「別れよう、千枝」
 彼が突然吐き出した言葉が、中々現実味を帯びて聞こえてこなかった。
 いつも通りカフェに入って、雑談して、そろそろ席を立とうか、というところだった。
「えー、と。そう、なんだ?」
 現実味がないものだから、いつものように困った笑顔を浮かべるしかなかった。
 そんな私を見て、彼はぐっと顔をしかめる。
「そういうとこだよ、千枝」
「どういうとこ?」
 生憎とそれだけ言われても私には分からない。
「君は誰でもいいんだろ? きっと、俺じゃなくたって同じような感じなんだ」
「ごめんね。私にはちょっと言ってる話が難しいや」
 いつもだったら、「仕方ないな、千枝は」と苦笑されるのに、なんでかまた顔がしかめられる。
「そうだろうね。だから、別れよう」
 なにか気に障ることをしてしまったらしい。いつも優しい彼は、今日はまるで引こうとしなかった。
 そうまで言われれば、私にはどうしようもない。
「……そっか。よく分かんないけど、分かった」
「だからそういう……あぁ、もういいや。もう関係ないんだし」
 そう溜め息を吐いて席を立った彼は、一度だけ振り返った。
 私を見下ろす目は、いつかどこかで見たような色をしていた。
「それじゃあね。さよなら」
 そうして彼はもう振り返ることなく、カフェから出て行った。
 からころん、とベルが鳴り響く。
 それを見送って、私は――彼と同じように、はぁと溜め息を吐いた。
 /
 どうにも私が世間ずれしているらしい、と知ったのは大学に入ってからだった。
 高校までは中高一貫の友澄女子学園だったのもあって、私と同じような人が多かったし、そこまで交友関係が広いわけでもなかったから、いくらか自覚はしていたとしてもそこまで気にならなかった。
 けど、大学にいるのはそうした人ばかりではない。入った先は女子大ではあったけれど、友澄とは雰囲気が全然違った。
 そんな中で、当然のように他大学との合コンに誘われるようになったのは、きっと私が友澄出身だったからなのだろう。
 別に断る理由が私にはなかった。むしろ、ひょっとしたら、という淡い期待があったからこそ、合コン後に告白を受けた私は頷いたのだ。
 ひょっとしたら――憧れた恋に、今度こそ届くんじゃないか、って。
 今度こそ。女の子じゃなく、男の人なら。
 けど、その期待もどきどきも、結局はすぐに尽きた。
 付き合い出して一ヶ月ほど経ったある日、彼の部屋に遊びに行って、帰ろうとした私に、我慢できないと言い出した彼はがっつくようにしてキスをした。
 驚いたけど、抵抗はしなかった。元より力の差は歴然だったし、心の準備はできてなかったけれどあの時とは違うんじゃないかって期待していたから。
 でも、やっぱり、同じだった。
 あの子の言ってた、「好きなんだって、確信が持てました」という感覚が、全然出てこない。
 唇が触れても、彼の姿は背景と同化していた。エアコンの音がやけに気になった。頭はいつもの調子で、心臓のどきどきも感じられない。
 それがどうしても不思議で、うーん、と困っていると、彼は眉をひそめた。
「なに、その顔」
「え? どんな顔?」
「つまんなそうな顔なんかして」
「そんな顔してた?」
「……もういい」
 「萎えた」とそう言って、彼は唐突に別れを告げた。
 今回別れを告げられたのは二人目の彼氏だった。
 優しい人、という評判だったし、実際に優しい人だった。世間知らずの私の行動に、笑顔で物を教えてくれたし、一緒にいて楽しかったのは確かだ。
 でも、振られた。優しかった彼が、あんな風に突き放すみたいに。
 私がなにか間違えたのだろうか。分からない。
 彼が言ってたことが、未だに私には分からなかった。
 /
「え、振られちゃったんですか」
「うん」
 私がその旨を向かい席の相手に伝えると、彼女はすごく驚いたようだった。
 同じ大学に通う、二個下の後輩の女子だった。たまたま同じ講義を受けてて、たまたま講義の指定教科書を忘れてしまった時に隣の席だったものだから貸してもらって以来、仲よくなった。
 年下だというのに随分しっかりした子だと思う。自分が抜けてるものだから余計に。
 だからというのもあって、私は彼女に相談することにした。
 一人で考えても結局分からなかったし、彼女は付き合ってる人がいるらしいから、なにか参考になるんじゃないかって思って。
「え、えー」
 当の彼女は、珍しく困惑していた。私の世間知らずムーブにも苦笑を浮かべてたのに、ほんとに珍しい。
「そんなにびっくりすることかなぁ」
「びっくりはしてますけど、どっちかって言うと先輩に対してですよ。大丈夫です?」
 なるほど、心配してくれてたのか。
 彼女は本当に優しい。その優しさは昔のことを思い出すくらいに。
「ショックはあるけど平気平気」
 実際、ショックだけだった。驚きはしたし理由が分からなくて当惑したけど、それだけ。
 他の友達からは、変だよ、と言われるけど、彼女はそういうことを言わない。それがどことなしに嬉しかった。
 ともあれ、だ。
「多分、私が悪いんだろうなぁって思うんだけど。よく分からなくって」
 振られたのが一回だけだったらまだ合わなかっただけと言えたのかもだけど、二回ともなると流石の私でも考え物だ。
 私の悩みを、彼女は自分のことみたいに真剣に考え始める。
「はぁ。なにかしちゃったとか?」
「んー、どうなんだろう。してるつもりはないんだけど、してたのかな」
「先輩はあんまり人の嫌がることするイメージないですけどね。ふわふわした感じで」
「そうなのかなー」
 それだったら二回も振られないんじゃないかな。
 自分でも分からないから困りものだ。
「じゃあ逆に、なにもしなかったとか?」
「そういうのはないと思うけど。海にも映画館にもデート行ったりしたし」
「それ初めて聞いたんですけど」
「そうだっけ?」
 むしろ、最初の頃は私の方が積極的に誘ってたと思う。でも、最近そういうのをしなくなった、と言われれば、確かにそうかもしれない。
「んじゃあ、別れようって言われた時に他になにか言われませんでした?」
 だいぶ困り果てた様子の彼女が捻り出した質問に、私はあっと声を上げた。
「あ、言われた言われた。でもそれが分かんなくって」
 そうだ、それを聞こうとしてたんだった。相変わらず抜けてるなぁ、私。
 細かいところは自信がなかったけど、当時のやり取りを記憶から掘り出して伝えていく。
 彼女は口元を手で押さえて考え込んだ。やがてその姿勢が緩む。
「どう? なにか分かった?」
「……多分、分かったかも」
 その言葉に、私は身を乗り出した。
「ほんと? 教えてよ」
「多分ですよ、多分」
「いいからいいから」
「きついこと言いますよ、知りませんからね」
 私が期待に満ちた目で見つめ続けると、観念した彼女は重々しく口を開いた。
「柚木先輩は――恋したいだけなんじゃないですか」
 その言葉に私は、首を傾げた。
「? おかしいの?」
「いや、おかしくはないです。分かりますし。でも、つまりはその人のことを好きになりたいんじゃないんじゃないかって」
「どういうこと?」
「んーつまりですね、その人が好きだから付き合うんじゃなくって、恋がしたくてその人と付き合ってただけって言うか。特別なのは恋であって、その人が特別だったんじゃないんじゃないかって言うか」
「だめなの?」
「だめとまでは言わないですけど。大体の人は、好きになったから付き合いたいってなると思うんです。でも先輩は恋をしたいから付き合うんでしょ? 需要と供給が噛み合わないじゃないですか」
「……なるほど? そういうことなのかな?」
 つまり、認識のずれがあったということなんだと思う。
 そしてそれを共有しなかったから破局した、と、そういうことなんだろうか。
「先輩は……恋がきっと素晴らしいものだから、恋したいんじゃないですか? 恋に憧れてるって言うか」
 それに、まるで覚えがないわけではない。
「……そうなのかも」
「恋に恋してるなら、見てるのは相手じゃなくて自分なんじゃないですか」
「そう、なのかな」
「だから振られたんじゃないかなって。先輩も結局、その人のこと、好きじゃなかったんじゃないですか?」
 確かにきついことを言う。
 でも、それを言われて怒りも悲しみもなく、ただすとんと腑に落ちる、気がする。
「……つまり私が間違ってたってこと?」
「それはわたしからは言えませんよ。付き合ってから好きになることもあると思いますし、先輩の気持ちは少し分かりますから。だからこれは先輩が決めることです」
 ……彼女は本当に優しい。
 きっと、私は、彼女による推測の私は、普通じゃないのだろう。
 でも彼女はそれを否定しない。
 ……とはいえ、私にとってはすごくむつかしいのには変わらないのだけれど。
 けど、さっきまでよりは、道が見えていた。
「ありがとう。難しいけど、もう少し考えてみる」
「いやいや、お役に立てたのならよかったです」
 苦笑しながら彼女は首を振る。
 早速じっくり考えてみようとして、ふと思い出が頭をよぎった。
 なら。
 なら――あの時あの子が私に向けた目は、私の間違いを見抜いていたからなのかな。
 私も気付かなかった、私の間違いに。
 もしそうなら、うん。
 ……やっぱり沙弥香ちゃんはすごいな。
 よぎった思い出に目線が泳いでいると、ふと時計台が視界に映った。
 時計の針は、次の講義が始まる五分前を指し示していた。
「わ。もうこんな時間」
「え、休講じゃないのにのんびりしてたんですか」
 がばっと立ち上がった私に、彼女が呆れた声を出す。やっぱりどうにも、私は抜けてるなぁ。
 慌てて立ち去ろうとして、私は振り向いて彼女に手を振った。
「それじゃあまた、侑ちゃん」
「はい、また」
 そうして彼女は、夕陽色の短い髪を靡かせて、いつものように優しく笑った。
カット
Latest / 133:05
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知