ホロネス
どれだけ長く眠っていたのか知らないが、繁華街のすぐ近くにしては、人通りはまばらで、東京では珍しく空から雪が降っていた。鼻先に、つん、と乗った白い粒が冷たい、と感じる前に私の体温で溶けて水になっていく。
暗い夜空を照らす街灯の明かりは白やオレンジ、緑色に滲んだ光を放ち、遠くに見える広けた通りは、まだ喧噪が入り混じったにぎやかさを醸し出している。湿ったコンクリートは、それでも薄っすら慰め程度に降り積もる雪のせいかよく滑る。
冬は寒いけど嫌いじゃない。だからそんなに機嫌は悪くない。そうは言っても、その嫌いじゃないってのは、私がただ単純に夏が嫌いってだけで、相対的にみるとこの季節が好ましく思えるというだけの話だ。
夏は嫌いだ。全身の毛穴からジワリと噴き出す生ぬるく脂ぎったような汗の粒に濡れた服が肌に貼り付く感覚は不快であるし、それよりなにより良い思い出が無い。頭に残ってる思い出なんてほとんど思い出せもしないのに、はっきりと、夏は良い思い出が無いと言い切れるのだ。
夏は、厭なことばかり思い出す。
無機質なコンクリートと硝子の壁に背を向けて座る、今はもうどこで何をしているのかも分からない人影を思い出すから。夏だというのに、冷めた目つきをしていた。口から吐き出される言葉も熱が無い。今にして思えば彼にとってはほんの些細なことだったのかもしれない。けれど、あの頃の私にとっては彼の些細なことはとても大きくて重たい出来事だった。そんな認識の齟齬がある時点で、私たちはきっと最初から分かり合うことなどできなかったのかもしれない。
ぶるぶると寒さで体が震えて奥歯がガチガチと鳴るけれど、異常な焦燥感で背中だけは熱く発汗を催していた。寒いのか、熱いのか。痛いのか、気持ちいのか。よくわからない。気持ちが良くて気持ちが悪い。視界は未だにうねったままで、目の前にある坂を上っているのか、下っているのか。地に足つかない浮遊感に薄幹悪さすら覚えながら私はただ無心で歩いた。
どれだけ歩いたんだろう。だらりと下ろした左手はもう既に感覚を失い始めていて、本当にこれ、進んでいるんだろうかという、不安を移り行く景色だけが解消していく。
丁度、視界の端に、漸く大きな駅の出入り口が見え始めた頃、私は唐突に、何かに突き動かされるようにベストのポケットに左手を突っ込んだ。
斑に残った記憶の中で、最後に私が口に含んだ錠剤が、まだポケットの中に隠されていることを思い出したのだ。馬鹿みたいに震える指先でポケットの中を縋るような気持ちで弄ると硬い感触が指先に当たり、それをつかみ取るとか時間だ指先で何度も取り落としそうになりながら蓋を開けようと藻掻いた。
滲んだ視界の中で、手のひらに乗るプラスチックのケースを開くと、一粒、ラムネみたいな形状の淡い青色の錠剤が転がってるのが見えた。
ああ、よかった。まだ残ってた。
街灯が明かるく灯る歩道の上で、私は安堵にため息を吐きながら脱力し、丁度すぐそばのビルの壁にもたれかかると、それを抓んで舌の上に乗せた。口の中がカラカラに乾いていたけど、もうそんなことはどうでも良かった。
ただ、喉の渇きや得体の知れない不安と焦燥感を一時でも紛らわすことが出来れば、何でも良かった。この先どうなってもいいと思った。最悪死んでしまったところで悲しむ人もいないし、喜ぶ人もいない。
誰も私に興味が無いのだ。昔、ある人に『人間なんてそんなに、他人に興味があるもんじゃない。』と言われたこと覚えてる。私が他人に関心が無いように、他人も私に関心が無い。居ても居なくても同じで、例えば私がまた、来週の同じ曜日に、あの席に座っていなかったとて、誰も困ることも無ければ気付きもしないのだろう。
舌の上で溶けかけたそれを、乾いた喉で無理やり呑み込むと、深く深く、何度も呼吸を繰り返す。そうしているうちに、すうっと頭の中が余計にぼんやりとして先ほどまでの憂鬱も倦怠感も嘘のように消え去った。
皮膚の裏側で膨張し続けていた不安が、穴を開けて萎んでいく風船のように鳴りを潜めて、不思議と気分が良くなると鼻歌でも歌いたい気分になってくる。
もったりと重たい息を吐きながらのろのろと千鳥足で歩く最中は本当に空でも飛んでるような感覚で、手のひらに触れた空気を握って、触って感触を確かめられるような気すらした。
歪んで溶けだしそうな視界の異常は元には戻らなかったけど、大分調子が良くなった私はだらしなく緩んだ頬をそのままにして、歩みを再開することにした。その時だった。
「んんっ!???わっ、痛ッ!!!」
気分が良くなって油断したのがいけなかったのだろうか。右足を踏み出した瞬間、足の裏がずるん、と路面で滑り、バランスを崩した身体が大きく前のめりに倒れていく。慌てて両手を突き出したのは良いものの、勢いよく転げた身体は、べちゃり、と地面の上に倒れ込み、手のひらには鋭い痛みが走った。
いい歳こいて、道端で盛大にスッ転んでしまったわけである。
カシャン、ばらばら、と固いものがそこらに散らばる音がして、手のひらの痛みをこらえるように、一瞬閉じた瞼を開けると、これまた盛大に地面に散らばり零れバッグの中身が目に入る。
割れて金具の外れた折り畳み式の手鏡。スマートフォンに、使い古した手帳。ポケットティッシュと入れっぱなしのハンカチ。
見ただけでうんざりとした。なんだかもう、何もかもが厭になって、立ち上がることも億劫で、しばらくの間それを目にしたまま、また再び眠りについてしまおうかなんて考えが頭をよぎる。
帰らなきゃ、なんて思ったって帰る場所ももう忘れていた。
待ってる人がもういないことだけは知っている。
仕事は行かなきゃ、っていう義務感だけはまだ辛うじて持っていた。
でも、それだけだ。
『××ちゃん』
そうやって、泣いたあの子なら、きっとこんな時でも大声上げて泣くんだろうな。
でも、私にはそんな力も残されていない。
あるのはごろごろと音を立てる小石が喉で蠢くような痛みだけで、声も出ない。
とても虚しい気持ちになるのに、私はノイズだらけのその子の名前も顔も未だに思い出せなかった。
擦りむいた手のひらも、地面にぶつけた膝も痛かった。
全部失くしてしまった私が最後に持っていたのはそういう、どうにもできない痛みと苦しみだけだ。
それから、逃げ出すために手にとった手段も今となっては役に立たず、煩わしい自業自得な症状に悩まされている。
「ああ、もう。」
悪態を吐いて、転がるスマートフォンに伸ばした手は、結局それを掴む前に空中で静止した。
もう何もしたくない。全部が全部面倒なのに、どうして私はまた、右手を伸ばして、一生懸命躍起になって零したものを拾い集めようとしているのだろう。私が居なくても世界は回るのに、私はまだ、見えない何かの流れに従うように歯車を回そうとしているのだ。私が居なくても回る世界の中で。酷く惨めで滑稽で、それでいて、誰にも必要とされないこの様は、とても気楽に思えた。
その感覚はやんわりと薄い毛布で体を包むような淡く優しい絶望に似ている。
何も無い代わりに何も背負わなくていい。今の私にはなにも怖いものがない。
いつからか、何かを怖いと思う気持ちすら見失ったのだ。
「ん、ふふ、……あは。」
思考に反してすこぶる好調な私の口からは得体の知れない笑みが湧き出る。ふ、とぺたりと座り込み折り曲げた膝の近くに放られた鞄の中からは手のひらサイズの大きなテントウ虫がカタカタと短い足を動かして、逃げ去ろうとする。半円状の真っ赤な背中に黒い斑点、左右に一本ずつに生えた触角を動かして、この寒いのにどこに行こうというのだろう。小さい頃はよく両手に閉じ込めて、指のさきの乗せながら彼らが飛び立つのをじっと眺めて待っていた。光に照らされたまあるい甲羅はルビーの宝石みたいに美しくて、太陽にかざして眺めるのがとても、好きだったのだ。
白い雪の中に沈んだスマートフォンと手鏡を踏み越えて、前方へと素早く駆けていく虫螻蛄を私は瞳を輝かせながら捕まえようと、膝の上に下ろした手を伸ばそうとした。その時だった。
じゃり、とすぐ近く、ほんの一メートル先だった。泥に交じった雪の粒を踏みしめる不躾な音が一度、私の耳に入る。
じゃり、じゃり、じゃり、ぶちゅ。
「あ…………死んだ。」
死んじゃった。断続的に、等間隔のペースで鳴った足音は私の目の前で、ピタリ、と止まる。その瞬間、私が先ほどまで愛でて、キラキラした目で追っていた大きく赤いテントウムシは、理不尽に唐突に、その足音に踏みつぶされて息絶えた。
あーあ、カワイソウ。
なんだか、小さな宝物を見つけた気分だったのに、ひどくがっかりした気持ちになった。
私が呆然としながら、無残にも踏み殺されて煙のように消えてしまったその痕をぼんやりしながら眺めていると、目の前に揃えて並んだ両足から低く淑やかな声が響いたのだ。
「……よぉ、久しぶり。」
「…喋った。……口が無いのに。」
目の前に並んだ双子の靴は、大きく見るからに上等そうだ。オレンジ色の頼りない光の中でもその表面はテラリと光り、フロント部分に取り付けらた銀色の金具が目に痛い。その靴の根元から伸びる布地は暗がりの中だと良く見えないが、よくよく目を凝らすと淡いヴァイオレットカラーにストライプの模様が入っている。
声の主を、じっと凝視しながらそう呟くと、しゅるりと涼し気な衣擦れの音が響いて、視界の上部に青白い人の手が下りてくる。勿論何のことはなく、靴が目の前にあって、その上に足が伸びているということは目の前に人がいるということ。一応、分かっているつもりだ。普通靴は喋らない。
ソイツは私の目の前で膝を折り曲げしゃがみこむと、可笑しそうにクツクツと喉で嗤った。
「あんたのせいで私のテントウムシが死んだ。」
「おーおーソイツは失礼したなァ。……随分とゴキゲンじゃねぇの?」
「うん、そうだね。さっきまでね。」
「久しぶりに会ったってのに随分ご挨拶じゃねぇか。」
人をがっかりさせた挙句、悪びれもせず茶らけた声を上げるソイツに私の気分はどんどん害されていく。なんだコイツ。ていうか、久しぶりって言った?私はアンタのことなんか知らないけどね。
「あんた誰?」
ちろ、と顔を上げると私は突然現れたソイツのご尊顔を確かめるべく、ジイと目を凝らした。スリーピースのスーツに、左手に嵌めたごつい腕時計。白いシャツの上から伸びた首の真ん中には妙な模様の刺青が入っている。七対三で撫でつけられた淡い色味の髪の毛と滑らかで柔和に見える垂れ眉。その割に、吊り上がった目じりの切れ長の瞳と、薄く弧を描いた唇はどうにも嫌味っぽそうで、私は増々眉間の皺を深めた。
何処かで見たような気もするが、初対面のような気もする。
この、根無し草のような生活を続けたからというもの、斑に禿げた心は他人の顔を覚えるのを止めてしまったから、どこかで会っていようが今の私にはソイツがいつどこで会ったのか、どんな言葉を交わしたかなど記憶の中に微塵も残ってない。
「……どっかであったっけ?」
「…………。」
「悪いけど、最近人の顔覚えるの苦手なの。」
「ああ。」
「仕事……では会ったこと無いと思うけど。」
「そうだな。」
「あ~、もしかして、昔寝たことあるとかそんな感じ?」
「……いや。」
「ねえ、教えてくれなきゃわかんないんだけど。」
見てわかんないかな。普通分かるよね。こんな夜中に一人でこんなとこに座り込んで、手も膝も傷だらけでヘラヘラ笑ってる女がまともな脳味噌持ってるわけないじゃん。なにしに話しかけてきたのか知らないけどさ、素面の時に出直してよ。そしたら、もう少し、多分、何とかできるから。
他所行きの笑みを目一杯に作って微笑みかけても、男は何とも言えず黙り込んだまま私を見下ろしていたので、私はソイツの顔を見るために頭を上げているのも疲れて、視線を男の足元へ落とした。
「なぁ、お前さ。またいぢめられてンの?」
「……はあ?」
『また』ってなんだよ。私がいついぢめられたっての?ていうかなんでそんなことあんたが知ってんのよ。私のことなんて何にも知らない癖に。
そう、口にしようとした時、折り曲げた膝の上に肘を乗せていた男の右手が、ぬっ、とこちらに伸びてきて、私の頬を緩く包んだ。頬骨の上をなぞるように当てられた指先は少しかさついていて、冷えて感覚を失った私の手と同じくらい冷たい。
その時、私は男の人差し指が頬を上から下へなぞるその感覚で、頬に貼られたガーゼの下の痛みを一度思い出した。
「ああ、そっか、」
いぢめられたって、そーいうことね。と、一人で勝手に納得する。
「丁度……きのう、……いや、一昨日か。仕事帰りに、そう色々あってね。」
会社、本業の帰り、偶々、週末の、ついさっき私が出てきた会社の社員と出くわした。
「タダで新しく仕入れたやつくれるって言うんだけど。別に間に合ってるからさ。ことわったの。……けど、なんかすっごいしつこくて。」
その時は、まだなんとなくいつもより私の思考はマトモだったのだと思う。薄暗い路地に手首を掴んで押し込もうとするその男の誘いを断ろうとして、上手く断ることが出来なくて、押し問答になった。手首を掴んだ同僚のふとましい指の付け根を引き剥がそうと、左手で掴んだ拍子に爪が引っ掛かって、男の手の甲を買っちゃいてしまうと、激高したソイツの右の手が私の頬に『偶然』にも当たってしまったのだそうだ。
「痛かったなァ。……こんなことなら、大人しく一発やらせとけばよかった。」
出すもんだして、スッキリさせれば今頃こんな痛い思いしなくて済んだのに。変に抵抗するもんじゃないな。でも厭だったんだもん。なんか知らないけど、厭だった。
うんざりしながら事の顛末を語る最中、私はなんでこんなこと初対面の男に喋ってんだろう、って余計にがっかりした気持ちになって、『ま、興味ないよねこんなこと。』と呟いた。
相変わらず、黙った男の返事を促す気はなかった。自分で勝手に話しただけだし、別にソイツの何らかの励ましだとか感想を求めていたわけじゃない。
一度俯いて、視線を地面に散らばる雪に移すと、私は先ほど見たばかりのこの男の顔ももうどんなものだったか思い出せなくなっていたし、じんじんと痛いのか爪居たのかもわからず疼くだけの手のひらに付着した血液と泥の汚れを取るように、まっさらな雪の上に置いた。
「ばっちいから止めナ。」
「雪で洗ってんの。」
ようやく口を開いた男の重々しく息を呑むような声に返事をすると、ソイツは、ハア、と長ったらしくてわざとらしいため息を吐き出す。ぶらりと膝小僧を隠すように下がった右手が、腿の上に被さるジャケットの裾に伸び、広いポケットの中を弄ると、数秒後に節くれだった細く長い人差し指と中指に抓まれた白いハンカチが顔を出した。
「汚いよ。」
「手ぇ拭くためにあンだろうがよ。汚れてアタリマエ。」
するりと伸びた男の左手は私の手のひらを柔く包んで持ち上げる。擦り傷だらけの肌は彼の指の腹に触れた部分だけ熱く熱を持ち、じわじわと感覚を取り戻していく。非常に丁寧な仕草で手のひらを拭う、白く滑らかな端切れは汚れを吸い取ると見る見るうちに茶ばんで黒ずみ始めた。じんわりと侵食していくように汚されていく白い生地にほんの少しだけ申し訳なさと、居た堪れなさが湧いてくる。
歪んだ世界の中でどうしてか、この男の姿だけ色鮮やかにくっきりと浮いて見える。
ひとしきり汚れを拭い終わった手のひらはまだ血が滲んでいるけれど、べちゃっと転んだ時よりは見れるようになっていた。男は私の手のひらをまるで物のように裏返して、ひっくり返して、隅から隅まで眺めると、やがて納得したようにくちゃくちゃに丸めたハンカチをそこらにポイと捨てて見せる。端に金の刺繍の入った見るからに高そうなそれをいとも簡単にポイ捨てするなんて、コイツ、タダ者じゃない。なんて月並みな感想が頭に浮かんだ。
「ね、聞いていい?なにしに来たの。」
「まだ良いとも悪いとも言ってねぇんだけどなァ。」
「こんな時間に歩いてたら怖ぁい人さらいに連れてかれちゃうよ。」
「アハハ、それこっちの台詞だったろ。」
ほら、また。『だった』とかさ。昔っから私のこと知ってるみたいな口ぶりするくせに、先ほどから今に至るまで、この男はまったく名乗るどころか、私と出会った記憶すら語ろうとはしない。
『こんなことウロウロしてンなよ。コワ~イ人さらいに連れてかれちゃうぜ?』
古い記憶の中で、少し高くて柔らかく、揶揄うような声で私を脅したその子のことを、何の気に無しに思い出した。色素の薄い金髪を長く伸ばして編んでいる、ほっそりとした立ち姿。ずっと長い間見てきたはずなのに、思い出そうとするとその子の顔だけ靄がかかって、判然としない。ずっと近くに居たはずなのに、もう名前を口にしようとしても、ノイズがかかって音も綴りも形にできない。
厭だな。すごく厭だ。
思い出せないことが悲しくて、思い出さないごとに寂しくなっていく。頭をよぎるだけで天秤が傾くようにバランスを崩す心に曇って雨が降り出す前に、私はくだらない懐古を遮るように唇を開いた。なにか、別のことが効きたくなったのだ。
「いいから。教えてよ。」
「マ、忘れ物取りに来ただけ。」
「ふうん。……見つかったの?」
「さあな。」
「自分のモノなのにわかんないの?」
「俺のモンなの?」
「いや、私に聞かれても。……いつ失くしたの?」
「ずっと昔。」
「どこにあるかもわかんないのに探しに来たんだ?大変だね。」
「そーいうこと。」
「変なの。まあいいや。」
俯いたまま、男の足元を見つめるばかりの私はやはり、この期に及んでも立ち上がって歩みを再開する気にはなれなかった。よくよく思い返してみれば、もう終電の時間はとっくの昔に過ぎているはずだし、棒のように硬直した足は、私が思うよりも早く、歩き出すことを諦めているようだ。
「いつまでそうしてる?」
「あんたに関係ないじゃん。放っといて。」
「あ~~、そーいうこと言っちゃう?傷ついた。」
いや、知らねーよ。勝手に傷ついとけよ。面倒くさいなぁ、もう。
くだらない言葉遊びのような会話の応酬に私はとうとう飽きてしまった。こんなわけの分からない男に絡まれたせいで折角うっとりと手放し始めた意識は水に浮かんだ木の葉のように、うっすら揺れたり沈んだりを繰り返している。ひょい、と目だけで男を見上げると、彼はどうにも困ったような、微妙な顔で眉を寄せながら微笑んでいた。その顔は嫌気の一つも見当たらないのに、どこか悲しい気持ちにさせられる表情だ。
私はもうこの正体不明の男の相手をするのが厭になり始めていた。知ってる風な素振りをされるのも、小綺麗な手で丁重に触れられるのも、なんだか自分の内側に隠した誰にも触れられたくない柔く弱い部分を刺激されているようで、早くこの場から立ち去りたくなったのだ。コイツが居なくなる気が無いのなら、私が居なくなりたい。
「ねえ、帰るからタクシー呼んでよ。」
「いつから俺はお前のパシリになったンだろぉな~。」
「いいから、呼んで。指の感覚無くて電話かけれない。」
「どこ行くンだよ?」
力がほとんど入らないまま、私は無理やりに腕を上げるとふるふる震える指の先を動かして、ほらね?と男に見せた。そうすると、彼はのっそりと緩慢な仕草で立ち上がり、私の頭の上に降り積もる雪を払い落とすと、左腕を掴んで無造作に持ち上げる。
帰る。って言えば良いのかもしれない。
そもそも、この得体の知れない男の問いかけに馬鹿正直に答えてやる筋合いも無く、適当に答えてやればいい。
けれど、私の口から自然と吐き出されたのは、今のそのままの気持ちだけだった。
「わかんない。……もう、いろんなこと、覚えてないし。ただ、明後日からまた仕事あるから、行かなきゃいけない。」
「はは、そんなになってまですることかぁ?」
小馬鹿にするような声を上げながら、男はずるずる私を引き摺るように、連れて歩くとそのうち数十メートル先にある駅の構内へと向かう入り口に鎮座したベンチの上に座らせた。なんだすごく遠いと思ってたのに、意外と近かったんだ。
木製の茶色いベンチの座面は、建物の雨だれで頭上が阻まれているせいか雪で汚れることも無く黒木目がくっきりと見えていた。すぐ隣には煌々とまばゆい光を放つ自販機が二台設置されている。背中を丸めて、ちんまりと座る私の横に男は腰掛けて、ひじ掛けに頬杖を突いた。寒いのに、まだどこにも行かないつもりなのだ、と漠然と感じた。
「仕事しかないから。」
「……。」
「なんにもないの。全部無くなった。あんたと同じね。……いや、もっと悪いかも。何失くしたかもわかんなくなってきたもん。」
そうだ。思い出した。最初は、仕事がしたくてコレに手を出した。毎日毎日、忙しくて、寝ても覚めても仕事のことで頭がいっぱいで。朝、重たい身体で出勤する時ひどく億劫で泣きたい気持ちになるのに、どうしても行かなきゃいけないと思ってた。行ったところで碌でもない目に遭うことくらい分かり切っていたのに、行かない選択肢が、今の私同様、昔の私にも無かった。
働いて、働いて、働いて。お金貯めても何かしたいことがわけじゃないのに、これさえ失ってしまうともうほんとに全部無くなってしまうような気がしたのだ。疲れが取れる、とかなんとか、疲弊した脳味噌が正常に回らなくなった頃、当時交際していた男に勧められて手を出したのがきっかけ。坂を転がり落ちるなん表現じゃ生ぬるい、真っ逆さまに奈落の底に落ちていくように、あるいは天に召されるように、その存在は私の生活に無くてはならない存在になった、
男は黙って話を聞いてるだけだった。いや、正直、スン、とした澄ました表情で道路の向こうを見つめる横顔を見ていると、私の話なんてさして興味も無いように思えて、もしかして、コイツ私の話なんて最初から聞いてないんじゃないの?
?なんて疑問がわいてくる。しかし、それが私にとっては随分気が楽だった。
すっかり、この男のことも自分のことも何とかする気が失せてしまったのだ。どうせ飽きたらそのうちいなくなると思った。だから、私は、このあまりにも不遜で何にも興味が無いみたいな顔をした男に少しだけ、自分のことを話して聞かせることにした。
ちっとも、呼んだ気配の見えないタクシーが来るまでなんて、自分を誤魔化して。
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居留守
本誌まで書いてくよ
144:12
居留守
そろそろ本誌なので閉めます!!!
144:26
居留守
見に来てくれてありがとうございました♡
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ホロネス 続き
初公開日: 2021年10月26日
最終更新日: 2021年10月26日
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コメント
前回の加筆と続きを書いていくよ
血と肉 ②
昨日上げた三途くんの夢の続きを書いていきます。
居留守
202111212311
アンドロイドの灰谷蘭の夢小説の続きを書いていくよッ。
居留守
202111062111
灰谷蘭のトロイメライの続きを書いていきます。飽きたら寝る。
居留守
藍藤唯監視塔 俺チャン短編。パスタでも茹でるか。
パスタ茹でる。時系列的にはもうぐでぐでになったあと。……まだ茹でるん?
藍藤唯
BLEACH鬼滅二次創作 66話【連載】
BLEACH鬼滅の二次創作を書きます。66話です。 間違ってプロット一話分飛ばしてました。 別枠で書…
ぬー(旧名:菊の花の様に)