ケーキ 炬燵
消灯時間は過ぎていて、キッチンの小さな灯りだけが部屋を照らしていた。仕事自体は早く片付いたが、打ち上げまがいのものに参加することになったのだ。年末にもなるとその手のイベントが増える。
灯りがついているということは、誰かがいる筈だ。どのみちキッチンに用があったので、コートを脱ぎながら灯りを目指して歩いた。
「……要さん」
食事のためのテーブルに突っ伏して、水色の髪の毛が広がっている。顔は見えないが、間違いなく十条要だとわかった。見た瞬間に眠っていることには気づいたので、名前を呼んだのは独り言だ。
暖房はついていたが、暗さのせいか部屋の空気はうっすらと冷たかった。
巽の独り言にも反応を示さないのを見るに、眠りはかなり深いのだろう。無理に起こすのも躊躇われて、要の後を素通りする。
目的を果たすべく冷蔵庫を開いた。箱を取り出して、中のケーキを皿に乗せる。保温にしてあったポットから、マグカップにお湯を注いだ。流石にこの時間からティーセットを用意する気にはならないので、簡易的にティーパックで済ませる。準備を整えて、向かいに巽が座っても要は動かなかった。
一度座ったものの部屋の寒さが気になって、談話室に置いていた膝掛けを持ってくる。それを要の肩にかけても、要は起きなかった。
ティーパックを取り出して、適温になった紅茶を一口含む。すると、どこからか籠った音が鳴った。
カップを置いて耳を澄ませる。キッチンの方から、何かが震える音。スマートフォンの着信だ。
今度は音を目指してキッチンに向かった。巽のスマートフォンはポケットに入っているし、おそらく要の物だろう。さっきは薄暗くて気づかなかったが、それは冷蔵庫の横に置いてあった。恐る恐る画面を覗き込んだ。覗き込もうとした。
するりと伸びてきた肌色が、震えるディスプレイを包むように隠したので叶わなかったのだ。
振り返らなくてもわかる。要の手だった。
「すみません」
巽の謝罪に対して、要は何も言わずに、スマートフォンごと手を引っ込めた。静かに遠くなる足音で、部屋を出ていったことがわかる。
ようやく振り返ってさっきのテーブルを見ると、膝掛けが床に落ちていた。畳み直して椅子の背もたれに掛けた。紅茶からはまだ白い湯気が出ている。廊下から、要が誰かと通話している声が微かに聞こえた。
五分程度、と言っても巽が食事をするには十分で、ゆっくり食べようと意識していたにも関わらずケーキは二口くらいしか残っていなかった。要が廊下から戻ってきた。
「大丈夫でしたか?」
こんな時間に電話がくるなんて、余程重要な内容だったに違いない。そんな電話を勝手に取ろうとしたのだから巽にも非がある。
「……ええ」
要の口元は弧を描いていたが、寝起きだからか目には覇気がなかった。
「すみません、起こすタイミングを……」
電話を取ろうとしたこと以外にも非があった。わかっていたのに、口からは誤魔化すような言葉が出たので慌てて飲み込んだ。途中で口を噤んだ巽を不思議に思ったのか、要は眉根を寄せてさっきの椅子に座る。
「いいえ、寝顔を見ていたくなったのかもしれませんな。ふふ。頬に、袖の跡が」
灯りの下に要の顔が来たから初めて気がついた。巽から見て右側の頬に線が入っている。要はふいと目を逸らして、指先で左右の頬を順番に撫でた。またぎゅっと眉根を寄せる。
「……こんな時間にケーキですか」
自分の頬に言及しないまま、要は視線を落とした。二口しか残ってないケーキ。空っぽのマグカップ。それが何故か恥ずかしくて、誤魔化すように笑う。
「はい。今帰ってきたところだったので。ALKALOIDのみんなでケーキでも食べようと話していたんですが、誰が買ってくるのかちゃんと決めていなくて。四人では食べきれない量になってしまったんです」
誤魔化しでぺらぺらと言葉が出たが、一つも嘘ではなかった。寮内でのクリスマスパーティとは別に、ユニットでも時間を作ったのだ。やはり忙しかったから、全員がそれぞれ四人分のケーキを買ってきてしまった。それをみんなで笑って、可能な限り食べて、楽しかった。
「要さんもよろしければ」
冷蔵庫に視線を向けた。箱の中にはまだまだ残っている。できれば、協力してもらいたい。視線を正面に戻すと、要が背中を丸めていた。
「くしゅん」
肩の震えに合わせて小さく声が漏れる。要がいつからこの場所にいたのかは知らないが、くしゃみが出ても何もおかしくない。暖房は付いているが、足元が冷える。
「ああ、寒いですよね」
さっき同じことを考えて膝掛けを取りに行ったことを思い出す。要もわかったようで、振り返って背もたれのそれを手に取った。
「これは巽のものでしょう。お返しします」
「今くしゃみをしたばかりの人から取り上げるなんてできません」
突き出された膝掛けをそっと押し返すと、案外すんなり従ってくれた。
「そうですか」
要はそれを自分の膝に掛けるでもなく、隣の椅子に置いた。意地っ張り。
「空調は整っているとはいえ、やはり足元は冷えますよね」
苦笑しながら空のカップを両手で包む。まだ温かい。ティーパックの紅茶だが、要にも出したほうがいいだろうか。膝掛けみたいに横に置かれてしまうかな。
「そうですね」
要の視線はテーブルの上を這っていて、まつ毛の長さが灯に照らされてよく見えた。
「この前……ああ、これも、四人で話したことなんですが。炬燵がどこかにあればいいと藍良さんが言っていて」
要の目が覚めてしまったら、沈黙が無性に居づらかった。考える前に口が喋ろうとしてしまう。
「そうですね」
要の視線は巽の方を向いていない。
「俺の部屋、晃牙さんさえ良ければ置いてみようかと思っているんです。ほら、二人部屋で場所はありますし」
巽の実家には炬燵が無かった。藍良の提案は素晴らしいものに思えたのだ。例えば炬燵があって、ケーキも紅茶も分け合っていたなら、こう居心地が悪くも無いはずだ。
「そうですね」
今度は近くで、籠った音が鳴った。これもスマートフォンの通知音。短いから、電話ではなくメッセージだ。テーブルに置かれた要のスマートフォンから聞こえた。
「その時は要さんも」
また画面を覗こうとしたら嫌われてしまうので、気にせず話を続けた。要の視線がスマートフォンの画面を撫でる。そしてようやく、顔ごと持ち上がった。
「……いえ」
もうすぐ日付が変わる時間だ。紅茶はもう無い。ケーキももう、残り一口だ。
「いりません。ケーキも、炬燵も」
要の目にはやっぱり覇気がなかった。元気がなかった。寝起きだからではないのだ。
「こんな時間にケーキなんてHiMERUのルールに反しますし、炬燵は、あまり大人数で入るとかえって冷えることもありますよ」
そうなのか、それは悪いことをした。一人で喋りかけるときとは違って、しっかり考えてから返事をしなければならないと思った。次の言葉を口の中で転がす。
「ケーキの消費に困っている巽に言うのも申し訳ないですが、冷蔵庫に二つ、ケーキが入っています。HiMERUのものですが、もういらないので巽に差し上げます」
想像以上に要の言葉が途切れなかったので、言おうとした言葉が口に滞留する。代わりに渡された言葉を咀嚼した。年末の冷蔵庫は物が多かったから気づかなかった。箱はもう一つあったかもしれない。
「誰かと炬燵で分け合って、食べたらいいんじゃないですか」
篭った音は、要が椅子を引いた音だった。カップはすっかり冷めている。未練がましく一口分だけ残していたケーキが皿の上で倒れた。足先が寒い。
「おやすみなさい」
後ろ姿にすら覇気がない背中に挨拶だけを放り投げた。要がここで何をしていたのかも知らない。誰と電話していたのかも知らない。ケーキが要らなくなった理由も知らない。それでも一足飛びで、距離を縮められる何かがあればいいと思っていたのだ。すべて断られてしまったけど。
要は振り返らなかった。ただ、廊下から「くしゅん」と小さなくしゃみの音が聞こえた。
時間ねえ!おわり