川ができていた。ごうごうと流れる水の上を人々が腰をかがめて進んでいく。その光景は、昔見た戦争映画に似ていた。俺はそれを安全地帯から眺めている。駅のドトールのカウンター席、その窓越しに。雨風は激しさを増している。ロータリーにはヘッドライトが光の帯となって連なり、店内も軒先も人でごった返している。「--今年、多すぎるよね」「どうなってるんだろ」と若い女の二人組が言い合うのに、俺は密かに口を挟む。どうなってるかって? これは、合図だ。
ふと外を見ると、窓の外の羨ましげな目と視線がぶつかった。笑ってやると、気まずそうに逸らされる。窓を叩けばいい。俺だってそこまで薄情じゃない。多分な。
--台風31号の影響で現在、……
終電までに動かなければどうするか、考えを巡らせながら目を閉じた。
……上下線とも運転を見合わせています。なお振替輸送は……水路をご利用ください--
ああそうか。それで船に乗っているのか。機械的なアナウンスに、俺は半分眠ったままでそう理解する。あんまり台風ばかりが続くから、新しい川が幾筋も生まれ、やがて東京は水没してしまったのだ。ビルの合間を船が行く。その新しい景色を思い描きながら目を開けて、俺は自分が船ではなく氷の上に身を横たえていることに気づいた。流氷だ。目を開けておく意味もないほどの白い世界。音もない海のうねりによって、どこかにゆっくりと運ばれていく。右目が痛む。けれど俺は、なぜか満たされている。期待することから解き放たれた、後ろ向きな満足感だ。イカサマと知って引いた籤が外れたときと同じような。満たされたまま、一人で海の果てまで流されてゆく。
ふいに、それを邪魔する音がした。
こつ、こつ、こつ、と小さな硬い音が続けて鳴り、白銀の静寂を乱す。
目を開ける。--今度こそ本当に目を開けた。ドトールの窓を叩く者があった。
その時、突風が無数の雨を撃ち込んでガラスを斜めに切り裂いていった。世界を覆う薄い膜を剥がすように。
----杉元佐一。
◇
「5年遅刻だ」
「うそ。もう死んじゃう? 死なないでクソ尾形」
自動ドアが開くのももどかしかった。開くと同時にビュウッと鋭い風が店内に吹き込んだ。迷惑そうな視線。俺は両腕を広げて外に踏み出した。
鉛玉のように重たい雨が絶え間なく肌を打つ。杉元の手は無遠慮に俺の二の腕を掴んで引っ張った。前にもこんなことがあったような気がする。思い出した。そういえば、あの時もそうだった。
「つくづく台風に縁がある男だ」
と言ったら、杉元は俺の顔も見ずに「覚えてるよ」と返した。思いがけず当たりくじを引いたような苦々しい感覚に、ちょっと肩をすくめる。俺が初めて杉元と会った日。正確に言うなら、初めて母親以外の大人と言葉を交わした日。あれも台風だった。今は逃げ込む部屋もなく、俺たちあてどなく嵐の街へ進軍した。
「なんで戻ってきた? 忘れがたいものなんかなかったろ」
「別に。ただ腹上死とかも悪くないかなって思っただけ。さすがに試さなかったじゃん」
「ああ?」
「考えてみろよ。地獄でぼんやり、人間最期の日に何してたかなぁって考えて、思い出すのがお前とのセックスだったら笑えるだろ。最悪で」
相変わらずくだらないことを言って、杉元は一人でケラケラ笑った。
杉元と暮らしたのは、もう四半世紀も前のことだった。ほんの短い間だけ、俺たちは白痴のように何もない部屋で過ごした。今、帽子を目深にかぶり雨を凌ぐ男の横顔は、その頃と変わらない鋭利な輪郭をしている。俺の方は少なからず老け、それなりに地位のある中年男になった。その短くない歳月のあいだに、幾人かが俺の身体を通り過ぎていった。身体ばかりは熱を持ったが、心臓はいつも静かだった。俺は一度も愛情なんてものに目覚めたことはない。誤解がないように言えば、もちろん、杉元に対しても同じだ。
……ただ、ほんの戯れに一度だけ「愛してる」と口にした。口に出してみれば本当になることもあったのかもしれない。しかし、胃のあたりがキリリと痛んだばかりで、あれは嘘つきの罰だったんだろう。
「俺のことなんかさっさと忘れちまったかと思ったぜ。100年生きてたらその小さい脳味噌じゃ足りないだろ」
本当に聞こえなかったのか無視したのか分からないが、杉元は俺の方を向いて「え?」と大声で聞き返した。
雨のせいで、会話するにもほとんど叫び合うようだ。体が冷えて、やけくそな気分になってくる。
「俺は忘れなかったぞ杉元、5年遅刻だ!」
「細かいな、仕方ないだろ!」
俺がめんどうになって口をつぐむと、杉元は馬鹿にでかい声のままで語り出した。一人芝居だ。曰く、「家の前の道に、新しくクリーニング屋ができるだろ。真っ白で眩しい四角い箱が。そこに立ち尽くして、俺は考えるんだ。そこには前、なにがあったのか。毎日見ていたはずの何かを。そういうのもう嫌なんだよ。だからさあ、褒めてくれよ。尾形のことは覚えてるんだから」と。
覚えてる、と杉元は言った。忘れないとは言わなかった。俺にはその実直さが好ましかった。
男の背中が、俺の一歩先を行く。ふと濡れた背中に目をやると、その肌のにおいが蘇った。
--杉元と寝たのは、一度だけ。馬乗りになって首を絞めているうちに妙な気分になり、気づくと飢えた獣が肉を奪い合うように口付けをしていた。身体を上にして下にして、痛みのなかをまさぐるように快楽を貪った。目眩がするほどの興奮に、鼻血まで垂らしていたのに気づいたのは終わったあとだった。けれど惨めではない。この男も同じだと俺は確信していた。相手を思いやらないかわりに押し付けることもない。理解しないかわりに、理解し尽くしたふりもしない。そういう男と肉体を預け合うのは一種倒錯的と言えるほどの解放感があった。杉元は俺の頬を髪を撫で、容赦なく首を絞めた。剥き出しにした犬歯の隙間から湿った息を吐き、ギラギラした目で俺を見た。
俺に殺される時、杉元は同じ目をしていた。反撃を狙う獣の目だ。俺にはその男の本能がたまらなく愉快だった。俺が笑うと杉元は余計に苛立ち、荒れ狂った。ほとんど正気を失っていた。射精したあとで、俺たちは不器用に笑い合った。少しだけ涙が出た。
思い出してマスをかくことはあっても、あの一度きりだ。
◇
濡れたシャツを脱ぎ捨てて、冷えた体のままシーツに倒れ込む。ラブホテルの安っぽいそれは肌にきしきしと当たった。
「いつか死ぬってわかってるから生きてけるんだろ、俺たちは」
「そんなに褒められたいかよ」
濡れた髪を額に貼り付けた杉元の顔は、むしろ以前よりも幼く見えた。勘弁してほしいところだ、俺のほうは中年男だっていうのに。肌を重ねることに、抵抗がなかった。時間が過去から未来に流れるのと同じ自然さで俺たちは身を寄せ、たいしてドラマチックでもない行為に耽った。杉元の目が俺を見ている。その目には琥珀に閉じ込められた太古の空気のように、なにかキラキラしたものが浮かんでいて目を離したくないような気にさせる。かつては、杉元が俺を見る時、俺を透かしてどこか遠いところを見ていると感じていた。だから俺は何も思わなかった。けれど今は。
いつか死ぬ。そんな希望を失ってから、杉元はどれだけ生きてきたのだろうか。もう、答えに辿り着いたんじゃないのか。何度殺されても死なないのなら、かつて何らかの因縁がある“尾形”を殺せば、自分も死ねるのかと。そんな暗い、狂った妄想のような希望を抱いて、この半世紀を過ごしたんじゃないのか。
「……俺の最期ならいくらでも見せてやる」
笑ってやると、杉元は不器用に顔を歪めた。笑ったのかもしれない。
「いくらでもって、一回しか死ねないでしょ」
じわじわと熱を持つ指先がしびれるようだった。外はどうだ。嵐は行ったか。ここでは何も聞こえない。さっきまで冷え切っていた肌の上を汗が伝う。そのわずかな刺激さえ快楽に数える身体に、肉体はよく学習するものだと密かに笑う。言葉など捨てて肉欲に溺れ、もう二度と顔を合わせたくない。緩慢な行為などやめて、酒でも飲みながら話をしたい。真逆の気持ちが胸にわだかまり、どちらにも身が入らない。それはこの男も同じだろう、と、少し苛立たしげに湿った息を吐く杉元を見て思った。
「尾形」
「まあ待てよ。互いに歳をとったろ」
「相変わらず口のへらねぇ」
食らいつくように開けた唇を押し付けてくるのを手で制してやる。手のひらに濡れた犬歯があたる。
「お前、屍体を犯す趣味はあるのか」
「まさか」
「それなら安心だ。まだ俺を殺してみたいなら、やっていい。そのつもりで戻ってきたんだろ」
杉元は答えなかった。笑みとも怒りともとれないような、変なしわを顔の皮膚に浮かべたまま俺の目を見返していた。
この哀れな男に身を投げ与えてやっても構わない。そういう気分だった。もしかするとこれは、愛と呼べないか。他人のために何かしようと思ったのは、これがはじめてだった。それともこんなものは邪悪な身勝手なのか。
聖母のような愛があるなら、ハイエナの愛があったっていい。
自分の渇きを癒すためだけの、打算的で信用ならない、卑しい愛だ。それは綺麗じゃないかわりに嘘偽りがない。愛なんて呼べば地獄に落ちるような醜い本能だ。けれどその愛もクソもない繋がりが、俺には今、手放しがたい。だから杉元が今、俺を殺して自分も命を終えるという妄想のような希望を叶えたいなら、叶えてやるつもりだった。
「……まったく、忌々しい」
杉元がずっと昔、子どもの俺の胸に植え付けていった何かが、着実に俺の中に根を張っていたことを知る。思考することを手放して口づけを強請ると、男は俺の首を撫で、そのまま喉に噛みついた。
◇
「あんまりお前が必死だから言わなかったけど。愛なんてたぶん、たいしたことないぜ」
「……明治生まれは言葉の重みが違うな」
ちょうど今、俺もそのことに辿り着きかけたところだった。
外に出ると、世界中が嘘のように静まり返っていた。深い水溜りだけが昨日の台風の痕跡を残し、その上におびただしい量の落ち葉が重なり合っている。
俺たちは天地がめちゃくちゃになるまで激しく互いの身体を貪った。壁際に追いやり、体重をかけ、何度も絶頂に上り詰めた。相手の腕を腰を力任せに掴んではひっくり返し、また熱をぶつけた。杉元はたぶん、俺が半ば錯乱しながら言った言葉について考えていたのだろう。そうじゃなきゃ、「愛」がどうだなんて、しらふで口にする男があるか。寝不足の頭は、水銀を流し込まれたようにどろりと重い。とにかく気怠かった。電車は始発から動くのか。バスはどうか。考えれば、行為を終えるなり出てこなくとも、そのまま仮眠してくればよかったのに。ただ、狭い部屋にいるのがたまらない気がして、出てきてしまった。杉元もついてきた。それだけだ。空が白みはじめている。薄明の中、ぽつりぽつりと続く街灯を追うようにして歩いていく。杉元は、どこへ向かうのだろうか。俺は帰り着く我が家を思い描いた。あの古いアパートは、再開発の波に呑まれて消えてしまった。今は青梅街道をもう少し下ったあたりの、マンションの一室に住んでいる。相変わらずものは少ないが、マットレスにはきちんとシーツをかけている。それに掛け布団も。
この歩道橋を渡って、あと1キロも歩けばそこに着く。早くこのどろどろに疲れ切った体を休めたかった。同時に、永遠に辿り着かなくていいと思った。一段一段、ひどく重い脚をなんとか持ち上げて上がっていく。杉元は軽い足取りでさっさと階段を上がり、歩道橋の中ほどでこちらを振り返った。そして上りきった時、口を開いた。
「もう一回だけ殺してみてよ」
ひらりと体を翻して、欄干に腰掛ける。
「それでダメなら諦めるからさ」
杉元は静かに微笑んでいた。若々しい皮膚の上に老獪な深みが染み出して、ひどく不気味で美しい微笑みだった。なんでもない様子で脚をぶらぶら揺らす。その下を、雨水を跳ね上げながら数台の車が行き過ぎてゆく。
夜が空けかけていた。
わずかに首を傾げて差し伸べられた手を、俺は何も考えずに掴んだ。こちら側に手を引けば笑い話、あちら側に体重を預ければ朝一番のニュースになる。どちらを選んでもいい、その頼りないほどの自由が、杉元には嬉しいのだろう。腹が立つほど穏やかな目でこちらを見ている。
「歳とってから気づいたんだけど」
「なんだ」
「俺は、尾形の友達になってやればよかった。考えすぎだろって笑い飛ばして、ほんとにあいつが理不尽な目に遭えば、それを代わりに怒ってやれたらよかった」
歳とってからっていうのは、何歳の話だ。50歳か、100歳か、あるいは150歳か。
「それは“尾形”の話か」
「お前が尾形だろ」
「……はは」
どうだろうか。気が狂っているだろうか、こいつは。狂っているに違いない。
そして俺ももはや正気ではなかった。
「尾形が死ぬまで見てようと思った、はじめは」
「それは前にも聞いた」
「うん。尾形なら大丈夫だと思ったんだ。別にお前の人生なんか知ったこっちゃないし、お前だって俺がいつまでも歳取らなくなってどうでもいいだろ。……だけど、まったくなんの情もなく生きてくとか、やっぱり難しかった」
俺は、尾形なんかじゃない。杉元佐一のことなんか知らないし、多少可愛そうな境遇に生まれながらずば抜けた不幸や悪事に染まることもなくつまらない人生を送る男、それだけだ。線路脇に捨てられたような子どもに名前をつけたのは、杉元だった。それだから俺は、こうして無駄にドラマチックな選択を迫られている。生きるだ死ぬだって、そんな話、普通はしないんだぜ。平成生まれは。
「杉元、お前は自分勝手な男だよ」
けれど俺は、愛している。ただ自分の痛みを癒そうと身勝手に身を寄せることが愛ならば、真心も思いやりもなにもかも、美しい心を持たないまま、俺は杉元を愛している。
「どうせ先に死ぬとわかって猫を飼うのが人間だ」
「でも尾形、猫じゃないじゃん」
「お前だってもう、人間じゃないぜ」
「はは、言えてる」
まっすぐに走る傷跡から表情が崩れていくようにして、杉元はぐちゃぐちゃに笑った。それがみっともなくて俺も笑う。笑い出すとおかしくて止まらず、気が狂ったように笑い続けた。本当に狂っているのかもしれなかった。けれど、気が狂うことがこんなに幸福なら、正気でいる方が馬鹿らしい。胸の奥深くがキリキリ痛んだ。これが幸福ってやつなら、こんなもの、こんな痛みで俺は死なない。
欄干の上に、杉元が立ち上がった。ビルの影から朝日がのぼり、あたり一面を照らし出した。十字架を真似るように腕を広げた男の、その輪郭をまばゆい光が縁取る。見ればあたり一面は洗い流されたようにゴミや何かの破片がそこらじゅうに散乱し、濡れてぴかぴか光っている。
気狂い男のシルエットを見つけたのか、はるか下からけたたましいクラクションが鳴り響いた。それを合図に、俺は杉元の胸ぐらを掴んで引きずり寄せ、がつんと音が鳴るくらいキスをした。
ウオオオム
おわり
あとでメチャ なおします……