頭に浮かんだことばをひたすら書いていく。自由連想文ってやつをやります。目安の時間は10分。
今回のはじめのキーワードは「銭湯」。
銭湯に行きたい。べつに温泉とかじゃなくていい。ごく普通の水道水を使ったごく普通の公衆浴場でいい。銭湯には、ご家庭の風呂では補給できないナニカを得られる。ような気がする。
冷静に考えてみると、ただの風呂である。ちょっと設備が広くて人が多いだけで、本質的には家の風呂と何ら変わることはない。地域が同じなら特にそうである。同じ水道局の管轄にあるのだから、つかる湯の種類に違いなどあるはずもない。
それでも、やっぱり銭湯に行きたい。銭湯はいいぞ、と思ってしまう。どうせならちょっとお高いところがいい。安い公衆浴場はアレがよくないのだ。脱衣所の設備が。せっかく風呂に気持ちよく入っても、脱衣所のロッカーにゆとりがないとどうも良くない。せっかくさっぱりしたのだから、最後までさっぱりしたままで終わりたいのに、脱衣所の床の水滴にちょっと気分が曇ってしまったりする。
惜しげも無くタオルを大量に使って交換できる設備が整っている、大きくて高い風呂屋は、やはりそういった点の快適さで小さな町の銭湯に勝っているように思われる。
実際の所、湯船に肩まで浸かって「んあぁ~」とか言っている間は高かろうが安かろうが大した違いはないはずなのだ。だって風呂だもの。風呂は気持ちいい。ただ、そこに付随する設備が、そこに大きな違いを生んでしまう。下手をすると、自宅の風呂よりもちょっとイヤだな、なんてことになってしまう。
各ご家庭で各人がめいめい掃除をしている風呂に比べたら、どんなにボロいところでも公衆浴場の方が清潔であるはずなのだが、そこは人間の印象というもののいい加減さが働いてしまう。「なんだかちょっと汚いぞ」という思い込みが、銭湯の湯船そのものの心地良さをも曇らせてしまう。なんとも残念なことである。
そういった、付帯する細々とした諸々は、ときに本質的な価値を大きく左右することがある。どうせなら自分はそういった枝葉末節に惑わされずに、ものの本質というものを見極めたいと願う者だけれど、結局世界はそううまくはいかないのだ。
僕の目は曇りまくり、たぶん、きっと、今日もどこかでナニカを見落として、ナニカを見誤っている。おそらくは、自分自身ではさっぱり気付くこともなく。
人は間違う生き物だ。それは誰だって同じで、間違って、後悔して、積み重ねて前に進んでいく。だから、間違えること自体は当たり前のことで、そう悪く捉える必要はないように思う。
ただ、せめて、間違えたことは忘れないでいたいのだ。そうすれば、きっと何かを得られるはずだから。
だけど、もしも間違えたことにすら気付けないで居たとしたら。
僕は永遠に愚かで、愚かなままで、きっと後悔する機会さえ得ることができないまま。
それはちょと、嫌だなと思う。
もう一人の僕が、たぶんどこかで指をさして笑っているのだ。