ホロネス=虚ろ、がらんどう
中略
それを思い出した時、蘭の視界がぐにゃり、と歪んで、ほんのわずかに手のひらにかいた汗がぬるりと紙に滑る感覚をもたらした。
「オマエ、ヤッたことある?」
「…?」
「クスリ。」
「……無いっすよ。俺頭悪いんで、これ以上ぼんくらになったら困りますもん。それに、逃げたいモンなんてなんも無いし。」
はは、と男は糸目をいつも以上に細めて、大口を開けて笑った。
それから、付け足すように『逃げられなかったら死ぬだけですから。』とも。
数日前からずっと感じる不規則で厭な鼓動の音とモヤモヤと頭の中に立ち込める黒い渦が膨張して脳を埋め尽くすのに、頭だけは急速に回転を繰り返しているままだ。
逃げたいものが無いから手を出さないというのなら、彼女は逃げたかったのであろうか。
自分が空から落とした飴玉が。
雑踏の中、引き金を引いた銃口から飛び出した銃弾が。
不運な名前も顔も知らない何某かが。
奇しくも、幼馴染の彼女であった。
『そういう順番だったってだけ。』
そういえば、先にそれを言い出したのも彼女だったような気がする。
それなら、例えば、自分が間接的に殺した顔の見えない相手が彼女であってもこれが通用するのだろうか。
蘭にはまだわからなかった。昔から、他人の気持ちが手に取るように分かっても、自分のこととなるとよくわからない。
淡いピンクのライトに似合わない寒々しい空気が足元から立ち上り、停滞した廊下の透明な寒気は鳥肌が立ってしまうほどなのに、背中は妙に冷たい汗が滲んでいた。
腹の奥から冷めた笑いが喉をせり上がり、蘭は背中を丸めて手のひらで、僅かに崩れた前髪を掻き上げるように前後に撫でつけると、アハハ、と乾いた笑みを零す。
「……あの、…灰谷さん?……大丈夫っすか?」
狼狽えた男の声が恐る恐ると言った様子で頭上から足元に転がり落ちると、蘭は喉を絞る窮屈な閉塞感も、不穏な鼓動も、腹の奥で渦巻きドロドロと口から零れ落ちそうな得体の知れない暗く虚ろな感情も何もかもから逃げられなくなっていることに気付いた。
「どうかしましたか?」
「く、……っふふ、。゛あ~~、はははっ。」
冷笑。哄笑。高笑い。それとも慈愛に満ちた微笑か。腹から湧き上がるこの声は一体何なのか、頭の中に浮かんだ答えは全てがしっくりこなくて、結局どこをどう回って、何処に向かい、どんな道筋を歩んでも言葉で説明のつく理屈を自分自身で見つけられないままだ。あの頃と何一つ変わらない。
虚ろだ。真っ暗だ。空っぽでなにも無い。
オロオロと細い瞼を見開いて、困ったようにあたりを見回す男に、蘭は一言だけ答えを返した。あの時と同じ答えだ。
「どーもしねぇよ。」
しかして、頭の裏にはまるで呪いみたいに、見慣れた横顔が張り付いている。
◇
昔々あるところに不幸な少女がおりました。
と、言うところから始まる昔話を思いつく。
いやしかし、不幸かどうかと問われるとその子は特別不幸なわけじゃない。
それじゃあ、物語の主人公をとある不幸な少年にしてみたらどうだろうか。
そう考えてみて、ふと思ったきっとあの子は最初から最後まで自分のことを不幸な少年などと思ったことはないのじゃないか。不幸を自覚できるのは幸福の味を知るものだけで、相対的に比べるものが無ければ不幸は、不幸とも呼べなくなるのだ。
つまらないことこの上ないが、これじゃあ昔話は成立しない。
なぜなら、物語の最初というのはいつでも、不幸な少年少女の嘆きと悲しみから始まるものだから。
それならそれで構わない。どうしてかって、誰も不幸じゃなければ、それに越したこと無いじゃない。悲しい子供は何処にもいない。それで、この話はお終い。
けれど、それなら頬を青く腫らした少年も、弱い目をした柔く小さな男の子も、そうして膝を抱えて泣いてばかりの女の子も、みんな、どこに行ってしまったのだろう。あの子たちは、何処に消えてしまったのだろうか。
置き去りにしてきた小さな陰の形も、色も、今はもう朧げで、すっかり見えなくなってしまった。
私はただ、今、微睡の中で僅かに記憶に残る細い影を辿って、靄のかかったその子の顔を思い出そうとする。どんな名前で、どんな顔で、それから、どんな風な仕草で私に触れるのか。
××ちゃん、
耳の奥で甲高く、小さくか細い子供の声が木霊する。
返事も無いのに。
涙声の混じったその声が頭の中に響くと私は無性に腹立たしい気分になる。聞き分けが悪くて甘ったれで、わがままで。ああ、畜生腹が立つ。といった具合に。
しかし、同時に悲しくもあり、胸が締め付けられるような淡い痛みが走ると、いつも涙が零れそうになって、ひどく苦しい気持ちになるのだ。
うるさい。うるさい。いい加減黙ってよ。耳を塞ぎたくなる。目をそむけたくなる。そうして、私は頭の中で反響するその声を塞ぐように大声を上げようと口を開いた。
「っ!!……ん、……あれ?…あ~~~サイアク。」
ぱち、と勢いよく開いた目蓋から一粒温い雫が零れ、目を指すような光に私は顔を顰めた。
腹立ちまぎれに五月蠅いと叫んでやろうと思った瞬間、ビクン、と肩が跳ね上がり、顔を上げると煌々と明るく照明の灯ったオフィスに一人取り残されていた。それで、漸く、自分が眠っていたということに気付いたのだ。
煙草のヤニが染みついた薄汚い壁紙と、安っぽいデスクの並んだ室内には、どうやら誰も居ないらしい。先ほどまで突っ伏していたデスクをまだ重たい瞼を無理やりこじ開けて、見下ろすと緑色のプレートが取り付けられた鍵の束が鎮座している。
『最後の人が戸締りを。』
もっともらしい文句の書かれた張り紙が、丁度、私のデスクから真正面の壁に貼り付けられている。
私は今、自分が何をしていたのか、どうして此処に居るのか、考えようとしても思い出せなかった。
だから、その張り紙に書いある言葉に従うことにした。
最後の人が戸締りを。私が最後の人だから、きちんと戸締りをしてでていかなければならない。
透明なシートの張られたデスクの天板に両手を突っ張って立ち上がると、足に力が入らなくって、数度よろめき、転びそうになる。
目覚めが悪く、頭がひどく重たかった。頭の回転速度が異常に遅く、身体全体が倦怠感に包まれていて、息をするのも億劫だ。デスクの下に置かれたハンドバッグは私のモノなのだろうか。マア、いいや、取り敢えず持って帰ろう。
固いはずの床は一歩踏みしめると、期待していた質感とは程遠くくにゃりと柔いので、どうにも歩きに行くかった。
視界の中の直線がぐねぐねと直線に変わり、オフィスの出口にたどり着くまでに、異常なまでに神経を使ってしまう。壊れたアナログテレビに映る蛍光色の横線みたいな色味の残像が虫のように視界の隅々に飛び散って、目を覚ましたばかりだと言うのに愉快な悪夢の中にいるようだった。
やっとのことで正味数メートルの距離を歩き切り、閉じた扉のドアノブに例の鍵を差し込んで錠をかける。その間に、私は少しずつ少しずつ、頭を使って今に至るまでの経緯を思い出した。
少し、冷静になるとぢくぢくと腹や頬、ひいては手足までもが痛みだしてくる。
その体調不良に関して心当たりは山ほどあった。
とにもかくにも今私がずるずると身体を引き摺りなら芋虫のように階段を下りているこのビルにある会社は自分の勤め先だということ。
週末限定、時給は二千円。
平日休みのしがない会社員の私としてはただ座っているだけでそれだけの報酬が得られるのは非常にありがたかった。
というのは、建前だった気がする。
此処の来たのは、たしか、もっと、安価で、手軽にアレが手に入るからか。
人気の無い階段を下りて、ビルの出口の厚いガラス扉の前に立つと、頬を白いガーゼで覆った女が間抜けな顔で立ち竦んでいるのが映る。外に近づくほどに外気が流れ込む屋内は鳥肌が立つほど寒いが、上着も羽織っていないのだ。
「…上着忘れた。」
一体いつから忘れた?朝、家を出る時?それとも会社の中?そんなことも覚えていない。そもそも家ってどこだっけ?私、今日、どうやってここまで来たの?わかんないな、全然わかんない。
悩んでいても仕方が無くて、私はとにかく外に出ると、見慣れた駅まで向かうことにした。一応毎日無意識でも歩いているせいか、両の足は頭よりかはしっかりと、私自身を目的の場所まで運んだ。
どれだけ長く眠っていたのか知らないが、繁華街のすぐ近くにしては、人通りはまばらで、東京にしては珍しく空から雪が降っていた。鼻先に、つん、と乗った白い粒が冷たい、と感じる前に私の体温で溶けて水になっていく。
ぶるぶると寒さで体が震えて奥歯がガチガチと鳴るけれど、異常な焦燥感で背中だけは熱く発汗を催している。寒いのか、熱いのか。痛いのか、気持ちいのか。よくわからない。気持ちが良くて気持ちが悪い。視界は未だにうねったままで、目の前にある坂を上っているのか、下っているのか。地に足つかない浮遊感に薄幹悪さすら覚えながら私はただ無心で歩いた。
どれだけ歩いたんだろう。だらりと下ろした左手はもう既に感覚を失い始めていて、本当にこれ、進んでいるんだろうかという、不安を移り行く景色だけが解消していく。
斑に残った記憶の中で、最後に私が口に含んだ錠剤が、まだポケットの中に隠されていることを思い出してからは早かった。馬鹿みたいに震える指先でポケットの中を縋るような気持ちで弄ると硬い感触が指先に当たり、私はそれを藁をもすがる思いでつかみ取る。
滲んだ視界の中で、手のひらに乗るプラスチックのケースを開くと、一粒、ラムネみたいな形状の淡い青色の錠剤が転がってるのが見えた。
ああ、よかった。まだ残ってた。
街灯が明かるく灯る歩道の上で、私は安堵にため息を吐きながら脱力し、丁度すぐそばのビルの壁にもたれかかると、それを抓んで舌の上に乗せた。口の中がカラカラに乾いていたけど、もうそんなことはどうでも良かった。
ただ、喉の渇きや得体の知れない不安と焦燥感を一時でも紛らわすことが出来れば、何でも良かった。この先どうなってもいいと思った。最悪死んでしまったところで。
舌の上で溶けかけたそれを、乾いた喉で無理やり呑み込むと、深く深く、何度も呼吸を繰り返す。そうしているうちに、すうっと頭の中がクリアになって、先ほどまでの憂鬱も倦怠感も嘘のように消え去った。
不思議と気分が良くなって、鼻歌でも歌いたい気分だ。
歪んで溶けだしそうな視界の異常は元には戻らなかったけど、大分調子が良くなった私はだらしなく緩んだ頬をそのままにして、歩みを再開することにした。その時だった。
「んんっ!???わっ、痛ッ!!!」
気分が良くなって油断したのがいけなかったのだろうか。右足を踏み出した瞬間、足の裏がずるん、と路面で滑り、バランスを崩した身体が大きく前のめりに倒れていく。慌てて両手を突き出したのは良いものの、勢いよく転げた身体は、べちゃり、と地面の上に倒れ込み、手のひらには鋭い痛みが走った。
いい歳こいて、道端で盛大にスッ転んでしまったわけである。
カシャン、ばらばら、と固いものがそこらに散らばる音がして、手のひらの痛みをこらえるように、一瞬閉じた瞼を開けると、これまた盛大に地面に散らばり零れバッグの中身が目に入る。
割れて金具の外れた折り畳み式の手鏡。スマートフォンに、使い古した手帳。ポケットティッシュと入れっぱなしのハンカチ。
見ただけでうんざりとした。なんだかもう、何もかもが厭になって、立ち上がることも億劫で、しばらくの間それを目にしたまま、また再び眠りについてしまおうかなんて考えが頭をよぎる。
帰らなきゃ、なんて思ったって帰る場所ももう忘れていた。
待ってる人がもういないことだけは知っている。
仕事は行かなきゃ、っていう義務感だけはまだ辛うじて持っていた。
でも、それだけだ。
『××ちゃん』
そうやって、泣いたあの子なら、きっとこんな時でも大声上げて泣くんだろうな。
でも、私にはそんな力も残されていない。
あるのはごろごろと音を立てる小石が喉で蠢くような痛みだけで、声も出ない。
とても虚しい気持ちになるのに、私はノイズだらけのその子の名前も顔も未だに思い出せなかった。
擦りむいた手のひらも、地面にぶつけた膝も痛かった。
全部失くしてしまった私が最後に持っていたのはそういう、どうにもできない痛みと苦しみだけだ。
それから、逃げ出すために手にとった手段も今となっては役に立たず、煩わしい自業自得な症状に悩まされている。
眠たい……。