溶けて消えて、一部になって、私は異物と混ざり合って息をしている。純潔は失われ、他を受け入れれば受け入れるほど濁り、染まって。
本来の自分を失くした。
『何のお肉?』
『……はは…豚。』
何気ない春千夜との会話がふと耳の奥で反響した。
「豚。」
目の奥が発火するほどの強烈な熱さを伴い、見つめた先の春千夜の薄い唇が悪びれもせずに一度すぼまり小さく消えそうな声でそう囁いた。
私が今まで疑いも持たず口に放り込み、糧としていたものが本当は何であったのか、理解した。
丸くて白いディナープレートの上に乗るあの男の白んだ顔が一瞬脳裏をよぎる。
わたしがたべたんだ。
瞬間的に腹を殴られ内臓が身体の中でひしゃげたみたいに凄まじい嘔気が押し寄せて、口から変えるの潰れたような悲鳴が上がる。
「うっぅうううぁ~~!!??ングッ、ぐぅ、オェッ、~~~~ッ!!!」
閉じた唇をこじ開けるように一気に噴出した吐しゃ物が、びしゃびしゃと音を立てて、床に飛び散り膝にぬるついた液体の熱い温度が皮膚を汚した。乾いた口の中から飛び出たそれはキツい酸味を舌に染み渡らせて、もわりと空間に据えた異臭をまき散らす。
吐いて吐いて吐いて。出して。全部出して。
厭だいやだイヤだ厭だ厭だ嫌厭嫌嫌絶対嫌だ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!!
両の手が自然と首に回って背中を丸めて、私は万力の力を腹にこめて内側に溜まった泥を吐き出すように、少しでも中に押し込めたそれを腹から絞り出そうとした。
ギリリ、と繊維が千切れそうなほどに見開いた目からは大粒の涙がとめどなく零れて、口から飛び出る吐しゃ物の混じった唾液が漏れ出るごとに鼻腔からは粘度の高い体液が垂れ下がり糸を引いていた。
無造作に膝元に広がる液状化した物体は泡立ちところどころに未消化の小さな粒が浮いている。黄土色に近いそれからは微かに湯気が立っていた。
ゼエゼエと両肩を上下に揺らして息をする。唇から垂れ下がる液に髪の毛が張り付き、顔全体が穴と言う穴から零れた液体で湿りきっていた。目の前にしゃがむ春千夜のことなどもう思考の外で、ゲェ、と声を絞り出してえづいていると、ゆらり、と黒い影が動いて俯いて見つめ続けた吐しゃ物が一層暗く翳る。
「あ~あ~あ~、こんなに吐いちまって…きったねぇなぁ?オイ。」
ぬっ、と伸びてきた春千夜の右手が私の汗ばんだ額を親指で撫で、乱れた前髪を掬うように払う。信じられない気持ちを隠さず涙で滲んだ瞼を開いたまま見上げると歪に引き攣った口角がひくひくと痙攣している様が目に映る。とろん、と蕩けるように下がった目尻、ギラギラと光を放つ両目は焦点があって無いのが虹彩がぐらぐらと揺れていた。まともな人間の目つきじゃない。白い頬は紅潮し、口からは、は、と荒い息を吐く様子は普段あんなにも物静かで冷めた彼からは想像もできないほどの熱と狂気を孕んでいた。
「ッぁ……なんれ、なんで?」
「゛あ?」
なんで。どうしてこんなこと。
分かってるつもりだ。どうしてこんなことになったのか。けれど、私が知りたいのはどうして此処までするのかだ。
たった数度、ほんの出来心だった。
私のことなんてどうでもいいみたいに知らんぷりしてたじゃないの。今までずっと、知らないふりして。一体春千夜はアレを何も知らずに食べてる私を何を思いながら見ていたんだろう。
責めるなら私を責めればいい。好きなだけ詰って、気が済むまで殴って、最後は別れを告げてそれでいいじゃないか。なんで、私と彼がしたことは、命を奪われるに足る理由のあることなの?
いや、違う。私は分かってたはずだ。だから今までこんなにも怯えていたんじゃないか。気付かないふりして、見ないふりしていただけだ。春千夜は裏切りや間違いを許さない。それがほんの小さなことであったとしても。
私は、細いつり橋を踏み外したのだ。
「好きなんだろ?ソイツ。善かったじゃねぇか一緒になれて。」
くにゃり、と首を傾げた春千夜の低く滑らかな声が熱い吐息を孕み空気に溶ける。
「ちが、ちがう。…違うの、っ、わたし、」
「アハハ、何が違ェンだよ?」
「ほ、ほんきじゃなかったの。ごめんなさい、」
「カワイソーなこと言うなよ。テメェのために死んだんだぜ?」
ふるふると首を振る私の前髪を春千夜は今度はきつく掴み上げると、ぐい、と力任せに持ち上げる。淡い桃色の髪の毛がはらり、と肩から滑り落ち、ぐ、と鼻先がつくほどに顔を近づけられると恐怖で身体が縮み上がるような思いだった。強く激しく不穏に鼓動を刻む心臓がはち切れそうなほどに傷んで、ガタガタを奥歯を鳴らすと彼は苛立たし気に舌打ちをする。びき、と額に浮き上がる青筋が、声も顔も嗤っている彼がその身体の内側に囂々と燃える怒りを飼っていることを私に思い知らせた。
「コソコソ鼠みてぇにオレに隠し事して楽しかったか?」
「、ご、ごめんなさ、」
「ヒトの目盗んでその豚のドブ臭ぇ舌でベロベロ舐められてヨガって乳繰り合ってたんだろ?随分ナメた真似してくれるじゃねぇか。゛あ?さぞ好い気分だっただろぉなぁ~。」
「ちがうの、…ちがう、!」
じく、と棘のある春千夜の言葉が胸に刺さると私は楽しかったのだろう、という彼の認識を否定したくて仕方がなかった。
違う、違う。好い気分だっただなんて。そうじゃない。
苦しいばかりだった。清々したのは最初だけで、他の人がこんなに簡単にくれる優しさを一番欲しい相手から貰えないのが一層悲しくなるばかりで。けれど、違うと今更否定したところで何になる?
私だって辛かったの、何て被害者ぶることなんてできるワケがない。
どうして言い訳なんてできるって言うんだろう。
どんな理由があっても非は非でしかない。
けど、それは春千夜だって同じじゃないか。
納得できなかったのだ。
どうして、何の関係も無い彼が死ぬんだろう。
偶々その日会ったのが私ってだけ。ただの偶然。好奇心に任せてたった一度犯しただけの過ちで命を奪われなければいけなかったこの男のことを思うと、全身が押しつぶされてしまいそうだった。
「…ひ、ひとりにならないならっ…だれでもよかった…!そのひとがたまたまいっしょにいただけでっ、なんで…っ、わたし、、わたしにすればよかったのに…っ!!」
怖気の混じった甲高い声で私はつっかえながら何度も何度も首を振った。
じっとりと私を見つめる春千夜の目に弱い目をした女の顔が反射する。庇うような言葉が彼の癇に障るのか、春千夜は瞼をぴくり、と何度か痙攣させたかと思うと、ふっ、と息を吐いて淡々と言葉を紡いだ。
「当たり前だろ。頭に蛆でも湧いたかテメェ。誰がどーとかカンケーねぇんだよ。許すワケねぇだろ。畜生風情が人のオンナに手ェ出しといてコッチがタダで済ますわけねぇよなァ。……ウケるぜマジで。適当に拉致って膝ぶち抜いたらピイピイ小鳥みてぇに囀りやがる。好~い顔してたな。オマエの好きそうなツラ。全部潰してやったよ。婚約者様も居たんだろ?善人面してヤることやってンだなああいうヤツらもよぉ。オレらとそんなに変わんねぇってかぁ?…ん、ふっ、はははっ。オマエも大人しそぉなツラしてやるよな、この最低女。」
矢継ぎ早に言葉を紡いだ春千夜は一息に話し終えると、ぐりん、と目玉を上向きに宙を睨むと、゛あ~~~、と脱力しきったような声を上げて、おもむろに得物を握った左手を持ち上げた。
「゛あ゛あッ、クソがッ!!テメェがくだんねぇこと思い出させるからま~たむかっ腹が立ってきたじゃねぇかよ……ッ、クソッ、クソッ!!!」
「ッ…ひ、……なっ!!」
独り言のようにブツブツを小さく呟いた春千夜は唐突に俯くと持ち上げた左手の得物を思い切り、自分の頭にたたきつけて殴り始めた。ゴッ、ゴッ、と骨と鉄がぶつかる鈍い音が震えあがった私の脳に木霊して、ぞわぞわと悪寒が背骨を通り抜け身体が竦み上がる。何かにとりつかれたように一心不乱に何度も何度もこめかみに得物の底をぶつけ続ける春千夜の姿を私は何もすることが出来ずにただ傍観していた。皮膚が破けて、だらだらと赤黒い血液がこめかみを滴り落ち、みるみるうちに顎を伝って彼の白いシャツの襟元を赤く染め上げていく。
「な、なにしてんの…?!」
「……頭ン中に虫が這ってんだよ。血管中にうじゃうじゃってなァ。人の脳みそン中で好き勝手しやがってゴミクズ共が。五月蠅くて寝れねぇんだよ畜生。なァ、テメェのせいだよ全部。」
「やだ、ちょっと、、やめて…っ、春千夜!!」
突然私のことなど見もせずに、譫言を繰り返し壊れた玩具のように一定間隔で小気味よく頭を打ち付ける姿を見るに堪えかねた私は悲鳴のように声を荒らげて両手で彼の左手首を掴んで無理やり頭から引き剥がした。骨の浮いた手首を掴んで引くと生気の抜けた声とは裏腹に強い腕の力に引っ張られ、上半身は前傾姿勢に傾く。ずるり、と滑って倒れ込みそうになり、ブレた私の視界に映ったのは青白く荒れた彼の腕の内側に残る無数の青紫色の痣だった。何度も踏みつけられたように変色して色素の沈着がところどころに垣間見えるそこは真新しい傷が一つ残っている。まるで、注射針で刺したような、それが何か理解すると、息を呑むような衝撃に身体が包まれた。
確かに、妙に機嫌が良い時もあった。それでいて、ひどく消極的で声をかけても返事もしない時もあって。変だ、変だとは思ってたんだ。蒸し暑い夏の日でも春千夜はいつも長袖を着ていて、思い返せば私は明るい照明の下で彼の素肌を見たことが殆ど無かった。だから気付けなかった?
違う。春千夜のこの傷のことも、彼のシゴトのことも、私は見ないふりをしていただけだ。知ってしまうと、都合が悪いから。春千夜と、一緒に居られなくなることが分かってたから。
私は本当に春千夜のことが好きだったんだろうか。
見ないふりをすることが本当に彼を好きな人間がする行為だったんだろうか。
糸が切れたように、こめかみから血液を滴らせた春千夜は俯き何も言わなくなった。耳の先にかかった毛先が赤い雫を吸い上げて、絡まる様に束を作っている。目から零れた涙は止まらないままで、怯えも恐怖も悲しさも全部が混ざってしまった頭の中はぐちゃぐちゃでもう何も考えられやしなかった。
私は私が傷ついた分だけ春千夜を傷つけたかった。
あの日から抱え続けた悪意は思った通り最悪の形で彼を傷つけたのだ。
「ごめんね、春千夜。」
小刻みに揺れる指先で頬に触れると、目を伏せた彼の目頭から透明な雫がポロポロと零れて長い睫毛を濡らした。赤みの残る顔は目の下だけが黒ずんでいて、小さく開いた唇は先ほど強く噛んだのか、鮮やかな血が滲みだしている。
「……初めから知ってただろ。許さないって分かってただろ。オマエのせいだよ全部。ぶっ殺してやろうと思ったのに。可愛いナマエチャンをオレが殺せるわけがねぇもんなァ。オレを苦しめられて満足か?見ないフリしときゃそれで済ましたのに。全部無かったことにしてやり過ごそうとしたのはテメェだろうが。詰めが甘ぇンだよ。……そうだ。全部無かったことにしなきゃいけねぇだろ。痕跡残しといたら意味がねぇんだよ。ソイツ消したら全部元通りになンだろ。なァ、なァ、そっくりそのまま元に戻せよ。」
消えそうなほどの声が静かに辺りに響いて、私の頭に入り込む。
無かったことにしようとしたのは、わたしだけじゃなかったのだと、彼の言葉で私は気付いた。
もう取り返しのつかない出来事と過ぎた時間の重さがずっしりと背中に伸し掛かり、私はなにも言うことが出来かった。
遅かれ早かれこうなることなど予想はついていたのに、私は分かっていながらそれを無視して誤った選択をしたのだ。結局それが、自分だけでなく春千夜までも傷つけることになることだけは想像が及ばなかった。
「なァ、ナマエ。オレのこと好きかよ?」
静寂の中で、春千夜はポツン、とそう呟いた。
それで、どんな答えを返せばきみは満足するの。
私はもう本当にきみが好きなのか、ただこの場所から離れてしまうのが怖いだけなのかわからなくなってしまった。
自分の命すら危ういこの状況でそんな質問をされたところで、私の出せる答えなどそう多くはないのだろう。
そうして、何を言ったところで、きみはもう私の言葉など信じることはできな。
私が命惜しさに発する言葉に一体何の意味があるんだろう。
それでも私は口を開くと答えを返した。
「好きだよ。」
唇が吐息と一緒にそう口にした瞬間、春千夜はぐらりと下から睨め付ける様に私を見つめると、ひどく愉快そうに目を細める。
「嘘吐け裏切り者が。」
「!!??~~~~ッ!!!」
歪んだ笑みが視界に入った瞬間間髪入れずに素早く右手が伸びてきて、私の顎を強く掴むと、半開きの口に、ずぶりと堅い何かが押し込まれる。硬い突起が口蓋を擦ると、ずるり、と粘膜が向けて、びりびりと口内が痛んで、声にならない声が喉を塞いで、私は大きく背後に仰け反った。両手を突っ張る様にして手のひらを床に付けると、腰を上げた春千夜が膝立ちのまま仰け反る私の上に覆いかぶさる。
自分の置かれた上器用狩り理解できず私は、あうあう、とうめき声を上げながら目玉を転がし、自分の口元を見下ろした。
「ッ、…ガッ、゛あぇ、っ。ふ、う、、!!」