うそつき 羽
怖くて振り返れなかった。喉と肺が痛い。吸っても吸っても酸素が取り込めない気がして、縋るように要の腕を掴む。要、と言いたくても、喉は呼吸に一生懸命で空っぽの風音しか鳴らなかった。
「……練習しよう」
要が言ったのはそれだけ。袖で待ってくれている要は、いつも「最高だった」「完璧だ」と褒めてくれたし、1番初めの時なんて「愛してる」って抱きしめてくれたのだ。要は嘘をつかなかった。嘘つきは俺だけだ。
「ねえ、なんか背中痒い」
濡れた髪のまま言うと、要は手帳から顔を上げた。
「背中?」
今日のライブが散々だったからか、要の声も対応もいつもより優しい気がする。今はそれに甘えたい気分だ。
「うん。ちょっと見て」
ソファに腰掛ける要に背中を向ける。遠慮なく服を捲られて、風呂上がりの皮膚が部屋の空気に晒された。暖房を付けていても冷たいものは冷たい。
「……掻いただろ。あと、ちゃんとクリーム塗ってない」
要の冷たい手でぺちりと背中が叩かれる。
「あ〜、バレた」
「そのまま」
要が立ち上がったのでソファが少し軋んだ。言われた通りこの体勢のまま待っていると、また冷たい何かが背中に触れる。たぶん、いつも風呂上がりに塗れと言いつけられている保湿クリームだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
目を閉じて、要が触れた皮膚の感覚を追う。背中は自分じゃ手が届かなくて、いつも塗り忘れるのだ。要がいないと。俺の背中に触ってくれるのなんて、要だけだし。
「……明日から練習がんばるね」
目を閉じたまま瞼に力を込める。要は小さく「おわり」と言って、捲っていた俺の服を下ろした。
「しばらくここに居ていい。俺は俺で、仕事片付けておくから。HiMERUは、ここで練習してて」
淡々とした説明口調を聞きながら恐る恐る振り返る。要は最近の学園の様子を心配しているのだ。だから最近仕事を減らしていたし、今日は久々のライブだった。伏せていた瞼を持ち上げた要と視線が交わる。要は不安げに眉を下げた。
「練習しようって、そういう意味だから」
練習を増やさなければいけないほど酷いライブだった、という意味じゃないらしい。否、そういう意味ももちろん含まれているのだろう。多分どちらも本心だ。こんな顔で「愛してる」なんて言われても信じられない。要が正直で良かったと思う。
要は宣言通り一人で仕事に出かけていった。嘘つきな俺は、少し時間を空けて学校に向かう。学園の様子は、確かに近頃良くはなかった。
できるだけわざとらしく息を吸い込んだ。肺を膨らませて、酸素を取り込む。控室として使われることになっている教室のドアをゆっくり開けた。
「おはよう」
十二月の朝の空気は冷たい。冷気を吸い込んだ肺が痛くて、痛みは背中まで伝っていた。声は響くこともなく床に転がる。教室には誰も居なかった。
ユニットを組んでみたいなんて、要には一度も言ったことがない。
自分一人の力じゃ無理でも、仲間となら頑張れる。そういう形に憧れていた。それそのものじゃなく、そういう形を胸を張って言えることに憧れていた。肩を組んで誰かの背中に触れたら、触られたらどんなに素敵なことだろうか。
声をかけた二人は特待生じゃなかった。それでもこれから学園は変わるはずで、初ライブだなんて浮かれて、浮かれてつけたユニット名で、要に言わずにライブ申請を出した。それで、今日。教室には誰もいなかった。
なんだ、なんだ、みんなうそつきだ。いつもの「HiMERU」のライブみたいに、面倒を見てくれるスタッフすら一人もいない。でも、校内のライブ会場の客席には人が入っているようだった。幕は上がる。
俺は生粋のうそつきで、トップアイドルだって嘘をついて、ステージの上で息を吸っている。今更、正直に生きたかった。泣きたくなかった。それでもできるって証明したかった。要しか俺の背中に触ってくれない。何もない背中に。
息を吸い込む。背中はやっぱり痒くて、多分痛かった。息を吸い込む。吸い込んでも吸い込んでも、酸素が足りない。客席からの声で掻き消されるから、マイクの音量も足りない。客席から物が飛んでくるから、ステージの広さも足りない。みんな、学園が変わるなら、これから一生懸命頑張るって言ったじゃん。うそつき、うそつき、うそつき!
客席の1番後ろ、非常口のすぐ側に要が居るのが見えた。今日外部の仕事するって言ってたじゃん。うそつき。