揺蕩うように生きている。
これは、あらゆる柵(しがらみ)を抱えた人からすれば、流行りの自由、というやつに最も近い状態なのだろう。それに孤独という字をあてるのは、いささか贅沢が過ぎるというものだ。
たとえ暗闇迫る雨模様の帰り道に、忍び寄る一抹の寂寥を感じたとしても。
「ゆうぎりさーーーん!」
パッと、にわか曇天から陽光が射した。振り返ればそれが錯覚に過ぎないことは瞭然だが、そこにある人影は現実。
今にも泣き出しそうな雨雲を背に、臙脂の着物がゆうぎり目掛けて一直線に駆けてくる。
「よかっ……間に……あっ……」
「喜一はん、どういたしんした。そんなに慌てて」
「じい……ちゃん、が、これ……」
ぜぇぜぇ、と肩で息をする喜一から差し出されたのは、古びた番傘。それだけで全てを察したゆうぎりは、両手でそれを受け取る。
「これはこれは、気を遣わせてしまいんしたな。こんな所まで走って追いかけて来ずともよかったのに」
「そういう、わけには、いかんです」
ようやく息を整えた喜一は、眉を下げて笑う。
「うちのためにわざわざ来てくれた人に、間違っても風邪なんか引かせられん。恩を仇で返すようなもんやけん」
「喜一はん……」
「今日は薬、ありがとうございました。じいちゃんにもちゃんと飲むよう言っとくけんが……」
それじゃあ気をつけて、と一礼してすぐさま踵を返す喜一の背を、ゆうぎりは目を細めて見送り――はた、と気付く。
その両手が、空なことに。
「……やはり、こうなりんしたな」
ポツポツ、といくらもせず雨滴が地面を叩き始め、ゆうぎりは来た道を引き返していた。
「え、ゆうぎりさん!?」
小さな地蔵堂にうずくまっていた人影は、驚いたように顔を上げた。
「えーっと、その、俺、なんも考えとらんくて……」
「わっちを心配するあまり飛び出して、帰り道の自分のことはすっかり失念していた、と」
「はい……あ、でも本当に、俺のことは気にせんでください。濡れてもすぐ着替えたらよかだけやけん」
「そういうわけにはいきんせんよ」
ゆうぎりは傘を畳んで、堂の中に足を踏み入れる。しとしとと絶え間なく降り続く雨は、しばらく止む気配はない。
「止みそうにありんせんなぁ」
「はい……」
よしんば一刻ほどで止んだとしても、日が落ちきってしまえばただでさえ足元が悪い中、この粗忽者の青年は、暗がりの道を探り探り帰ることになる。
「……喜一はんはこの後、急いで帰らねばならぬ用事などはありんしょうか」
「え?いや別になんもなかですけど……」
「では、わっちを家まで送ってくださんし。随分と日は長くなりんしたが、今からでは日没までには家まで帰り着けんせん」
「それはもちろんよかですけど……」
「では、行きんしょう」
バサッと広げた傘の下、ゆうぎりは長い睫を二、三と羽ばたかせて喜一を促す――同じ傘の中、自分の隣へ来なさい、と。
「あ、えっ、ええ……!?」
一拍遅れて状況を理解したらしい喜一の頬が、ボッと一気に紅く染まる。しかし快諾した手前、今さら出来ないとも言えないだろう。
カチカチに肩を強ばらせながら、数歩足を踏み出す。ぎこちなくゆうぎりの手から竹製の柄を取りあげた。
「かっ、傘は、あの、俺が持ちます……一応俺のが、背ぇあるけんが」
「あい、それではお任せいたしんしょう」
大人しくゆうぎりが離した傘は、一瞬フラフラ、と揺れてゆうぎりの方にわずか傾く。
「ちゃっ、ちゃんと、その、入れてますか」
「ええ。喜一はんこそ、肩がはみ出てはおりんせんか?」
「大丈夫です!」
そうは言っても、男物の傘とはいえ、人二人をすっぽりと覆いきる程の広さはない。ゆうきりがさらに半歩ほど距離を詰めると、隣で喜一が息を呑む気配が否応なしに伝わってきた。
「……やっぱり、止みそうになかですね」
掠れた喜一の声が、傘の内側でやけに響いた。
「そう、でありんすね……」
落ちた沈黙を、雨音が埋める。
「追いかけてきて、よかった」
「」
喜一とゆうぎりは、背丈の違いがさして無い。
肩が触れるか触れないかの距離にいれば、顔の真横に相手の顔がきてしまうから、お互いにひたすら前を向いているしかない。
「喜一はん、もっとこちらへ」
「えっ、いや、でも……」
「お袖が濡れてしまいんすよ」
ゆうぎりを濡らしてはならないと喜一が気を張れば張るほど、傘の傾きは大きくなって、余計に距離を詰める必要が出てくる。
パタパタと、頭上で雨音を奏でる天蓋と、雨の帳に遮られた擬似的な密室。
緊張しきった喜一の呼吸に同調し、自然とゆうぎりは自身の息も浅くなっているのを自覚していた。
息が詰まるような沈黙が続く中で、それでも
最初は、高熱を出して倒れた青年のため、滋養によい漢方薬を届けに行った。そこが病床に伏す老爺を抱えた男所帯、と知るや、ゆうぎりはなにかの折りにあの家を訪れるようになっていた。
桜の季節に出会って、すでに数ヶ月。元から世話焼きの性分が顔を出し、つい足を向けてしまう。