ポップが王城の部屋を引き払い、余所へ引っ越したのは月の初めのことだ。魔道具や薬草の研究資料が増え、借り受けている部屋では手狭になった、というのが理由らしい。
 先月末から一週間ほど地方の土木工事を手伝いに出ていたヒュンケルがそのことを知ったのは、ポップが引っ越しを完了させた後だった。がらんとした部屋を呆然と見つめるヒュンケルに、「聞いていなかったのかい?」とアポロが驚きの声をあげた。
「何も……いつ決まったんだ?」
「先月の半ばごろには姫様に申し出ていたはずだが……」
 説明してくれるアポロは、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。彼が悪いわけではないので、逆に申し訳ない気持ちになる。ヒュンケルは精いっぱいの笑顔を返す。
「そうか。ありがとう。あいつは多忙だからな。きっとオレにも伝えたつもりになっていたんだろう」
 ヒュンケルの言葉を聞いて、アポロもホッとしたように微笑む。
「それで、今の住まいはどの辺りなんだ?」
 続けた問いにはまたも困り顔が返ってきた。
「実はね、それは姫様にも知らされてないんだよ」
「何と……」
 少なくとも王都近郊であることは間違いないそうなのだが、詳しい住所は誰も聞かされていないのだという。
「『どうせこれからもしょっちゅう来るからいいだろ』ってね。街でよく買い物をしているそうだし、それほど遠くでないのならと姫様も深くは追求しなかったらしい」
「そうか……」
 ポップの研究には危険を伴うものも多いと聞く。王城でも彼が許可した一部の人間以外は入室に制限を設けていた。住まいを秘すのは無闇に人が訪ねてこないようにするためかもしれない。だが、それにしてもレオナにまで場所を伝えないとは。ヒュンケルは空っぽの部屋をじっと見つめる。ポップの部屋はいつも雑多に物が溢れ、走り書きされた紙片があちこちに飛び散っていた。扉を開けるとふわりと漂ってくる、薬草と甘い菓子の香り。珍妙な魔道具の陰からひょこりと覗く笑顔。毎日当たり前のように見ていた景色が、ほんの数日ですっかり無くなってしまった。まさに魔法にかけられたようだ。ヒュンケルは溜息をつき、空き室の扉を閉めた。ポップが取り付けていたドアベルの音を無意識に探す自分がいることに気付く。ふっと苦笑いを浮かべると、隣で様子を窺っていたアポロが心配そうに眉を寄せた。
 元々、ヒュンケルもポップもパプニカに正式に雇用されているわけではない。二人に限らず、アバンの使徒は皆、特定の国には仕えない自由な立場を保っていた。各国から武術指導や復興作業などの依頼が来れば、都度赴くというのが現在の主な仕事だ。ダイとマァムはそれぞれ故郷に戻って暮らしている。実家を持たぬヒュンケルはともかく、ポップも本来であればランカークスに戻ってもおかしくないはずだった。
「だって姫さんからの呼び出しが一番多いじゃねえか。いちいち行ったり来たりすんのめんどくせえよ」
 そう言って、ポップはパプニカ城内に部屋を借りて暮らすようになった。ヒュンケルが他国からの依頼を受けた際は「気球じゃ時間かかるし、燃料が無駄になる」とよく同行してくれた。逆にポップが他国へ赴く際も、「荷物持ちしてくれよ」とヒュンケルに同行を求めてくることが多かった。いつの間にか二人は共に行動するのが日常になり、周囲もヒュンケルとポップが連れ立っているのを自然なことと認識するようになっていった。
 仕事以外でも、ポップはよくヒュンケルに声をかけてきた。携帯食料で三食を済ませようとするヒュンケルを部屋から引っ張り出し、兵舎の食堂や街へと連れ出した。ポップは食べている間も多弁で、その相手をするうちにヒュンケルも食事中の団らんというものを楽しむようになっていった。
 調べ物があるからと図書室に同行を求められ、「違う視点の意見欲しいんだよ」と資料探しを手伝わされることもたびたびだった。父バルトスと師アバンから受けた教育のおかげで魔族文字や古い風習に詳しいヒュンケルを、図書室の司書たちは驚きの目で眺めていた。
 ちょっとした買い物でも荷物持ちをせがまれることもあった。今日はあの店、次はこの店と回る内に、いつの間にか街の住人とも顔見知りになっていった。一人で出掛けた際も、明るい挨拶を返してくれることが増えた。ヒュンケルがこの国を壊滅させた不死騎団長と知っている者でさえ、だ。ポップと共に過ごすことで、ヒュンケルの生活は大きく変化していた。
 無論、ヒュンケルを心を配ってくれているのはポップだけではない。離れて暮らす師や弟妹弟子はもちろんのこと、レオナや三賢者、バダックらも、ヒュンケルが平穏に暮らせているかをいつも気にかけてくれる。罪を犯した身には勿体ないほどだ。幸福を願いたい存在がいて、その人たちからも優しい思いを贈られる。これ以上望むものなどないほど、今のヒュンケルは幸福なはずなのだ。
 それなのに、ポップがここにいないというだけで、こんなにも心が冷えている。一体どれだけあの陽気な弟弟子に依存していたのかと自嘲する。住まいが移ったとて、ポップと未来永劫会えないわけでもない。このところ会話は減っていたが、また共同の依頼があれば彼は笑顔でヒュンケルの前に現れるはずだ。何も憂うことなどないはずなのに、ヒュンケルは自身の心にぽかりと穴が開いたように感じていた。あのがらんとした部屋そのままの空虚な空間が、幸福であるはずのヒュンケルの心をじわじわと侵食しているようだった。
 ポップが王城を離れて二週間ほど過ぎたころ。ヒュンケルは街に買い出しに出ていた。ポップとはすれ違いのままで会えていない。だが、できるだけ今までどおりの生活を送ろうと努めていた。彼を顔を合わせたときに「おれがいなきゃどうしようもねえんだな」などと笑われないようにしたかった。遠出用の消耗品を買い、部屋で嗜むためのワインの小瓶とつまみを求める。必要なものを全て揃えたところで、いつだか立ち寄った花屋が目に入った。鈴蘭の咲く穴場を教えてくれた幼い兄弟の家だ。ポップが春の初めにしていたように、たまには花を飾るのもいいかもしれない。そう考えたヒュンケルは色鮮やかな店先へ足を進めた。
「あ、鈴蘭のお兄ちゃん」
 生花の手入れを手伝っていた子どもがヒュンケルに気付く。ヒュンケルは軽く手を挙げて応えた。
「ねえねえ、お兄ちゃん。一緒に来てよ」
 手伝いをしていたはずの子どもらが、何故か店とは逆方向にヒュンケルの手を引く。戸惑いを隠せないヒュンケルに声をかけてくれたのは、幼い兄弟の父親だった。
「すいませんね。この子ら、今日は遊びに出てたんですがね。『約束してたのに返事がない』とかで帰ってきたんですよ」
「はあ」
 それで何故ヒュンケルが手を引かれることになるのか。ますます頭の中に疑問符が飛ぶ。すると子どもの兄のほうが口を開く。
「鈴蘭のお兄ちゃん、魔法使いのお兄ちゃんの友達でしょう?」
「魔法使い……ポップか?」
 そう! と子どもらは大きく頷く。
「朝顔の花が咲いたら、摘んでいいよって言ってたの」
「色水にして遊ぶんだ」
「ぼくらも朝顔植えるお手伝いしたから、約束してたんだ。なのにお家に行っても返事がないの」
 口々に訴える言葉を聞いて、ヒュンケルはようやく子どもらの要求が飲みこめた。
「ポップの家に遊びに行ったら、返事が無かったんだな?」
「そうだよ。今日はずっと家にいるよって言ってたのに」
「中は危ないから入っちゃダメって言われてたんだ。だから帰ってきたの」
 ポップが子どもとの約束を反故にするとは考えにくい。何か問題が起きて留守にしているか、部屋から出られなくなっているのかもしれない。子どもらは純粋に『魔法使いのお兄ちゃん』の心配をしているようだ。
「そうか……では、オレが様子を見てこよう。ポップの家まで連れて行ってくれるか?」
 膝を曲げ、子どもと同じ高さまで視線を下げる。教会や養護施設に支援物資を届ける際、ポップがしていたことを思い出す。できるかぎりの優しい笑顔を浮かべて、子どもらに案内を頼む。
「いいよ!」
 弟が小さな手を差し出した。ヒュンケルが手を繋ぐと、「ぼくも!」と兄も手を伸ばす。両手を繋ぎ、背を低く丸めた状態で、ヒュンケルはポップの新居を目指した。
「ここか……」
 案内されたのは王都から少し離れた森の中だった。花屋の兄弟が教えてくれた鈴蘭の穴場にも近い。小さな家の前には、聞いていたとおり朝顔が植えられている。これから蔓が伸びていけば、良い日よけになるだろう。
「案内をありがとう。危ないことがあってはいけないから、今日はオレ一人に任せてくれないか」
 子どもらにそう告げて、ヒュンケルは上着のポケットを探った。道具屋で「おまけだよ」と貰った飴玉を小さな手に握らせる。家へと戻る兄弟の後ろ姿を見送り、深い息を吐いた。家の中には確かにポップの気配がある。よく知る『気』だが、常よりも弱々しいように感じた。やはり何か問題が起きているのだろうか。ヒュンケルは扉に忍び寄る。軽くノックをするも、返答は無い。
「ポップ、開けるぞ」
 無断の侵入を咎められたらあの子らのことを話そう。少々狡い手のようにも思えたが、無事を確かめずに帰るわけにはいかなかった。鍵がかかっていたら全力で壊す、と挑んだ扉は、いとも簡単に開いた。屋内は静かで、どこか懐かしい香りがヒュンケルの鼻腔をくすぐった。
「ポップ? 寝ているのか?」
 そっと中へ入る。王城と同じく、ポップの家には雑多なものが溢れていた。大きなテーブルには様々な草花や種子などが並んでいる。ヒュンケルはその中の一つに目を向けた。半月型の黒い粒。おそらく朝顔の種だ。この時期に採取はできないはずなので、花屋から種そのものを買ったのだろう。種の近くには乳鉢がある。中には磨り潰された種が入っていた。
「まさか」
 ヒュンケルは家の奥へ足を進めた。薄い戸を開くと、一番奥の部屋にポップがいた。簡素な寝台に横たわった弟弟子は、微かに呻き声をあげている。ヒュンケルは急ぎベッドサイドへと駆け寄った。
「ポップ、朝顔の種を飲んだのか?」
 問いには呻き声が返ってくるばかりだ。朝顔の種は古くから薬として利用されている。だが非常に毒性が強く、取り扱いの難しいものだと聞いたことがあった。ポップは自ら薬効を試そうとして、毒に苦しんでいるのだろう。ヒュンケルは横たわる細い肩を揺らす。
「ポップ、呪文は使えないのか? 解毒作用のあるものは用意しなかったのか?」
 問いに答える余裕も無いのだろう。ポップは固く瞼を閉じたままだ。その顔は苦悶に歪んでいる。いかに研究のためとはいえ、毒を服用したまま放置してよいはずがない。どうにか解毒はできないものか、ヒュンケルは先ほどの部屋に戻ろうと腰を浮かせた。
 そのとき。
「……ヒュンケル?」
 寝台から小さな声が聞こえた。ヒュンケルがハッと目を向けると、ポップが薄らと目を開いていた。
「ポップ!」
 体勢を戻し、震える肩を抱く。ポップは虚ろな目でヒュンケルを見つめていた。そしてふわり、と微かに微笑む。
「すげえ……都合のいい幻覚だな……」
「何……?」
 どういう意味だと問うも返事は無い。ポップはふにゃふにゃと笑い、うわごとのように「すげえ」を繰り返す。
(確か朝顔の種の効果は――)
 ポップに連れられて図書室に行ったときのことを思い出す。確か一緒に薬草の図鑑を見たはずだ。朝顔の種には下剤、利尿剤としての効果のほか、腹痛や幻覚を起こす作用もあると書かれていた。ポップは目の前のヒュンケルを毒が見せる幻だと思っているのだ。
(しかしオレがポップにとって、都合のいい、とは)
 乱れる心を抑え、ヒュンケルはポップの頬をそっと撫でた。ポップは心地よさそうに微笑む。
「幻覚って、こんな、リアルなんだな……」
 三日月のように緩んだ目がヒュンケルに向けられる。苦しいだろうに、見つめてくる瞳には喜色が浮かんでいた。ヒュンケルの手に自ら頬をすり寄せ、ポップは呟く。
「こんな幻見られるなら……毒飲むのも悪くねえ……」
「馬鹿を言うな」
 ヒュンケルはポップの身体を抱きしめた。少し熱もあるようだ。背中をさすってやると、ほうっとポップが息を吐く。その熱にヒュンケルの頭はくらくらと揺らぐ。まるで呼気を通して毒がこちらまで回ったかのようだ。
「ポップ……」
 名を呼ぶとポップはふにゃりと笑う。ヒュンケルはポップの身をベッドに横たえた。掛け布を肩まで被せてやり、上からぽんぽんと軽く叩く。
「城で毒消しをもらってくる。いい子で寝ているんだぞ」
 こくんと頷くのを見て、ヒュンケルは立ち上がった。寝台からは微かな寝息が聞こえてくる。再び戻るまで穏やかに眠ってくれることを願いながら、ヒュンケルは薄い扉を開いた。
「ヒュン……き……」
 部屋を去り際、ポップの寝言が聞こえた気がした。応えることはせず、城へと急いだ。
 ポップが目を覚ましたころには、とうに日が暮れていた。薄暗い部屋の中、手探りで燭台を見つける。ぼう、と火が灯ると何とはなしに安心した。朝から続いていた腹痛はずいぶんましになっている。服用量を見誤ったせいでえらい目に遭ったが、良い経験になったとも思えた。はっきり覚えてはいないが、意外に夢見も良かった気がする。
 ふとサイドチェストに目を向けた。水差しとグラス、さらに毒消しが置かれている。己はこんなに準備が良かっただろうか。ポップは首を傾げた。唇には濡れた感覚があった。朝顔の種を飲んでからほぼ寝込んでいたが、一瞬意識が覚醒した気がする。その際解毒を試みたのだろうか。今一つ記憶がはっきりしない。
 ポップはよろよろと寝台から下りた。燭台を手に寝室を出る。毒素は体内から抜けているが、胃は空っぽで痛いくらいだった。ミルク粥でも作ろうか。そんなことを考えながらダイニングへ向かう。食卓兼実験机にしている大きなテーブルには、朝ポップが並べたまま、多種多様な草花や種子が並んでいる。
 そのテーブルの隅を見て、ポップの表情は固まった。薬草類を避けるようにそっと置かれている、一挺のバイオリン。何度譲ると言われても、頑なに彼の部屋に置いてきたものだ。王城を出るときも持ち出す気にはなれなかった。彼には弾けないと分かっていても、自分たちを繋ぐこの一挺を彼から奪いたくないと思ってしまったのだ。
「どうして」
 呟きに答えるものはいない。バイオリンはただ静かにそこにあるだけだ。メモの一つさえ残されていない。だがポップの脳裏にはある光景が鮮やかに映し出される。毒で苦しむポップを優しく抱きしめた後、ヒュンケルは城へと戻っていった。そして解毒剤とバイオリンを手にこの家に戻る。ポップに薬を飲ませ、テーブルにバイオリンを置き、静かに立ち去る。銀の髪が夕焼けに照らされ、きらきらと輝いている。ポップはずっと寝込んでいた。脳内で繰り広げられる光景はただの妄想に過ぎない。しかしその妄想はやけに鮮明で、どんなに打ち消そうとしてもポップの頭から離れようとはしなかった。
 ポップは自身の唇を指で拭う。濡れた唇からは毒消しの香りがした。朝から全く飲み食いしていないのに、喉の渇きは少しも感じなかった。サイドチェストにあった水差しに残っていた水は、容器の半分ほど。一体どれだけの量を、どのようにして口にしたのだろう。
「どうして」
 ポップはぽつりと呟く。答えるものはいなかった。夜のとばりが下りた森はひどく静かだ。窓の外の朝顔は、既に小さく萎んでいた。
 
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花とあなたと十二ヶ月 七月・朝顔
初公開日: 2022年07月27日
最終更新日: 2022年07月27日
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月イチヒュンポプ第7話。