「これ、何に見える?」
昼下がりの準備室。ビニール袋から丸い物体を取り出した彼は唐突に問うてきた。
「林檎、ですか」
オレの答えに満足そうに笑い、「色は?」と問いを重ねる。
「赤」
美術の心得でもあれば、もっと的確な表現ができたのかもしれない。子どものように単語だけを発したオレを見て、彼はますます楽しそうに笑った。
「食うか?」
返答を待とうともせず、彼は引き出しから果物ナイフを取り出す。木製の天板の上でスパンと林檎を二等分し、片方をオレに差し出した。
「先生の昼食だったのでは?」
「いーの、いーの。丸々一個食うのは多すぎるし」
オレはいつも数分で昼食を片付けてここへやってくるが、彼はまだ何も食べていないはずだ。多少気が引けたが、彼が「くれる」というものを断るなどできるはずもない。言葉に甘えて瑞々しい果肉を囓る。「美味いか?」と尋ねてくる声に頷きを返した。
「赤い林檎は美味い」
彼はぽつりと呟く。片割れの果実は口元へ運ばれることもなく、彼の手の中に納まったままだ。
「食べないんですか?」
問いかけるオレに彼は笑った。
「なあ、これが筋っぽい紫のキャベツだったら、どうする?」
「……は?」
言葉の意味が分からずオレは目を見開いた。思わず互いが握っているものを見比べる。オレの歯形が付いた林檎と、彼の手の中で弄ばれている林檎。どちらも赤い皮が艶々と光っている。
「おれさあ。たまに考えるんだよねえ」
呆けているオレを気にかけることもなく、彼は語り始める。
「おれが『赤』だって思ってるものは本当は『青』で、『これは赤い林檎』って喋ってるつもりだけど相手には『これは紫キャベツ』って聞こえてて、『美味い』って聞こえてきた言葉は本当は『まずくて食べられたもんじゃない』って言ってるのかもしれない、なんてさ」
「錯覚している、ということですか」
オレの言葉に彼は応えない。応えないまま手中の林檎を一口囓った。シャリ、と小さな音がして、甘酸っぱい香りがオレの鼻腔をくすぐった。ふん、と無意識に鼻をひくつかせたオレを見て、彼は口元を緩める。
「いい匂いがした?」
「ええ」
「それも本当は悪臭かもしれねえぞ?」
彼がオレに何を伝えたいのか。オレにどう感じて欲しいのか。オレには分からない。分かりたくもない。今見えているもの、聞こえている音、彼に対しての感情や伝え続けている言葉、全てが錯覚だとでも言いたいのか。
「そんなことはどうでもいいです」
オレは再び林檎を囓った。甘くて、僅かに酸味がある。美味い。香りもいい。皮は赤い。彼がオレに手渡しで与えてくれたもの。オレの腹と心を満たしてくれるもの。そう感じて何が悪いのか。
「あなたにどう見えていようとオレの言葉がどんなふうに思われていようと構わない。オレはあなたが好きです」
「話がずいぶん飛躍するなあ」
彼は呆れたように笑う。よく言う、とオレは口の中だけで呟いた。シャリ、と林檎を囓る。準備室は爽やかな香気に包まれる。
「ごちそうさまでした。好きですよ、先生」
赤い林檎を平らげて、オレは彼に告げる。教室に戻ろうと背を向けると、彼の小さな声が追いかけてくる。
「オレはおまえが大っ嫌いだよ」
苦い紫キャベツを抱え、彼は淋しそうに笑っていた。