やる気が尽きるまでなんとなくやります。
チャット見てないです、すみません。
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 それじゃあまた明日、と告げる。おやすみなさい、と返される柔らかな声。年月が染み込んで容赦なく軋む階段を、猫よりも静かに上っていく微かな足音。
 それより先は知らない。知ろうともしなかった。
 玄関の引き戸を騒々しく開ける。本当は静かにそっと開けたいのだが、あちこち割れたり欠けたりしているオンボロの戸は、力をこめて一息に引っ張らなければ言うことをきいてくれない。春雷のような音を引っさげて帰宅するのが、ここの下宿生の挨拶のようなものだった。
 隙間風の吹き込む玄関はしんと冷たい。以前ならば返ってきた「おかえりなさい」の声がないのが、この冬の寒さをより深刻なものにしているように思えた。靴を脱ぎ、下駄箱にしまう。各々に届いた手紙は振り分けられもせず受け箱に溜まり放題になっていて、見かねて束を手に取った。
 手紙を仕分けながら思う。これまで何不自由なく生活ができて、存分に学問に打ち込めて、遅くに帰ってきても温かな食事があって、夜更けには家族からの便りにふと郷愁を覚えたり返事を書いたりできたのは、彼が身の回りのことを全て引き受けてくれていたからに他ならない。言われなければ気がつかないような細やかな気遣いを隅々にまで張り巡らせて、心地の良い暮らしを守っていてくれたのだと今ならわかる。あまりに遅い気づきに、ただ後悔と無力感だけが募った。
 仕分けた手紙は食堂のテーブルに置いておいた。朝にはそれぞれが自分のものを回収するだろう。
 食事が用意されないのはわかっているから、最近は皆外で済ませるか、慣れないながらも台所に立って用意するかしていた。はじめのうちはとりあえず胃に収められればなんでもいいといった有様だった自炊の技量も、繰り返すうちに少しずつ勘所が掴めてきて、最近は時間に余裕があれば隣人の分の味噌汁も作れるくらいにはなってきている。それでも彼の作る食事の美味しさと手際の良さには到底敵わない。自分とそう歳の変わらぬ身で、疲れた顔ひとつ見せず、何人もの学生の生活の面倒を見てきた彼には一生かかっても追いつけそうになかった。
 鍋に多めの水を張って米を炊き、少しだけ残っていたほうれん草の切れ端も放り込んで、塩で味を整える。帰り際に買ってきた卵を仕上げに溶き入れて、あっさりとした粥を作った。栄養面を考えるなら肉も入れた方がいいが、彼の今の容体では恐らく口にできそうにない。少しでも滋養のあるものをと口うるさく言っていた医者も、最近は食べられそうなときになんでもいいから摂らせろと諦め半分呟くだけになった。
 肺病はその身をひどく消耗させるという。布団からほとんど起き上がることもないのに日に日に痩せ衰えていくのはきっとそのせいなのだろう。騙し騙しやってきたが、ある日大量に血を喀いて倒れてから一気に病勢が進んでしまった。医者の前では気丈に振舞っているが、内心はもう快復を諦めてしまっていることを知っていた。
 最後はひとりで死にます、と譫言のうちに吐き出したのを偶然聞いてしまったのは最大の間違いだった。あれを耳にしてしまってから、何かが決定的に変わってしまったのだ。
 入りますよと声をかけてから、彼の部屋に足を踏み入れる。返事がないのは常のことだった。
 微熱に滲んだ目がこちらを見遣る。乾いた唇が少し動いたので、頷きをひとつ返した。割れた唇が紡ぐ「おかえりなさい」は最早音にならなかったが、彼がそう言っているのだということは表情から見てとれた。
 彼の視線は手元の粥へと向かう。ゆっくりと瞼を閉ざし、また開いたのを見て、やはりか、と思う。食べられない、と彼は言っているのだった。申し訳なさそうな色を浮かべて、彼は微かに首を振った。
 ッ、とその表情が苦痛に歪む。枯れ枝のような指が胸元をおさえる。咳とも呼べぬような呼吸を零して彼は喘いだ。咳よりも、呼吸の苦しさよりも胸の痛みが堪えるらしい。
 ぁ、アと喉に引っかかるような声が落ちる。硝子を擦り合わせる呼吸の合間に、ゴロゴロと水っぽい音が混ざる。見かねて背を擦ると、彼は苦痛に身体を強張らせた。爪が薄い胸に食い込む。傷をつけるほどの力も込められず、三日月型の赤い痕をいくつか残すだけだ。
 逃れることのできない苦痛に、薄い頬を一筋の涙が伝う。噛みしめすぎてひび割れた唇に血が滲む。痛い、苦しいと叫ぶこともなく、ただその身に苦しさを押し込めてしまう彼に今更してやれることなどなにもない。いや元々何もできなかったのだ。はじめから変わりなかった無力をはっきりと痛感するようになっただけだった。
 肺病とは咳き込み、やがて激しく血を喀くものだと思っていた。到底隠しおおせるものではないと思っていた。しかし彼は苦痛のほとんどを外に見せなかった。零さなければいずれ過ぎ去ると信じるかのように、ひたすらにその身に閉じ込めて耐えていた。それゆえここまで悪化させるまで誰にも気づかせなかったのだ。
 皮のすぐ下に骨の迫った背が戦慄く。再び襲った痛みの波に、彼はきつく目を閉じた。ひゅ、とか細く喉が鳴る。とうに咳き込む体力を失った身体に容赦なくせり上がる病の衝動に、彼は為す術もなく流された。
 ただ呼吸をするだけで涙を流すような痛みとは一体どれほどのものなのか、想像もできない。目の前で凄絶に苦しむ様を見てもなお、現実感のなさに狼狽えるばかりの情けない有様だった。痛いと、苦しいとせめて口にしてくれたなら、理解力の乏しい自分でも少しは寄り添えたかもしれない。しかし彼はそれさえも望まないとばかりに、何ひとつ許そうとはしなかった。
 病のせいで人が変わったようになるならまだ救われる。本当に救いがないのは、病んでもなお変わらずに笑い続けることだと、彼を見ていてはっきりわかった。
 爪が白く濁る。はく、と震えた唇からはやはり何も溢れない。苦痛が痩せた胸を埋め尽くして、全身から力が抜けた。一瞬気を失ったのだ。
 堪らず彼の名を呼ぶ。呼ぶことでどうにかこの世に繋ぎとめようと、虚しい抵抗を今日も口にする。痛みと苦しみばかりのこちらに引き戻すことの残酷さも忘れて、ただ闇雲にその名前を舌先に転がす。
 彼は薄っすらと目を開いた。ぼんやりと焦点の合わない瞳はどこか仄笑っているようにも見えた。
 嬲られてもなお壊れない瞳の奥にぞっとするような何かを垣間見た気がして、知らずのうちに視線を逸らしていた。
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おわり!ありがとうございました。
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向き
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いい痛苦の日
初公開日: 2021年11月30日
最終更新日: 2021年11月30日
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コメント
明け方の書いて出し。
20210914
なんとなく配信。唐突に始まり唐突に終わる。あきによばれたひとのはなし
碧海
20201222
こっそり書く…眠くなったらor筆が進まなくなったら途中でもやめます。
碧海
淺さんのネタ
♡喘ぎとかあれこれしてます
あぼだ