「いった」
帰ってきたばかりで手を洗うと、手背の関節に小さな痛みが走った。あんまりにも唐突で、思わず目を落とすと、そこには小さな裂傷があった。
いや、裂傷というか、これは。
「あー……」
いわゆる手荒れだろう。
ついついまじまじと見つめてしまう。
確かにここ何日か手の甲の一部がかさついていた。けどレポートにバイト、サークルで中々に忙しくて、まぁいっかって放置してた。というか、触る度に思い出しはするけど忙しさに呑まれていつの間にか忘れてしまうのだ。
えぇっと、こういう時ってどうすればいいんだっけ。初めてのことだから分からなくてスマホで調べようとする。
そこに、ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。
「あ、はーい」
慌てて手を拭いてから玄関を開ける。吹き付ける寒風の中、そこには制服のままの侑が立っていた。
「ごめんね燈子先輩、急で」
白い息を吐き出しながらへにゃりと申し訳なさそうに笑う侑に、私はぶんぶんと首を振った。
「ううん、全然。嬉しいよ」
さっき来たばかりの連絡だって、まだ外にいたから走って帰ったくらいに嬉しかったのだ。
侑は笑顔の私に釣られるようにして笑って中に入る。
「お邪魔します」
「お帰り」
私がそう言うと、侑は相変わらずの苦笑を浮かべるけど、
「……ただいま」
寒さに赤らんだ顔で小さくはにかんだ。
「それにしてもびっくりしたよ」
急に「今からそっち行っていい?」て来るものだから。嬉しいけど。
「いやー、予備校の先生がインフルなったらしくて休みになっちゃってさ。時間ができちゃって、折角だから」
手を洗いながら侑は事情を説明する。
時間が空いたから会いに来たのだと、そう言ってくれて、私の頬はきっと締まらなくなってるんだろう。
「侑も手洗いうがいしないとだよ」
「今やってるじゃんか」
そう笑い飛ばしながら侑は洗面台に向かってうがいをする。私はそれにひょこひょこと付いて回る。がらがらぺっと一度口をゆすいだ侑は、合間に私の方を見た。
「先輩はちゃんとやってる?」
「やってるよ」
「ほんとかなぁ」
「ほんとだって」
そういうやり取りをしながら侑と一緒にリビングに戻る。
徐に私が近付くと、侑は待てをするように手を挙げた。
「やってなかったらキス禁止だから」
「やったってば」
どうも私は信用されてないらしい。悲しい。
「はいはい」
むぅとしょぼくれながらむくれる私に、ようやく信じてくれたらしい侑は表情を緩めた。
お許しも出たので、触れるだけのキスを一度。
どれだけ繰り返しやってきただろう。それでもやっぱり嬉しくて、頬が緩んでしまう。
侑も嬉しそうな顔をしていて、それが一層気持ちを浮付かせる。
「それにしても今日は寒いね」
「ごめんね。侑が来るとは思わなかったからさっき暖房付けたばっかで」
「いいよいいよ。仕方ないし」
そう言うと侑は私の手を握って笑った。
「ちょうどホッカイロあるしね」
「わっ冷たっ」
「へへー。……あれ」
と、侑が握り締めた手を持ち上げる。にわかに私の手を見て、あっと声を上げた。
「燈子、ヒビ入ってない?」
「あ、そうなの。さっき気付いた」
そうだった。それをどうすればいいのかって困ってたんだった。
「どうすればいいんだっけ」
「ハンドクリームを使えばいいかな。ちょっと待ってて」
そう言って侑は鞄からハンドクリームを取り出す。
「ほら、手を出して」
「ん」
大人しく侑の前に手を出すと、侑は掬い取ったクリームを自分の手の平の上に落とした。
「うん?」
首を傾げると、そのままクリームを広げていた侑は、不意に私の手に触れた。
まだひんやりとしてる体温に、思わず手が震える。
侑は小さく鼻歌を歌いながら、私の手にクリームを塗りたくり始めた。傷口には念入りに、けども痛まないように気を遣いながら。
その光景は違えども、私には昔の光景が思い起こされた。
「……肌荒れ、初めてだったんだ」
私が零すと、侑が鼻歌を止めて私を見上げる。
「お母さんは冬になったら肌荒れして、いっつも一人でクリーム塗ってたなぁって。触ったらざらざらしてるの、お母さんの手。私は家事の手伝いあんまりしてこなかったからこれまでしなくて済んでたんだなぁって、思ってさ」
そう。家にいた時は全部お母さんがしてくれてた。専業主婦だから、というのもあるんだろうけど、私にとってはそれが普通だった。
一人暮らしを始めて、それを強く実感するようになった。
もちろん私が手肌のケアを怠っていたのが大きいのだろうけど、このヒビを見て私はお母さんのことを思い出したのだ。
「いいお母さんだね」
「うん」
侑の優しい言葉に、私は頷く。
夏休みの帰省は短くて、おじいちゃんの家に行ってたからそういう機会もなかったのだけれど、今度帰省したら手伝おうかな、なんてそんなことを考えた。
会話もなくなり侑が再び鼻歌を奏でる。
言葉は交わされないけれど、それでも落ち着いた時間。侑の手が何度も何度も私の手を滑り、揉みしだいている感触が、気持ちよかった。
「はい、終わり」
「ありがと、侑」
こういうのがあるなら、たまには肌荒れもいいかもしれない。
でもそんなこと言ったらまた怒られるだろうなぁ。それに一度すれば治るってもんでもないんだし、明日にでもハンドクリームをちゃんと買おう。
あ、侑とおんなじのを買おうかな? ウチに来た時に使いやすいだろうし。
そしたらびっくりするかも。うん、そうしよう。
次に侑が来た時のことを考えて、また楽しみが増える。
侑と一緒にいると、そんな日々が続く。
それが、幸せだった。
「……まだちょっと寒いかな?」
訊ねるようにして笑う。少しはあったかくなってきてるけど、まだ動くのをちょっと躊躇ってしまう程度には寒い。
侑も頷くと、よいしょっと立ち上がった。
「なにかあったかい飲み物でも作りましょうか?」
「いいね。牛乳くらいはあったはず」
一緒に立ち上がる。私の言葉に侑はまた呆れた顔をするけれど、最後には笑ってくれるのだ。
寒さもたまにはいい。温かいものを、もっと温かくしてくれるから。