猫かぶってる灰谷蘭の話
灰谷竜胆は、走れメロスが嫌いである。
皆の者は走れメロスをご存じだろうか?知らない人などさしてはいないだろう。林道自身、物語の細部までは覚えていないが、おおよそのストーリーは覚えている。小学生の時分、国語の教科書に載っていたのである。なんてことない暇つぶしから教科書のページをパラパラ捲り、物語を読みふけるという平々凡々な男子小学生のような時代が彼にもあったのだ。
ところで話は戻るが、「メロスは激怒した」から始まるこの物語の何が嫌いなのかというと、そもそも物語の主人公であるメロスが灰谷竜胆からすると大変苦手な部類の人間だった。
メロスという男は非常に単純で妹の結婚式の準備のために出かけた街で聞いた、王が民を虐殺するという言葉に憤慨し、わざわざ王の許まで向かい、案の定警備の者に捕まり殺されそうになる。
竜胆はこの物語を読んだとき、実に馬鹿みたいな話だと思った。
政治とは何ら無縁の羊飼い、それも近日中に妹の結婚式を控えておきながら、自らを顧みずに相手に向かっていくことがまず大人として思慮に欠けているのではないか。そしてあろうことか本人の了承もなく親友を人質にした挙句、自分の犯した愚行の報いで自分に課したタイムリミットに苛まれ息も絶え絶えになりながら走るのである。これを自滅と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。そもそも、家族のいる身でありながら権力者に逆らうなんて、自分はともかく親族にまでも類が及ぶとは考えられないのだろうか?例えば自分が殺された後、連帯責任として結婚を控えた大事な妹が殺されたら?身近な家族とその他大勢のちっとも自分に関係ない人間の命であれば竜胆自身は迷わず家族を選ぶだろう。
最終的に首尾よく戻ったメロスは王に感心され、親友ともども許されるが所詮それは結果論に過ぎない。大体にして、この王が改心して大団円という終わり方もどうかと思う。大勢の人を勝手に思い込みで殺しておいて、改心したら許された感じになるのもなんか厭なのである。
メロスの友人であるセリヌンなんちゃらはもう少し自分を大事にすべきだ。一発と言わず、五発殴ったところで決して咎められやしないだろう。
というのは実は長い前置きだ。ほんとうのところ、当時の灰谷竜胆がそうした現実生活に全く無関係の架空の話に憤りを覚えたのには理由がある。
この単純かつ正直で、何の力もないくせに正義感だけは馬鹿強い大馬鹿野郎によく似た人間が身の回りに一人存在しているのだ。
ミョウジナマエと言う。
小学三年生からの知り合い。一つ年上、兄と同じクラスの女子だった。
このミョウジナマエという女は非常に面倒くさい性質を持っている。不正を嫌い、弱い者いじめを嫌い、弱者救済を常として善行を積むことを何より重んじている典型的な性善説論者。間違っていると思うことに対してみて見ぬふりをしないばかりか反射のように突っ込んでくる。そうした女だ。
馬鹿正直の馬鹿の部分が非常に強い。正直子供の頃はかなり鬱陶しいと思っていた。うざいのだ。非常にうざい。
そういうわけで、走れメロスを読んでいると逐一、この馬鹿女の顔が頭をよぎるので灰谷竜胆はこの話が嫌いだ。
そうして、なぜ今こんな話をしているのかというと、この走れメロスの女ことミョウジナマエは今もまだ、というか今も昔も灰谷竜胆の目下頭痛の種であるということが、彼とナマエとそして灰谷竜胆の話をするうえで大変重要な事柄なのである。
朝、珍しく兄が洗面台に立っている。
寝起きの悪い兄。睡眠時間が一日六時間を切ると人を殺しかねないこの兄が、平日朝の六時に起きて制服を着ている。シャワーに入り、飯を食い、いつも通りの時間に起きてきた自分にコーヒー飲むかと聞いてくる。異常事態である。
朝の眠気を覚ますため、目覚めてすぐにシャワーを浴びた灰谷竜胆が水の滴る髪を拭きながら浴室を出ると、洗面台の前には軽く背中を丸めて鏡を覗き込む灰谷蘭の姿があった。備え付けのコンセントにヘアアイロンのコードを差して温めている。いつもより早起きのせいか、目の下は微かに青みがかり、非常に目つきがどんよりとしているが、不思議と機嫌は良いらしく鼻歌なんか歌ってる。気味が悪いと林道は思った。ひくり、と左の頬が引き攣って、不自然に唇の端が上がり苦笑いが漏れる。
「オマエさ、何時に出れる?」
「は…?」
「何時?」
「いや…あと髪乾かしたら行けるけど。」
「あっそぉ。りょーかい。」
「あのさ、兄貴。」
「なンだよ。」
「今日もアイツ来ンの?」
「来るんじゃねぇの?」
「……。」
もくもくと湯気が充満した室内は湿気っぽく、暑さで背中から汗がにじみだすのを感じながら灰谷竜胆は身体を拭くと手早く服を着替えた。蘭はというと長く伸ばしたストレートヘアーの毛先が微妙に左右にうねっているのが気になるらしく、ヘアアイロンで念入りに毛先を整えている。黒に金の差し色が入った髪の毛は室内照明の光を受けて麗らかな輝きを発していた。対照的に自分の毛先は最近少し枝毛が目立ってきたように竜胆は思う。人差し指と親指で頬にかかった髪を抓むと、白に近い金髪はやはりパサパサしているように感じた。
時間にルーズな兄が朝から時間を気にしている時は、大体学校に行く日の朝。学校に行く日は当たり前のようにアイツが家の前で待っている。というか、以前アイツが『学校行こうよ。」と言ってきたとき、蘭が「ナマエチャンが毎日迎えにきてくれるンならなァ。」とか余計なことを言ってきたせいだ。そのせいで、あの女学校行く日は毎日迎えに来やがる。
『迎えに行くから毎週水曜だけは来てね、絶対だよ。』とアイツは言った。それを今の今まで律儀に守り続けている蘭も蘭で大概だ。おかげで自分までクソ退屈な授業を朝から夕まで受けねばならず踏んだり蹴ったりなのである。
しかし、アイツが家の前で待っている日の蘭は機嫌が良い。どんなに睡眠時間が少なくても、朝からうるさくても機嫌を損ねることが無い。アイツが教室で隣の席になった(らしい)最近では、あまり騒ぎを起こすことも無い(らしい)。お行儀よく座っているのか、あの兄が。ちっとも想像できないけれど、同学年の知り合い談ではこれは校内でもかなり噂になっている灰谷蘭の七不思議だ。アイツは陰で自分が「猛獣使い」なんぞと呼ばれていることを知っているのだろうか?いや、知らないだろう。噂話にはとんと縁がない人種だ。
先刻の話通り、竜胆は髪の毛をセットして軽く身支度を整えるとソファに座って携帯画面を眺める蘭を伴い自宅を出た。エレベーターに乗っている最中も、マンションのエントランスを出る最中も、蘭は空っぽもスクールバックを肩にかけながら携帯画面ばかり眺めている。前を見るのは竜胆の仕事だ。竜胆自身、別にこのことを不満に思っているわけじゃない。兄弟なんて日がな一日傍にいるから、話題なんてとっくの昔に尽きている。自分だってこういう時はウォークマンにイヤホンジャックをぶっ刺し曲を聴いている。
竜胆は歩く道すがらイヤホンコードを引っ張り右耳に装着すると、適当に音楽を聴きながら駐車場を突っ切った。通勤や登校時間に差し掛かった往来は賑やかで、人の足音や話し声、せわしない車の走行音があちらこちらから響いてくる。夜に活動することの多い身としては早朝の白い日差しがまぶしく、世界の明るさに目を開けているのも億劫に思えてきた。それは兄も同じらしく、斜め後ろを振り返ると涼し気な横顔が少し曇っているように見えた。
とりあえずここまで
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いきぬき
初公開日: 2023年09月04日
最終更新日: 2023年09月04日
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