風がざざ、と草を鳴らした。ほんのひと月前までは青々としていた葉が、徐々に黄みがかっていく。空の色も変わった。季節は秋へと向かっている。
視線の先で稲穂が揺れている。世界的には小麦を主食とする国が多いが、温暖湿潤な気候であるロモスでは大規模な稲作が行われている。猛暑や嵐を乗り越えて、稲はその穂を膨らませていく。収穫まであとふた月といったところだろうか。のどかで爽やかな風景を見つめながら、ポップはとぼとぼと畦道を歩く。数歩先をヒュンケルが歩いていた。お互いの間に言葉はない。
この時期に特に必要のない視察を指示してきたのは、おそらくレオナの気遣いなのだろう。先月カールから戻って以降、ポップとヒュンケルはほとんど会話を交わしていない。夏前からどことなくぎくしゃくしていたのが更にこじれてしまったのは、誰の目にも明らかだった。綺麗な景色を見ながら気分転換をして、ついでにしっかり話し合ってこい、ということなのだろう。彼女の希望どおりにこなせるかどうか、とポップは内心溜息をついているのだが。
ヒュンケルは広がる田畑と道に咲く花々を見ながら、ゆっくりと歩を進めている。時折、窺うようにポップを振り返るが、声をかけてくることはない。ポップからも何も発しない。つかず離れずの距離で二人はただ畦道を歩く。農作業もしている人もまばらで、周囲はとてつもなく静かだった。
「……おお」
ふと、ヒュンケルが声をあげる。何か見つけたかと、ポップは彼の脇から前方を覗いた。そして同じように感嘆する。
「すげ。こんなに咲いてるんだ」
畦道にちらほらと咲いていた赤い花。その毒性から害獣除けになるとも、毒を抜いて万一の際の非常食にするとも言われている植物だ。その花が目の前の土手一面に咲き誇っていた。緑の草の中に、鮮やかな赤が広がる。
「観賞用ではないと聞くが……見事だな」
「……ん」
二人はしばし花を見つめた。全てが眩しく輝いていた盛夏を過ぎあらゆる色が薄く淡くなっていく世界の中で、花の赤は恐ろしいほど美しかった。
「……おれは、お前のこと嫌いだった」
ポップの口から零れた言葉は本人すら「会話の糸口としてそりゃないだろう」という内容だった。
「いっつもスカしてて、おれのこと半人前扱いして馬鹿にして。世の中の不幸と罪を全部背負ってますみてえな顔して生きてるお前が大嫌いだった」
「そうか」
ヒュンケルの返答は実に穏やかなものだ。その穏やかさがポップの心に波を立てる。
「……そうやって、『オレはちゃんと分かってる』って顔で周りの気持ち無碍にしていくお前が、おれは……本当に大っ嫌いだったんだよ!」
ひんやりとした風が、苦しげな声を空へ運んでいく。いつの間にか振り向いていたヒュンケルは、ポップの顔をじっと見ていた。
「嫌いだから……! むかつくから、お前を振り回してやろうと思ったんだ! お前が見て見ぬ振りしてきた世界を見てみやがれって思ったんだ!」
戦後のヒュンケルは実に穏やかな性格となり、他者を煽るようなことはほとんど言わなくなった。多くの絆と結ばれ、師とも和解したことで心の中で色々と決着が着いたのだろう。しかし自らを罪深い存在と捉えていることに変わりはなかった。誰とでも和やかに接するものの、どこか一線を引いていた。「自分は幸せであってはならない」「他者の好意を素直に受け入れてはならない」と課しているかのような態度が、ポップはずっと気に入らなかった。
「それで、オレをあちこちに連れ回したのか? 子どもたちの慰問に付き合わせたり、花を見るためだけに早朝起こしに来たり」
「そうだよ!」
罪を背負って生きると言うのならば全てを見ろ、と伝えたかった。戦時の功罪を責められるのは何もヒュンケルだけの話ではない。同じく魔王軍に所属していた者はもちろん、ポップたちでさえ「もっと早く大魔王を倒してくれたら」「敵将を味方に付けるなんて汚らわしい」と何度も詰られてきたのだ。理不尽な言葉に苦しみながらも、平和を喜び、笑顔を向けてくれる人たちから寄せられる思いを糧に皆懸命に努力してきた。仲間以外と深く関わろうとしないヒュンケルに、同じ思いを味わわせてやりたい。ポップはそう思った。ゆえに自分への依頼にヒュンケルをできるだけ同行させてきたのだ。
「お前がどう感じようと、おれはお前のためになんて動いてねえ! だってお前が大っ嫌いだったんだから……!」
ポップがどれだけ声を荒げても、ヒュンケルは動じなかった。
「そうか……そうだな。確かにオレは己の犯した罪の深さに囚われて、周りをよく見ようとしていなかったかもしれん」
ポップが嫌いだと言った『ちゃんと分かっている』顔で、ヒュンケルは微笑む。
「戦いを乗り越えた先の本当の苦しみも……喜びも、お前が教えてくれた。お前の本心はどうあれ、心から感謝している」
「っ……!」
曇りのない瞳で見つめられ、ポップは思わず俯いてしまう。頬が熱くなるのを自覚したが、抑えることはできなかった。
「ポップ」
うるさいくらいに風の吹くなかで、ヒュンケルの声ははっきりとポップの耳に届く。
「お前は先ほど『大嫌いだった』と言ったな。今は……どうなんだ」
「……」
ポップは答えず、動かなかった。数歩前にいたヒュンケルがこちらへ戻ってくる。
「せめて『嫌い』くらいには昇格しただろうか」
「馬鹿じゃねえの」
優しい声を切り捨て、ポップは顔を上げる。
「答えはいらねえだの想いを知っててくれればだの、三文小説みてえなこと言いやがって。そういうこと言やあ相手が動揺するってことくらい、分かるだろうがよ、馬鹿」
「ああ……そうだな。すまない」
夏に見たのとよく似た顔でヒュンケルは笑う。複雑な色彩を抱く瞳を、ポップは真っ直ぐに見つめた。
「もし、おれがお前のこと好きだとしたら」
菫青石のような瞳がふるりと揺れる。
「……おれのこと、不誠実だって思わねえか」
「何故?」
「何故って……だって、おれは……」
ポップはヒュンケルの背後にある土手に視線を移した。鮮やかな赤の中にある人の顔を思い浮かべる。おそらく人生で初めて、真剣に恋をした相手の顔を。
「お前の想いが真摯なものだったことは知っている。誰にもお前を責められはしまい」
ヒュンケルは瞳を揺らめかせたまま、ポップを見据える。
「不実なのはむしろオレだ。お前たちに幸せになってほしいと願っていたはずなのに、お前たちが幸せになれるよう長兄として努めるべきなのに……むしろお前を苦しめている」
「馬鹿じゃねえの」
ポップは再びきつい言葉を吐き捨てる。
「何が幸せなんて自分で決めることだ。おれも、マァムも、おめえに人生どうにかしてほしいなんて思ってない。自分で決めた道を進んでって、自分で幸せを掴むんだ」
「……そうか、そうだな。そのとおりだ」
ヒュンケルは微笑む。ポップを見つめる瞳は優しく、愛おしいという気持ちが溢れるほど伝わってくる。いい顔だな、とポップは思った。無駄に気障な笑みが似合う奴だと思っていたが、こういう屈託のない笑顔のほうがヒュンケルにはずっと似合っている。
「では、お前の幸せはどの道の先にあるのだろうか」
ポップは問いに答えず、ヒュンケルの手を取った。そしてそのまま畦道を歩き始める。ざざ、ざざ、と草が鳴る。遠くに人影が見えるが、こちらを気にする様子はない。たとえ視線が向いたとしても、稲穂とすっくと伸びた赤い花々がポップたちの手元を隠してくれていることだろう。
「道がどっちかなんて知らねえよ。とりあえず行きてえほうに行ってみるから……一緒に来い」
「……ああ」
二人は畦道を歩く。土手を赤く染める花が風に吹かれてざわわとなびく。
「お前の放つ炎のようだな。とても美しい」
ヒュンケルの言葉に「くせえな」とポップは笑う。
「花に例えられたのなんて初めてだぜ」
「そうか? この緑の野といい、鮮やかな赤といい、まさにお前によく似合う景色だと思っていたのだが」
くせえ、ともう一度笑い、ポップは空を見上げた。空気が澄み、薄青が高く広がっている。
「この景色の先には……実りの秋が来るんだなあ」
ぽつりと呟くと、ヒュンケルが握った手に力を込めた。
「また、共に視察に来てくれるか」
急に不安げな声を出す兄弟子に、ポップはからからと笑う。
「ちゃんと実ったらな。仕事抜きで来ようぜ」
「! ……ああ」
二人は手を繋ぎ、赤い花が揺れる道を歩き続けた。