「子ども時代の一番の思い出を問われたら、どう答える? 俺にとってそれは傷だらけの腕だった。かび臭い畳が夕日に温められて、変なにおいがしていた。もしかするとそれは、人の肌のにおいだったのかもしれん。のんきにいびきをかいていた馬鹿が、クッションでも掻き寄せるみたいに俺の体を抱くもんだから、傷だらけの腕が重くて身動きもとれなかった。仕方なく眠った。俺は早く抜け出したかったのに。お前のことだぜ」
杉元、と呼びかけると、男はバツが悪そうに「育て方まちがえたかなあ」と笑った。
山盛りポテトフライとチョコバナナサンデー、セットドリンクバーがお二つですね。--座るなり、注文も待たずに問い詰めていた。杉元はそれをなんでもなさそうに受け流した。ウエイトレスが立ち去るのを待って、ため息をつく。
目の前でのどを鳴らして水を飲むのは、たしかにあの杉元だ。最後に会ってから、もう20年がたっていた。当時、俺はまだ子供で、杉元は今の俺と同じくらいの年齢だったはずだ。それなのに目の前の男は、少しも変わっていない。精悍な顔立ち、張りのある肌に目立つ傷跡。その皮膚の下に息づくしなやかな筋肉の厚み。
「その顔、どうしたの。……崖から落ちでもした?」
ニヤリと、思い出し笑いのような不快な笑みを一瞬浮かべて、杉元がたずねる。
「いや、切った。自分で」
「なんで」
「……夢に出てくる自分になりたかったから」
夢、という言葉に、杉元の瞳が険しくなった。けれどそれはすぐに消え、あとにはもとの穏やかな、笑うような眼が残った。杉元と別れた後、よく夢を見た。夢の中で、俺は一人だった。現実でも一人だったけれど、それとは種類が違う。もし大げさな言い方が許されるなら、あれは気高い孤独だ。俺は白銀の世界に一人立ち、銃を背に背負っていた。
「それで?」
「別に。自分で縫ったからバイ菌が入って高熱を出して、そのあいだ飽きるほど夢を見たが、それきりだ」
杉元の目が俺の傷を追っている。治るまで時間がかかったせいで引き攣れ、糸の痕が残っている。人が目を背けるそれをじっと見つめられるのは、こいつの顔にもっと酷い傷があるせいか。それどころか、杉元は服から出ているところだけでおびただしいだけの傷があった。けれどあまりにもなんでもないようにしているので、聞きそびれる。そういう類の雰囲気だ。
「どんな夢なの」
「……雪」
杉元は何も言わなかった。あれ以来、夢を見ることはなくなった。でも俺が夢の中の俺になったわけじゃない。傷のおかげで鬱陶しいことは減ったが、それでも俺は、卑屈な孤独だ。
「オレンジジュースでいい?」
「は?」
「なに、ドリンクバー知らない? オレンジジュースでよかったらもってくるけど」
「ガキじゃねえんだ」
にっと笑った目は、俺よりも幼く見えた。奇妙だ。けれど俺がこいつを見つけ出すために払った苦労からすれば、その程度目をつぶれると思った。
他に何もない部屋の中央に、剥き出しのマットレスがひとつ、鎮座している。
俺と杉元が一緒に暮らすようになったのは、自然なことだった。一般的に考えたら不自然だが、その不自然さがいびつな俺達にはぴったりはまっている。
杉元は新宿と中野のちょうど境目あたり、再開発をまぬがれたような一角に住んでいた。「年取らないんじゃ不気味がられるだろう」と嫌味を言ったら、「だから東京が良いんだよ」となんでもなさそうに言った。
子ども時代を過ごしたアパートに、この部屋はよく似ている。違うのは、畳じゃなくフローリングなこと。あとは面した路地にクチナシが植えられていて、雨の日なんかにはその香りがむっと這入り込んでくることだ。
「しらたきって、肉が固くなるらしい。だから離したほうがいいんだって」
「それ、嘘だぜ」
「まじで? 嘘ついたらあれだぞ、針千本」
「子ども扱いするなよ」
「だったら椎茸食えよな」
「食わん。食えないんじゃない、食わないんだ。必要じゃないから」
「なにそれえ、しいたけさん泣いちゃうよ」
泣かせておけよそんなものは、とあまりの鬱陶しさに口をつぐむが、杉元は構わずにエーンエーンと馬鹿みたいに泣きまねをして、そしてケタケタ笑った。何が面白いのか、杉元はよく笑う。まるで無人島に取り残された最後の人類がラジオに話しかけるようにして俺に何か言っては一人で笑った。これは、何も持っちゃいない人間の、どん底にたどり着いたからこその明るさなのかもしれない。つまり、半分壊れちまってるんだ。かわいそうに。
杉元の部屋にはモノがなかった。カーテンすらなく、フローリングに直に布団をしいて眠っていた。鍋は俺が持ってきた。俺もモノは少ない質だから、でかい図体の男二人、六畳一間に暮らすのは案外簡単なことだった。床で寝るのが嫌だったから、マットレスを一台買った。届いてみると、それは部屋のほとんどを埋め尽くす大きさで、「おがたぁ、ちゃんと測ったぁ?」と文句を言いながら、一番に飛び込んだのは杉元だった。シーツもかけず、掛布団すらなく、床から突然生えたような剥き出しのマットレスの上で眠る。体温を求めたわけじゃない。互いに。だって、六畳じゃ同じのを二つってわけにはいかないだろ。ただそれだけ。
俺がものを食っている間、たまに杉元が俺の顔を見ていることがある。そういうときの奴の目は、慈しみか愛か何かそういった、俺には無縁のものが浮かんでいて居心地が悪い。そういうものにあこがれたこともあった。杉元がマフラーだけを残して立ち去ったあと、知らなければよかったのに、俺はその温かさに焦がれた。愚かな子供だった。けれどそのうち、俺には与えられず、必要もないものだと理解した。
「あんまり見るなよ」
「見てない」
「そうかよ」
その目は、俺を透かしてどこか遠くのものを見ている。はじめは子供の俺でも思い出しているのかと思ったが、違う。きっとはるか昔に失ったものを思い出す目だ。
「尾形じゃない。俺は尾形なんて名前じゃなかった」
そうして何日かを過ごしたあとで、俺はそれを打ち明けた。けれど俺の本当の名前を呼ぶ人間ははじめから限られていたし、もう誰もいなくなった。杉元は何も尋ねなかった。その代わり、
「俺、不老不死なんだ」
と言った。
なんとなく知ってたぜ、と言ってやってもよかったし、驚いたふりをしても冗談はやめろと笑ってやってもよかった。けれど俺のうちに湧きあがったのは、哀れみに似たなにかだった。俺はどこかでそれをわかっていた。杉元は死なない。そしていつまでも生き続ける。それがどれだけ孤独なことか、俺には想像がつかなかった。
「それで、尾形が死ぬまで見ていようと思った。ほんとに見てるだけにしようと思ってたんだけど、どうしてこうなったかな」
「俺に聞くなよ。でも今、幸せだろ」
「はは、何その自信。尾形らしくない」
いつか俺が死ぬということが、杉元を安心させるようだった。その時に食べていたものがピザなのは失敗だった。そんな深刻な話、高い酒でも飲みながらすべきだったのに、俺たちの前にあるのは冷めたピザとクリスピーチキン、あと缶ビールとコカコーラ。いや、良い。ピザ食いながらだったら、どんな話も笑い話にできるかもしれない。
「--杉元佐一は、レイテで死んでる」
「戦争で?」
「そう。でも、俺がはじめて戦争に行ったのは、明治37年だ」
「西暦で言え」
「……忘れた。とにかくずっと昔だよ、お前が生まれるずっと前。だけどそこには“尾形”もいた」
杉元の話は荒唐無稽だった。時々言いよどんだが、「どうせ俺なんか数十年後には死んでるんだから話していけよ」と促すと、ビールを傾けて「ちがいねえ」と口の端を上げた。杉元と“尾形”は、決して戦友ではなく、友ですらなく、その間にはどんな絆もなかった。けれど、
「お前を殺すのは俺だって確信してた」
と、杉元は言った。
「“尾形”を殺すのは俺だ。俺はそう確信してたし、“尾形”のほうも多分、そうだったと思う」
ピザは冷めきって、固まったチーズがいやに舌に残った。杉元がじっと俺の顔を見た。それは今まで何度かあった慈しみか何かなんかとは程遠い、烈しく、冷たい目だった。
「そうか」
とだけ、俺はなんの意味もなさない相槌を打った。俺が夢に見たのは、このイメージだろうか。銃を背負い、雪原に一人、立っている。昔、子供の俺に杉元はこの話をしたのだろうか。俺はこの時、杉元を知っている、と思った。それが幼い日の記憶なのか夢の中のことなのかは、わからなかった。
「くだらない昔話だろ」
と杉元が言って、俺はちょっと笑ってうなずいた。
「それで? “尾形”のことは結局、殺せたのか」
結末は教えてもらえなかった。
蒸し暑い夜だった。窓から這入り込む街灯の光が、俺たちの上を四角く照らした。それが鬱陶しくて、水を飲みに立つのもめんどくさかった。細くあけた窓からクチナシの重くむせ返るようなにおいが、女の脚のように忍び寄ってくる。
「俺を殺したら、杉元も死ねるかな」
とつぶやくと、しばらくして
「でもお前、“尾形”じゃないだろ」
と杉元が言った。
「……俺じゃ駄目か」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。この夜を境に、俺には、この男がひどく哀れでほうっておけない、弱い生き物のように感じられた。武器も名前も剝ぎ取られて、波間を漂うように生きる男。もし俺が女だったら――我ながら苦い空想だが――きっとこの男を愛しつくし、そして自分の愛によって男が生きながらえるのを見て満足げに笑うのだろう。けれど俺は女ではなく、人を愛する術も持たず、そして杉元はどうやったら死ねるのだろうと考えた。
「一人で生きるのはつらいか、苦しいか」
もし杉元が少しでも肯定して俺に弱みを見せたら、きっとどんなに笑えることだろう。しかし杉元は何も言わなかった。眠ったふりをして、起きているときのままの静かな呼吸を繰り返していた。そして明け方、青白い空気のなかで「さびしい」とつぶやくのを、俺は夢のはざまに聞いた。
★次回!尾形が杉元を殺しまくる(死なない)