私はまるで器用じゃないという自覚がある。
 別に、手先のことじゃない。思考……もちょっとそういうところはあるけど、そういうのじゃなく。
 つまるところ、私は自分の心というものが器用じゃないのだ。
 嫌な気持ちはとことん引きずって上手く切り替えられない。そのくせ変に恥の概念が強いものだから、感情をストレートに出すこともできない。
 感情そのままの行動や言動というのは、私にとっては弱みだ。それはきっと、幼少から自分を律し続けてきたからなのかもしれない。律せないこと自体も恥に思えるし、それが転じて弱みに感じるのだろう。
 繰り返すが、私は器用じゃない。
「――以上となります」
「お疲れ様、佐伯さん。事情は分かった。他の人の話とも合うし、先方には私の方からかけ合ってみるよ」
 私の報告に、上司は労うように笑いかける。それがなおのこと心苦しかった。
「すいません、お手数をおかけしてしまって」
「佐伯さんが気にすることじゃないよ。むしろ悪いのは向こうの方でしょ。……今日のところはひとまず帰りな。顔色すごいことになってるよ」
 ああ、そうだろうな。今立ってるのもようやくだから。
 入社して半年、初めてのやらかしだ。本音を言えば仕事に戻って挽回したい。けれどこの体調では本当に一つもタスクを片付けられない自信があった。頭だってろくすっぽ回っちゃいない。
「……本当に、すいません」
「謝んないでいいってば」
 そう言って上司は「これから電話したいから、早くね」と私を追い払った。気遣い……と受け取るには今の私はメンタルが参ってしまってる。気落ちしながら会社を後にした。
 正直、それからは覚えていない。気付けば玄関に立っていた。
「お帰りー。早かったね――」
 奥からぱたぱたとハルが出迎えてくる。それを見た途端私は――倒れ込むようにして彼女に抱き付いていた。いや、逆なのかもしれない。
 とかく、ハルの温かさとにおいを感じ取って、ほんの少しだけ体の不調が和らいだ。
「……ただいま」
「沙弥香先輩、大丈夫? 顔色ひどいよ?」
「……ちょっと、頭痛と吐き気で、気持ち、悪いわ」
「歩けそう?」
 腹の底に力を入れてみる。……完全に緊張の糸が切れてしまったらしい。今更になって目眩もしてるみたいで、平衡感覚がぐるぐる元気に狂ってる。
「……ごめん」
「いいっていいって」
 ハルは私を支えてリビングまで連れてってくれる。
 二人がけのソファに、着替えないままぐったりと寝転がる。浅くなっていた呼吸を意識的に少しずつ深いものにしていく。
「なにかいる?」
「……お水」
「分かった」
 ハルはすぐさまコップに水を入れて、口元まで寄せてくれる。気管に入らないよう慎重に水を口にする。結構派手に零れた気もするけど、気にする余裕がなかった。
「あり、がと」
 お礼だけ言って目を閉じる。
 次に目を覚ますと、ハルの顔がそこにあった。
「――あ、」
「あ、起きた? 体調はどう?」
 ハルはそうやって心配そうに覗き込んでくる。
 我が身を振り返る。……まだ気分の悪さは居座ってるけど、幾分楽にはなっている。少なくとも、起き上がれずとも口を開く余裕がちょっとある程度には。
「さっきよりは、マシ」
「そっか。生姜湯作ろうか?」
「お願い」
 小さく頷くと、ハルは私の頭を丁重にずらしてから立ち上がった。
「なにかあった? 朝は普通だったと思うけど」
 キッチンから、多分生姜が切られる音が聞こえる。そこからそんな問いかけが投げかけられた。
 さっきのことがフラッシュバックする。胸底から湧き立つ感情……それに今度は蓋をして、溜め息へと変換して吐き出した。
「……怒ったの」
「え?」
「初めて、怒った」
 そう伝えると、んー、と唸り声のあとに、言葉が続く。
「……沙弥香先輩は割と怒ったりすると思うけど」
「そうじゃ、なくて。いやそうなんだけど、違くて」
 彼女の勘違いに小さく笑みが零れる。またハルのおかげでちょっぴり楽になった。
「感情を濾過しないまま怒ったのが」
 確かにハルの言うように私は割と怒るけども、それは濾過した上で吐き出してるものだ。
 私が普通怒るのは――そうハルが言ってるのは――ネチネチと嫌みったらしく正論を並べる形だ。でもそれは最低限体裁を繕ってる。感情を濾過し、その怒りが正当なものであると理屈で武装し、自分は理性的ですよと昂る内面を表に出さないことで周囲にアピールする。そういう形の、不器用な怒り方だ。それがハルであれ燈子であれ小糸さんであれ誰であれ、同じ対応をする。
 今回のは違う。理屈による武装は忘れなかったけれど、爆発した怒りをそのまま口から吐き出し、声を張り上げた。
 そうやって怒るのが初めてだったのだ。
 おかげで気分が悪い。心身共に、色々と。
 流石にハルもそれにはびっくりしたようで、驚きの声を上げた。
「そんなに?」
「そんなにって?」
「沙弥香先輩がそんな風に怒るなんて想像も付かないから。そんなにひどいことあったのかなって」
 ……ハルの信頼が厚い。私が正しいと思ってくれてる。本当のところがどうなのかはともかくとして。
 ただ、私を味方してくれる人がいてくれるという実感が、嬉しい。……いや、それは上司とか他の社員の人とかも味方してくれてたけど。まだ入社一年目の立場とあっては、それを素直に享受できないのも確かだった。
 ……それを言うなら、あなたが泣くのも想像できないわ。今じゃ。
 疲れてるからだろう。全く関係のない思い出が、頭をよぎった。
「……それもあるけど。怒ったこと自体にもちょっと堪えちゃって」
「そうなの?」
 不思議そうに、ハル。
「自分を律せなかったのがショックだったっていうか、他の人からなんて思われるか不安になったっていうか。それに怒るって、すごいエネルギー使うのね……初めて知ったわ」
 怒鳴り散らしてる最中は全身の血が沸騰して頭まで上がってきていたのに、一度熱が引いたら血の気も一緒に引いていった、あの感覚と言ったら。
 私は自分のことを律せてるという自信が、無自覚にあったのだろうか。
 そんなことはないというのは、これまでを振り返れば分かり切ったことだろうに。
 ハルが生姜湯を持ってきてくれたのを受け取り、一口。
 美味しい。枝元家の秘伝なのだろうか。思っていたより甘い。
「沙弥香先輩は……思ったことをそのまま出すのが、弱いところを見せるように感じるんだね」
「……そう。そうね」
 ハルの言葉は、私の思考をなぞるものだった。同時に、昔似たようなことがあった気がするな、と思った。
 なんて言ってたか……。
「弱いと、嫌われそう?」
 ああ。そう。そんなことを言ってたはず。
 ただ今の私の内面を表すかというと、違う気がする。
「別に、職場の人間に嫌われたところで……」
 興味ないんだし。
「えぇ……」
「私もなんて言えばいいのか分からないけど……きっと格好付けたがりなだけ」
 ただ弱さを見せたくない。……自分に誇れる自分でありたい。
 私には夢はなくとも、私の期待を裏切りたくないのだろう。
 それを聞いたハルは、んー、と理解を要したあと、
「じゃあ、今の沙弥香先輩はレアな先輩だ」
 と、何故だか嬉しそうに言った。
「なんでそうなるの」
「今は格好付けずに弱ってるってことじゃん?」
「……そう、なのかしら?」
 若干違うと思うのだけれど。
「わたしの前では格好付けないでくれるんだったら、それはそれでいいなぁって」
 そうやって嬉しそうに笑うのに水を差したくはないけども、私は嘘を吐けるほど器用ではない。
「……残念だけど。ハルの前では格好付けてるわよ、私」
「えー」
「ハルがいてくれたから、格好付かずともこうやって格好付けて話せてるもの」
 きっと独りだったら、私は自分の内面の感情を押さえ付けて蹲ってるだけだ。独りでさえ私はそう格好付けてしまう。そのくせ無闇やったらと引きずるのだ。あの時みたいに。
 ハルがいるから。少しずつ調子も戻ってきて、引きずる思いもちょっとだけ軽くなって、意地を張れる。万全ではないからこんなんだけど。
 そんな私の言葉に、ハルはぴこんと跳ねたかと思うと、顔を赤くしながら溜め息を吐いた。
「……先輩、そういうとこは自覚ないんだよなぁ」
「?」
 ……数時間後、元気を取り戻した私は、自分の吐いた歯の浮くような言葉に身悶えすることになるのだけど、それは別の話。
「沙弥香先輩は……なんていうか、理屈っぽいもんね」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
「」
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