ふわ、と鼻先に触れた香りにトレイは思わず振り返った。
放課後、校舎内の廊下。今日の授業が終わってからは少し経ち、けれど部活動が終わるにはまだ早い。そんな中途半端な時間にこんな場所を歩く人影は少なく、トレイ以外には今すれ違った一人しかいなかった。そこそこ高身長なはずのトレイでもぎょっとするほどの体躯を持ちながら、まるで学生には思えないような空気を纏って悠々と去っていった人物。フロイド・リーチである。
……そうか。彼、香水をつけているのか。
一瞬だけ感じた香りを思い出すようにスンと鼻を鳴らし、目的地に向かって歩き出す。副寮長の雑務が入って今日は到着が遅れそうだというのは部員に伝えているし、急いで走る必要もない。トレイは足を動かしながら、ゆっくりと考え始めた。
あの人工的な香りは、香水で間違いない。トレイはあまりその方面に明るくはないが、味覚と嗅覚には多少の自信がある。甘さのあるバニラやシナモンといったスパイスの中に、少しだけスモーキーさが残る香り。だけど決して嫌な感じではなく、どきりとしてしまうような色気がある。
トレイは誰に隠すでもなく、胸元のマジカルペンに触れるフリをしながら自分の心音を確認した。トレイの知るフロイドは主にリドルをからかって遊んでいる姿をしていたので、そんな彼があんなにもセクシーな香りを纏わせているとは思いもしなかったのである。ナイトレイブンカレッジには香水を愛用している者も少なくはないが、トレイにとっては初めての感覚であった。
なるほど、これがギャップ萌えってやつか……。
何となく悔しい気持ちになりながら、トレイは既におぼろげになってきている記憶の中からあの香りに思いを馳せた。香水か。サイエンス部での次の研究テーマにしてもいいかもしれない。クルーウェル先生なら詳しいだろうし、きっと快く協力もしてくれるだろう。
効率よく事を進める算段を立てつつ、トレイはサイエンス部の部室のドアを開けるのだった。
ところで、気づいたことがある。
フロイドが香水を使っているのだと知った日から、トレイは彼の姿を見かけるたびにそれとなく鼻をむずむずさせる日々を送っていた。おかげ様で意味も無く鼻をすする真似が上手くなった気がする。……少し変態臭いことをしている自覚は、ある。あるのだが、いい匂いなのだから仕方なくないか? 付けまわしているわけでもないし。と、トレイは今日も内心言い訳をしている。
そんなストーカー一歩手前みたいな生活をして気づいたのが、フロイドはどうやら場面に合わせて香水を選んでいるらしいということだ。
彼含め、オクタヴィネルの仲良し三人組は皆いつも何らかの香りを纏っている。香水をつけた三人が一緒に居ればミスマッチが起きて悪臭に一変しそうでもあるが、あの三人が集まっているときにトレイが不快感を覚えたことは無かった。まず三人とも付けている量が僅かであることと、まるで始めから狙っていたみたいに香りの組み合わせがぴったりなことが要因だろう。誰が主導なのかトレイは知るすべを持たないが、その抜かりのなさには舌を巻いてしまう。
しかしながら、三人組から離れて単独行動をしている際、フロイドはいつも違う香りをさせていたのだ。彼が寮服を着て校舎内をうろついている時は、「お話」の相手を探しているのが大概であった。そしてそういう時、フロイドからはいつも刺激的な香りがするのである。
……なんでそこまで知ってるかって? たまたま、たまたまだよ。誰だってあるだろ? こういう、何か気になっちゃうことってさ、敏感になるものじゃないか。普通に。
「普通、なのかな~。けーくんちょっと心配」
自室のベッドに寝転がっているトレイの脳内で、イマジナリーケイトが頬杖をつく。トレイはウッとたじろいだ。分かっているのだ。これが普通じゃないことくらい。いくら思わぬ人物から香水の匂いがしたのが衝撃的だったからと言っても、トレイの行動はちょっと異常だ。分かっているけど、でも、誰にも迷惑をかけていないし、フロイド本人にだってバレてはいないはずだし、許されたいと思ってしまうのだ。何故って、だって、どうしても気になるから。
……何が?
一瞬、トレイの思考がストップしたあと、すぐに猛スピードで回り始めた。気になるって、一体何が気になると言うのか。一体何が気になって、トレイはこんな奇行に走っているのか。
毎朝フロイドの姿が見れたらいいなと思いながら起きて支度をして、見れない日はちょっとだけ寂しくて、見れた日は一日中なんだか嬉しくて、それから、毎晩フロイドのことを考えながら眠って。
毎日、そうして過ごしている理由。一日中誰かのことを考えて、一喜一憂する理由。
点と点がぱちんぱちんと繋がって、トレイの頭は答えを導きだそうとする。居ても立っても居られずに勢いよくがばっと起き上がり、茫然とした。
「や、まさか、そんなはず、……」
手のひらで口元を覆う。じわじわ、耳が燃えるように熱くなる。耳だけじゃない。顔も、首も、全身が炎に包まれたみたいに熱い。胸がはちきれるんじゃないかと思うほど心臓がバクバクと鳴りはじめ、体中が何かを叫びだしそうになる。
それから今までの自分の所業を思い出して、頭を抱えてその場で転げ回りそうになるのを懸命に堪えた。恥ずかしい。恥ずかしい、恥ずかしい恥ずかしい! あんなこと、俺、俺は、自覚なく、あんな、あんな、……!!
「まーまー、仕方ないよトレイくん」
イマジナリーケイトがトレイを見下ろしてニッコリと言う。
恋って、そういうものじゃん?