血と肉 2
三途春千夜
ゴツ、ゴツ、と鈍く重たい音が聞こえる。規則的に鳴り響くその音はテレビ画面から室内へ流れ込むバラエティ番組の笑い声の合間に私の鼓膜を揺らしていた。
カウンター越しに見える人影は、シンクの上に敷かれたまな板の上に至極機械的な動作で鈍色の鉄の塊を何度も叩き落していた。伏せた目はまっすぐに、木製の大きな板の上に置かれた肉塊を透明な眼差しで見下ろしている。
明るい光を受けた向こう側の光景を私は観客席から紅い袖幕に囲まれた舞台を眺めるように見つめていた。ぷっくりとしたふとましい血管と骨の浮いた青白い腕が、何度も振り下ろされる。
薄く乾いた唇は引き結ばれたままピクリとも動かず、目元まで下がった桃色の髪の毛は光の下にいるせいか毛先とその輪郭だけが白っぽく幻のように見えた。
ただそれだけのありふれた光景なのに、ガツン、ガツン、と硬いもの同士がぶつかる衝撃音が聞こえるほどに、胃腸がキリキリと締め上げられるような気分になって、相変わらず背中には冷たい汗が滲んでいる。それなのに、目が離せなかった。
◇
あの後、額に脂汗をかき、血の気の引いた表情で黙りこむ私を見兼ねた春千夜はため息を吐くとミートハンマーを一度シンクの上に置いて、左手の甲をフェイスラインに沿うように私の首に当てた。相変わらずひんやりとしている。
『オマエ、最近どっか可笑しいンじゃねぇの?』
『……年中可笑しな春千夜クンには言われたくないですけどね。』
『ンだとコラ。もっかい言ってみろやこのクソ女。』
お茶を濁すように春千夜の問いかけをはぐらかすと、ひくり、と目元を痙攣させた彼の大きな手のひらが私の頭の上に伸び、強く圧力をかける。ぐりぐり、と押し潰すように上から押さえつけられると、私はその重みにギャッと悲鳴を上げながら背中を丸めた。頭を掴んだ指がめりめりと頭皮に食い込むみたいに圧迫感を感じて少しばかり痛い。
『い、いた、っ!!いたい、っ』
頭に乗せられた手を私は慌てて引き剥がそうと両手で掴んだ。それから、上目遣いに春千夜を見上げて『ごめんって、』と呟くと詰まらなそうな顔をした彼はフン、と鼻を鳴らすと私の頭から手を退かせた。
『一々一言多いンだよテメェは。』
『…ほんとに平気だから。』
『……人のツラ見てバケモノでも出たような声上げやがって。』
『ちょっと、びっくりしちゃっただけ。』
変に緊張してしまったせいか、それとも思い切り握りつぶさんばかりの勢いで掴まれたからなのか、ずきずきと締め付けられるような頭痛が残る。
春千夜とこんな風に軽口の応酬をするのもとても久しぶりのことで、この雰囲気を壊したくないし、それに彼の機嫌を損ねたくなった私は『大丈夫』と言って話を切り上げた。
そうすると春千夜はゆっくりとシンクの前へ歩み寄ったので、私もキッチンのシンクへと再び視線を移した。
広々とした台の上にはいくつかの調理器具とスーパーで購入できるビニール袋がそのまま置かれている。玉ねぎと人参、ニンニクなんかの香味野菜が放られている銀色の台を端から順番に見ていくとまな板の上に置かれた肉の塊が目に入った。
厚さ五センチほどの長方形の塊。黒ずんではいないけれど鮮やかとは言い難いくすんだ赤色の肉は白い筋がいくつも張り巡らされている。
それよりも、私の目を引いたのは、まな板の端に固められた黄色い脂肪の塊だった。ギザギザに切り刻まれて不ぞろいの形に削ぎ落されたそれは照明の光で、てらり、と油分を光らせている。よく見れば先ほどの春千夜の言葉通り、少し叩かれた痕跡の在る肉の表面は凸凹でほんの少し残った脂肪の塊が赤身にこびりついていた。
春千夜は先ほど、置き去ったミートハンマーを右手に握ると、軽くヘッド部分を持ち上げて、その、肉の塊へ振り落とした。
ゴツン
『っ!』
緩やかな仕草のわりに、ヘッドが肉の表面を叩いた時に響いた音は私の肩を震わせるほどには大きい。春千夜は私の方がビクッ、と跳ねるのも気にせず、何度も先端を塊にたたきつけた。
まな板に沁み込み広がる茶ばんだドリップと厚みのある肉の塊が衝撃を加えられるたびにひしゃげて震える。ぬらぬらとした脂肪。赤と白と黄色。鳩尾をぐう、と押し込まれたように息が詰まって、一瞬嘔気が喉からせり上がる。
『なに、っ作るの?』
『ミートソース。』
『あの、ミンチにすんのになんで叩いてんの。』
『この手のは…、筋が、多いから、こぉやって、潰さねぇと、なァ。』
規則的に聞こえる打撃の音の合間に春千夜は台本でも読み上げるみたいに答える。
それほ鮮度も悪くなさそうなのに、僅かに鼻先を掠めた匂いは動物性の脂を含んだ何とも言えない生臭く獣臭い臭気だ。
春千夜は肉の塊から私の視線の先へ目線を移すと、左手をそこへ伸ばした。私に背を向けた春千夜は手のひらで10センチほどの高さまで積まれた小さな脂肪の山を握りつぶすように握り持ち上げる。頭からすう、と血液が下がっていくのを感じた。
ぐちゅ、にちゅ。
耳をねっとり舐られるような粘着質で気色の悪い音が耳に入り込む。
細く枝切れのような荒れた指の隙間から捻りだされた脂肪がプラプラと彼の手からぶら下がり、肌を汚していた。春千夜は自分の手が脂まみれになるのも全く気にしていないようで、ひどく事務的な表情で親指と指の付け根を擦り合わせるようにぐちゃぐちゃとそれを強く握り感触を確かめた。
『……っ、…うぇ。』
私はその光景に思わず口元を抑えて、苦悶の表情で彼に聞こえなようにえづいた。それから春千夜は数秒ほどその手を見下ろすと洗い場に広げらたビニール袋の中に放った。
『汚ぇな。』
ぷらぷらと手のひらを振る彼の手には溶けた脂の塊が微量に付着して、手のひらの表面にぬらぬらとした光沢を与えていた。彼の小さな舌打ちの音が聞こえる。私はその光景が妙に目に焼き付いて離れずに、強まる頭痛と共にひどい眩暈が視界を歪ませた。残された赤い塊に言いようのない嫌悪感と不快感が湧き出て、私はそれを誤魔化すように春千夜に声をかけたのだ。
『は、るちよ。なんか、手伝う?』
『………そんな死にそうなツラして何言ってンだテメェ。座っとけ。』
『で、でも、その…大変でしょ?…ミンチにするの。』
何かをすればこんな気持ちも紛れるかもしれない。
こんなに一方的に奉仕されるから私はこんなにも、何とも言えない不安に駆られるのかもしれない。
春千夜のこの行為に、私自身が加われば、そしたら、この息苦しさは無くなるのだろうか。
『……手ェ汚れンだろ。』
けれど、私のその苦し紛れの言葉にも春千夜は、静かに、それでいて厳格に言葉を返して拒絶した。
『座れ。』
横目で私を見遣る目は虚ろであるのに鋭く、有無を言わせないもので、私は結局引き下がるしかなかったのだ。
◇
胸焼けがする。肺や胃の裏側が焼け付き溶けるような感覚で、ただ待つだけの時間がひどく長く感じられるのだ。
じゅうじゅう、と油の跳ねる音が目線を下げた私の耳に入り込む。ニンニクと玉ねぎを炒める馨しい匂いがこちらの方まで漂ってくる。昼から何も食べていないし、帰宅してからそれなりの時間が経っている。空腹のはずだ。腹痛すら催している。それなのに、空気で膨らませたみたいに胸もお腹もいっぱいで何も口に入れたくない。
口の中も喉もカラカラに乾いている。僅かに残った唾液を嚥下するたび、舌の表面が口蓋にペタリと貼り付いてしまう。
トントン、と叩いた肉を刻む音、炒めた野菜と肉を合わせてトマトピューレと一緒に煮込むときの酸っぱい匂い。そのどれもが、本来であれば垂涎ものであるはずなのに、今の私には苦痛への下準備に思えた。こんなこと、思ってはいけないと、自分を律そうとしても、一度裏返して気付いてしまった感情はもう、表を戻しても誤魔化すことなどできないのだ。
苦痛だ。課せられた責務のように、彼の提供する食事を残さず食べ続けることがこの上なく苦痛なのだ。
プラスチックの封を切った春千夜がふつふつと沸き立つ鍋の中に乾燥パスタを放っている。
私は自分の膝元に下ろした両手の拳をきつく握って、むずむずと疼く爪先を重ね合わせて、きゅ、と唇を噛み俯いた。黒く淀んだ塊が私の身体の真ん中でずっとずっと渦巻いている。
春千夜に謝りたかった。
楽になりたいと思った。
一言口にすれば、全部終りに出来るのにどうしてそれが出来ないんだろう。
どれくらいの間、私はそうしていたのだろう。指先が白むほどに強く握った拳をじっと眺め続けていると、視界の上部に白地の見慣れた食器が映り込む。ことん、と天板と陶器が重なる音で私は正面に顔を上げた。
「飯。」
「あ、うん。」
はあ、と軽く息を吐いた春千夜は肩にかかった髪の毛を背中の方へ払いのけると私の正面の席の椅子を引き、腰を掛けた。それから、テーブルの上に置かれたフォークを手に取る。
春千夜と私の目の前にはそれぞれ、ロイヤルブルーの縁取り