まず、部屋が暗かった。
電気を付けて、コートを脱ぎながら部屋に入る。クローゼットを開けると、普段要が仕事の時に着ているコートが無かった。HiMERUからは何の連絡もない。要のおおよその帰宅時間は伝えていたし、もうとっくに家にいるものと思っていた。すると、考える間も無く玄関の開く音がした。
「……ただいま」
様子を伺うような声が背中の方から聞こえて来る。嫌な予感がした。具体的に言うと、HiMERUが隠し事をしているような予感だ。
「HiMERU、どこ行ってたの」
自分のコートを掛けながら、振り返ることも無く言う。説教する気はなかった。ただ、『HiMERU』の間に隠し事は無しだ。お互いのために生きると決めたのだから、誓って、偽証は許されない。
「ごめん、コート借りた」
HiMERUは思ったより悪びれた様子もなく要の隣に並んだ。案の定、要のコートを手に持っている。
「……いいけど……仕事ならいつもの着てくれないと」
HiMERUにおける細かな決めごとの一つだ。仕事のときは決まったコート、決まったアクセサリー、決まった靴。それが記号になって、『HiMERU』を印象付けることができる。反対に、これを着ていなければHiMERUじゃないと思わせることができる。
「大丈夫。自主練だから、ただの」
HiMERUの視線が一瞬泳いだ。どんな後ろめたい自主練をしたというのだろう。
「……それ意味ある?」
要の力で土台を支えているのが『HiMERU』というアイドルだ。HiMERUが一人でこの時間まで練習をするよりも、要と二人で打ち合わせをした方が直接的な『HiMERU』のパフォーマンス向上に繋がる。そんなことはHiMERUもわかっていることだと思っていた。きっと単に、言い訳が下手なのだ。
要の呟きのような揚げ足取りに触れることなく、HiMERUはさっさとコートを掛けてソファに座り込んだ。
「寒かった〜。要、夕飯食べた?」
過剰に明るい声が静かなワンルームに転がる。こんなに楽しそうなHiMERUはここ数年見たことがないから、かえって不自然だった。
「食べたよ。どこで自主練したの? 今度は俺に声かけてからにして」
夕飯は食べてきた。しかしHiMERUとしたいのはそんな話じゃない。HiMERUの隣に座ろうかと思ったがやめた。ソファの前に立ったまま、HiMERUを見下ろすことにする。
「ごめん」
HiMERUはいつまで経っても要の質問に答えなかった。他の誰かならともかく、要に嘘をつくなんてあり得ない。嘘をつくというのは、愛を、信仰を、軽んじる行為だ。少なくとも要はHiMERUに嘘はつかない。絶対に。
「これから気をつけてくれればいい。明日も仕事あるし、予定が崩れると困るのはHiMERU」
今は特に仕事が忙しかった。何かよくないことが起こる前に、『HiMERU』としてできる仕事はやってしまおうというのは要の勝手な判断だ。しかし、本人の負担を少しでも軽くするために仕事以外のスケジュールも細かく調整している。だから今日も、仕事が終わったら直帰するように指示を出していたのだ。
「……ごめん」
HiMERUの視線はまた泳いで、数秒右往左往してからようやく要のそれと交わった。
「どこで自主練してたの」
謝らせたいわけじゃない。要とHiMERUの間にある確かなものを、確かなままに守りたかった。秘密という膜が、二人の間にかかったのでは本末転倒だ。
「……今日……」
目を逸らさないままHiMERUは口を開いた。
「打ち上げがあって」
自主練というのはやっぱり嘘だったらしい。自分が腕を組んでいることに気づいて、ゆっくり身体の横に戻した。要が知りたいのは、何の打ち上げか、何故隠したか。でも何も言わずにHiMERUが自分から話すのを待った。信頼しているからだ。
HiMERUは突然、ほどけるように目尻を下げた。
「言っちゃった」
嫌な予感がする。黙ってHiMERUの言葉を待つつもりだったが、焦って口から声が漏れた。
「……何を」
コートが仕事用じゃないとか、そういう簡単なことならいい。名前みたいに決定的な情報は駄目だ。
「名前」
HiMERUの表情は、カメラに向けるための笑みで固まっている。
「誰に」
何の打ち上げかなんてわかっている。今日あった仕事の関係。関わるなと口を酸っぱくして言った男がいることも。
「風早巽」
秒針がカチカチ鳴る音が近くに聞こえる。
「……あは」
HiMERUの高い声が、吐息に混じって秒針の音を掻き消した。さっきまでの笑みとは違う、本当に楽しくて笑っているときの、転がるような笑い声だ。
「……何笑ってんの」
HiMERUの行為は勿論説教ものだが、急には言葉が浮かんでこなかった。HiMERUの根底を揺るがしかねない。困るのはHiMERUだ。
「いや、ふ、はは……」
HiMERUは手で口元を抑えて、身体を折り曲げて笑っている。目尻に光っているのは多分涙だ。
「俺、全然……悪いって思わなかった!」
HiMERUの見開かれた瞳は部屋の照明を吸収してきらきら光った。要に嘘をついたこと、風早巽に秘密を明かしたこと。どちらの話なのかわからない。HiMERUはまたくすくす肩を震わせた。
「『十条要』がね、本名だよって言ったんだ。『HiMERU』の」
ぽろ、と目尻から一粒光が転げ落ちるのを見た。多分涙だ。たしかに笑い転げるくらいおかしな話だと思った。あり得ないし、意味がわからない。要にも、巽にも、嘘をついたのか。愛と信仰を裏切る行為だ。
「俺意外と、神様にも嘘つけるタイプだった」
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ワンドロ
初公開日: 2021年11月07日
最終更新日: 2021年11月07日
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