こんな遠いところまで来ることになろうとは、と恵は半ば呆然としながらも、こうなってしまった経緯を考え、この結果は当然のことだったと諦め、受け入れた。一族の掟は厳しいが、しかし、恵は生まれた時からその掟を破っていた。人間の腹から生まれたのだから、どうしようもなかった。
西の山に住まう鹿の禪院一族は、頭から腰までは人の姿に近かったが、腰から下と頭から生える角は鹿のものだった。古代から力を振るい、山の麓の土地まで治めていたが、人々の勢力が広がるに連れ、徐々に追いやられて、かつてほどの勢力はない。だが、彼らは人にはない力を持っていて、その力をとても誇っている。彼らは人と交わることを忌避し、西の山の中に引きこもるようになった。
そんな中、恵の父は出来損ないだった。腰から下も人と変わらぬ姿をしていて、祖母は生まれたばかりの父の姿を見て自殺したそうだ。不貞の子と蔑まれ、しかしながら禪院家のことを知っているために追い出すこともされず、父は人間のふりをして山の下で人々の生活を伺ったり、物を盗んだりしてきたそうだ。西の山に帰ることは億劫だったが、だからといって人々と交わることもできなかった父は、母に出会ってしまった。父と母は何も知らないままに手を取り合い、限られた時間の中で心を重ねた。
結果は、鹿の角と下半身を持った子供だった。生まれてすぐに立ち上がり、母の頬を舐めた赤子について母がどう思ったのかは分からない。母はその後すぐに息を引き取ったからだ。人の腹から生まれるには無理があったのだろう。父は心を失くし、恵を山に連れ帰った。恵は母殺しと蔑まれながら生きることになった。
生まれが卑しいと大人たちが口を揃って言うものだから、子供も同じようなことを言っていたが、恵が誰よりも力に愛されていることを知ると、今度は意見が二分した。
禪院の一族は力を誇りにしている。だからこそ、一族の力に最も愛された恵を無視することができない。実力主義の者は恵を将来の当主として育てるべきだといった。今の大人の中で恵と比類するものはいなかった。
しかしながら、人々によって山の中に追いやられた苦い記憶があるために、人の腹から生まれた恵を認めるわけにはいかないという主張は根強かった。何より、出来損ないの父親を持っているのだからと嘲りながら、恵を何とかして扱き下ろそうとした。それでも殺さないのは、同族殺しが最も重い罪だからだ。数が減っていく一方の一族を存続させるには、恵のような存在でさえ殺せない。
父は自分が死んだらどこへなりとも行ってしまえと恵に言った。たとえ出来損ないとはいえども、父親がいる限りは一族の手も伸びにくいが、死んでしまえば遠慮がなくなるからだろうと、恵はその言葉に頷いた。父は母を失ったことで心を捨ててしまったが、時々こうして取り戻して恵に言葉を伝える。だが、しばらくすればまた忘れてしまう。
そんな男でも父親だったから、本当に死んでしまうまでは山の中で過ごした。様々な嫌がらせを受けたが、恵は決して屈しなかったし、一族が重要視する力も鍛えて、誰にも手出しされないように努力はした。
父が死んだ夜、遺体は焼いた。愛してくれなかったが、それでも冒涜されるのは嫌だったから、灰にしてしまった。残った骨を拾い上げ、恵は東を目指した。とにかく、人も禪院もいないところに行きたかった。
辿り着いた山には人の気配がなかった。静かで豊かな山だった。生きていくのに不便がなさそうだったし、不思議と居心地が良いところだった。この山に辿り着くまで長い時間がかかったから、疲れ果てていた恵はこれまでのことを思いながら、休めるところを探した。不眠不休でここまでやってきたから、とにかく安全な寝床で寝たかった。
すると、恵の目の前に男が立っていたが、人間でないことはひと目見て知れた。四本腕で四つ目の男は恵を見て「まだ現存してたとはな」と感心していた。
男は恵達のような生き物よりずっと強い。鍛えた力も男には通用しないだろう。それに争う気力がもうなくて、恵は頭を下げて乞うた。
「あなたが何者かは知らないが、どうか一晩休むことを許してほしい。明日には出ていこう」
こんな生き物がいたら、恵が住む余地などないだろう。だが、休むことは許されたかった。こんなに心地の良い場所は初めてだったし、この先こんなところにたどり着けるかは不確かだった。
「出ていくのは許さん。お前はここに住め」
「……なに?」
「お前は西から来た。西の禪院だろう。これより東は人の領域だ。お前が生きていくことは叶わん」
「そうか……」
恵は膝を折って礼を示し、寝床になるような場所を探した。
男は何やら満足げに笑うと、姿を消した。
男はこの山の神だという。大昔に封じ込められた呪術師というものだったが、山の力を奪い、この山の主となった。尋ねられれば神と答えていたが、実際には神でもなんでもないと言った。
男は度々恵の様子を遠くから見つめていたようだったので、恵は男に近寄って話しかけた。敵意のない、不思議な温かみを感じる視線は心地よかったし、何より山が男に支配されているからか、人の気配がまったくないのも気分が良かった。
男は宿儺と名乗った。近寄る恵を笑いながら迎え、様々な話を聞かせた。宿儺の語る話から世のことを学ぶのは興味深かった。西の山の中は狭い世界で、窮屈で息苦しかった。どれほど山を豊かにしようとも、犇めき合う感情が心を貧しくさせているようだった。
宿儺は長らく他人を拒んでいたため、この山で言葉を話すものは今、宿儺と恵しか居ないらしい。人が来れば、姿を見せずに危ない目に遭わせて、近付けないようにしているらしい。実際、底なし沼などもあるので、宿儺が自ら追い返さなくてもあまり入りたがるものはいないらしかった。
宿儺の山を駆け巡っていると、時々宿儺が隣で走ってくれた。全力で走る恵を追いかけるのだが、そのうち隣に来て、追い抜こうとする。それを追い抜かれないように頑張るのは面白かった。西の山では決してなかったことだ。
食べ物は宿儺が恵の分まで取ってきた。なんでも食べるといい、毒が含まれていても遠慮なく食べた。
ひと月もしない頃には、宿儺の隣で眠るようになった。大きく熱い肉体がとても心地よくて、ピッタリと寄り添って眠った。
宿儺は大きな体をしていて、人よりずっと背の高い恵よりも大きかった。こんなに大きい生き物なのに、恵は警戒する気持ちがわかなかった。恵の頭や背を撫でる時に一度だって敵意を感じたことはない。大きくて熱くて優しい手が自分を慈しんでくれる喜びを初めて知った。他の生き物は知っているのだろうか。すべてを委ねたくなるような安心感、慈しまれているという喜び、もっと求めたくなるような心地よさ。禪院にはないものだった。他の生き物の親子ならば、あるいはこんな感じなのかもしれない。
恵は狩りが得意だった。手作りの弓矢で猪を仕留めて宿儺に食わせてやった時は誇らしかった。宿儺の大きな体に見合う食糧は多くはなかったが、宿儺は山のものを食い散らかすことはなかった。より多く食べてしまうと、山が弱くなる。宿儺は山の力を奪ったが、山がなければその力も衰えてしまうらしい。元々大食らいだったのが、今は節制をしているという。
山に来て一年が経った頃、生え変わったあとに落ちた恵の角をポリポリと食べているのは面白かった。毎年食べる気になったらしい。まだ生まれて二年だから、角は小さいが、あと二年もすれば大きく立派になるから宿儺にもっと食わせてやれるだろう。美味いのかどうかは分からないが、宿儺は何でも口に入れるという。毒も効かないから、自分が好むか好まざるかだけしか気にならないという。恵の角は気に入ったそうだ。
山での生活は穏やかだった。人間は入ってこないし、食料も自然も豊かで、これこそが人々の語る桃源郷のように思われた。鹿と違い肉を食べる恵でも冬の活動はかなり抑えてほとんど動かないのだが、宿儺が冬でも食べ物を取ってきてくれ、時には甲斐甲斐しく食べさせてくれた。