それは小さい頃、家族で遊びに行った時のことだった。
「やぁだぁー! かえるー!」
 そう隅で泣き喚くわたしに、お父さんはおろおろし、お母さんは呆れた顔で、怜ちゃんはわたしなんかよりも目の前の光景に夢中だった。
 水族館だったものだから、無論他のお客さんも大勢いたけれど、泣き散らすわたしを避けるようにして足早にその場を去っていった。誰だってそうするだろう。
 ともあれ、さっきまではむしろ怜ちゃんと同じように目をきらきらさせて見ていたのは確か。
 じゃあその時なにをそこまで泣いていたのかと言えば、至極単純な話で。
「ほら、侑、こっちおいで」
「やだぁごわいー!」
 声をかけるお父さんの背には、お父さんを狙うかのようにジンベエザメが旋回していた。
 今ではなんともないどころかかわいいとさえ思うジンベエザメだけれど、当時のわたしにとってはその大きさと、口から覗く鋭い歯が怖くて怖くて仕方がなかった。
 アクリルガラスがなんとも心許なく、いつこちらに牙を剥くか。そう考えたら、子供ながらに泣いてしまうのは無理がないことだと思う。
 ……ま、そうは言っても、娯楽施設たる水族館でそんな子供がいれば居心地悪くなるのも仕方のない話。
「置いてくわよー!」
 お父さんに比べてお母さんは若干厳しかった。ひとまずここを動こうとすれば着いてくると思ったのだろう。実際普段であればそうしたであろうと思うし、間違ってないはずだった。
 けどその時のわたしが感じていたのは恐怖だった。迂闊に動けば今にも狙われそうだという恐怖。だから身じろぎ一つ取ることもできない。
 お父さんが振り返りつつも三人が遠ざかっていくのを見て、わたしは幼心ながら見捨てられたのだと感じたものだ。
 当然、なおのこと泣き喚いた。
「どうしたの?」
 そんな時だった。優しい声が頭上から降ってきたのは。
 見上げると、涙でにじんだ視界に、ぼんやりとした影が立っていた。
「ごわいの」
 泣きえずきながらそう答えるわたしに、影は「なにが?」と問いかける。
「ざめがぁ」
「サメ? そっか。サメが怖いんだね」
 そう言うと影はわたしの目元を拭う。
 わずかにはっきりとした目に、差し出されたハンカチが見えた。
「じゃあ私が怖いサメを追い払ってあげよう」
「……ほんと?」
「うん。だからほら、涙を拭いて、ちーんして」
 言われるがままに目元を拭って洟をかむと、影が言った。
「ほら、見て。もうサメはいないから」
 そう言われても怖かった。子供だったから。
 でもその影はそんなわたしに、
「大丈夫。必ず君を守るから」
 そう、優しく言ったものだから。
 恐る恐ると目を開く。
 クリアになった視界には、サメはどこにも見当たらなかった。
「今は追い払ったけど、また戻ってくるかも。今の内に逃げないとね。立てるかな?」
 影は、長い黒髪の女の子だった。振り返るに、多分小学校高学年か中学生くらいの子だったんだろう。ついでに言えば、サメがそこからいなくなるのが分かっていたから、そういう風に言ったんだろう。年の割に結構頭の回る子だったんだなと思う。
 けれどその時のわたしにとっては、サメを追い払った頼れる大人だった。
 わたしは頷く。すると彼女は微笑んでわたしの手を引いていった。
 まだサメへの緊張が残っていたけれど、コーナーが変わった辺りになるとそれは少しずつ緩んでいった。
 そこは軟体生物が展示されてるコーナーだった。よく覚えている。
 クラゲの乱舞に「きれー」と零したり、直立するアナゴの滑稽さに笑ったり。
 そうしてすっかりさっきのショックから立ち直ったわたしは、さっきまでのことが嘘みたいに、彼女に色々と話しかけていた。
「お父さんやお母さんは?」
「さきにいっちゃった」
「そうなんだ。実はね、私も置いてかれちゃって」
「そうなの?」
「うん。妹がね、君みたいに泣いちゃったから。お父さんとお母さんが付いてあげてるの」
「……いいな」
 思わず口からそんな言葉が零れた。
 羨ましかったのだ。わたしは置いてかれたのに、彼女の妹は愛されてるみたいに思えて、知らないその子を子供ながらに妬んだ。
「そうだね。いいよね」
 彼女もそれに同意する。
 幼いわたしにはその意味が分からず流してしまったけれど、彼女は寂しい思いをしてたりしたんだろうか。
 今となっては知ることも叶わないけれど。
「これは?」
 わたしにとっては、そんなことよりも目の前の変な生き物の方が大事だったから。
「これはメンダコだね」
「へーっ」
 その時は物知りな大人だなんて思ってたけど、あの子は解説板を見ていたのかもしれない。簡潔な説明だけだったから。
「かわいい!」
 わたしはすっかりその生き物に釘付けになっていた。
 ひらひらと動く耳ヒレとスカートあし。つぶらながら特徴的な瞳。そうしたものがわたしの感性に刺さったらしい。
 きっと、ずっとそこでわたしはメンダコを見ていたんだろう。
「侑!」
 お母さんの声に、わたしは振り返った。
「お母さん?」
「うん」
「あなたは、えぇっと、ウチの子を慰めてくれたのかしら?」
 そのお母さんの言葉にむくれた。ほったらかしにしたのはお母さんじゃんか、って。
「はい」
「本当にありがとう。ほら、お礼言って」
 頭を下げさせるお母さんに反発心が湧き起こったけど、彼女への感謝は紛れもなくて、わたしは渋々みたいな感じにお礼を口にした。
「……ありがとー」
「どういたしまいて。ゆうちゃん」
 そう笑う彼女の後ろから、女の子がぶつかった。
「わっ」
「お姉ちゃん!」
 そう言って見上げるその子が、彼女の言ってた妹さんだというのは容易に想像が付いた。
 と、その子がわたしを見る。ささっと彼女の後ろに隠れると、彼女の服の裾を握り締めながらわたしを睨み付けていた。
「こんなところにいたのか。……と」
 その子に続くように、大人が二人近付いてくる。関係性は、言わずもがなであろう。
「お子さんですか。ウチの子が世話になったみたいで……」
 頭の上で大人同士の会話が飛び交う。お母さんが妙にぺこぺこ頭を下げてるのが、なんだかおかしかった。
「ほら、行くわよ、侑」
 それもすぐに終わって、お母さんがわたしの手を握る。
 もう一度彼女を見る。彼女は優しい笑顔を浮かべながら、わたしに手を振った。
「ばいばい」
「ばいばい」
 妹さんはまだわたしを睨んでいたようだったけれど。
 あんなお姉ちゃんだったらな、とわたしは羨みながら、名残惜しみながら、二人に背を向けた。
「行きましょ、みお、とうこ」
 女の人が二人の名前を呼んだけれど、それは雑踏に紛れて聞き取れなかった。
 ……それが、わたしにとっては水生生物への強い興味を抱くようになった、大切な思い出だった。
 今はもう、ずいぶんと色褪せてしまってるけれど。
 そうじゃなきゃきっと、わたしの記憶は怖いものとしか残らなかっただろうから。
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